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尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

追悼・高野悦子

2013年02月15日 00時12分47秒 | 追悼
 岩波ホール総支配人高野悦子(たかの・えつこ)さんが9日、大腸がんで死去した。83歳だった。1929年、旧満州生まれ。52年、東宝入社。映画づくりを志して58年にパリ高等映画学院に留学。帰国後、助監督などで現場を経験した後、68年、岩波書店の岩波雄二郎さんが義兄だった縁で、東京・神田神保町に開いた岩波ホールの総支配人に就いた。(朝日新聞)

 岩波ホールで映画上映が定例化したのは、1974年である。僕はその年から通っている。最近こそ行かない映画もあるのだが、74年のサタジット・レイ「大地のうた」3部作から現在上映中の「最初の人間」まで、ほぼすべてに近い映画を見ている。それは興味深い映画を上映するからではなく、(そうだったのは80年代頃までの話)、文化運動としての「エキプ・ド・シネマ」を支援したいという気持ちからである。まあ、家からあまり遠くないということも大きいが、岩波ホールの映画は基本的に全部見ることにしていたのである。(退職後は、主に経済的な理由で、無理してまで見なくてもいいというスタンスに変えたが。)

 「エキプ・ド・シネマ」、つまり「映画の仲間」という会員組織にも、第1期から全部入っている。最初は一緒に始めた東宝東和の川喜多かしこさんの方が著名で、高野悦子さんのことは良く知らなかった。だんだん本を著したり、また東京国際映画祭が始まると「国際女性映画祭」をその中の企画として成功させ、高野さんの存在感が大きくなって行った。ついには「文化功労者」にも選ばれた。最近は「文化」の範囲も広くとらえられるようになり、横綱大鵬が選ばれたり、漫画界から水木しげるが選ばれたりしているが、映画上映運動(に限らず劇場等の支配人)から選ばれるというのは空前絶後のことではないかと思う。

 女性映画祭も僕は毎年のように一本くらいは見ている年が多いが、それより70年代半ばには演劇上演が何回か行われていたことも重要である。(白石加代子の「百物語」シリーズを考えれば、最近もあるわけだが。)「トロイアの女」「バッコスの信女」などは素晴らしかった。しかし、今考えれば舞台が小さいという問題はあっただろう。鈴木忠志が富山県利賀村に行ってしまったことが大きいのだと思うが、岩波ホールの演劇上演が70年代に止まってしまったのは残念なことだと思う。

 今でこそ岩波ホールはほぼ地下鉄神保町駅の真上にあることになる。しかし、74年当時はここは「陸の孤島」に近かった。だんだん都営地下鉄三田線、同新宿線、さらに東京メトロ半蔵門線が開通し、今は3線が乗り入れているが、昔はいずれも出来ていなかったのである。僕の家からは、東武線で北千住へ出て、そこから地下鉄千代田線に乗り換え、新御茶ノ水駅から歩く。これが今でも一番近い。このルートが出来て、家から御茶ノ水一帯が行きやすくなったので、僕は小学生時代から三省堂、書泉、東京堂などの大型書店に行くのを楽しみにしていた。ちょうど岩波ホールの映画上映が始まった時、僕は御茶ノ水に通っていた。浪人で駿台予備校に行っていた時代。だから岩波ホールは行きやすかったけど、最初のインド映画「大河のうた」(サタジット・レイ)単独上映には行ってない。この映画は「大地のうた」の続編にあたるので、前篇を見てないから行きにくかった。続いて三部作まとめての上映があったので、確かそれが最初の岩波ホール体験だと思う。

 岩波ホールの功績は、こういう形のアートシネマの「ミニ・シアター」を日本に根付かせたことにつきる。4時間もするギリシャ映画、アンゲロプロスの「旅芸人の記録」を79年に公開したことなどは、映画に止まらない「文化的事件」とでもいうべきものだった。2作目の「アレクサンダー大王」も岩波ホール。だが、次の「シテール島への船出」は、今はなき「シネヴィヴァン六本木」で上映された。80年代になると、セゾン系映画館が出てきて、さらにシャンテ・シネ、シネマライズ渋谷など、世界の映画祭で受賞したような映画は岩波以外で上映されてしまうようになった。高野悦子と言う人がいて、先駆者の役を務めたのだと思っている。

 初期のプログラムを見ると、ベルイマンレイワイダフェリーニなど著名な巨匠の名前が並んでいる。それらの中で、特筆すべきはヴィスコンティの「家族の肖像」で、今ではヴィスコンティの新作が公開されていなかったのは信じられないのだが、当時は「ベニスに死す」が当たらず敬遠されていたのである。「ルードヴィヒ」「熊座の淡き星影」など未公開の重要作も岩波で公開された。岩波ホールを通してヴィスコンティはブームを呼んで、一般映画館でも上映されるようになった。こうして、70年代の挫折と内向の時代に、世界のアートシネマ上映を通して風穴を開けて行ったのだと思う。

 また、アジア、アフリカ、ラテンアメリカ、東ヨーロッパの映画をたくさん上映したこと女性監督記録映画、他では上映されないような社会派映画、未公開のままだった歴史上の名画などもたくさん上映している。中国映画の「芙蓉鎮」、黒木和雄監督が井上光晴原作を映画化した「TOMORROW 明日」(長崎の原爆投下前日を描く)、今度再公開されるアメリカ映画「八月の鯨」がラインアップに並んでいる1988年頃が、岩波ホールの映画は映画ファンでなくても見ておかなくちゃみたいな感じが一番強かった時代ではなかったか。

 こうして、岩波ホールの映画上映運動が観客を育て、必ず見る観客を作っていったと思う。しかし反面、いかにも「岩波的」というか、多少カラカイ気味に「岩波知識人」と言ったりするのと同じような、「岩波ホール映画」とでも言うような、マジメで世界の情勢や社会問題、女性問題や高齢者問題をお勉強するような映画が多くなって行ったという感じもしていた。だからいつ行っても、若い人が少なくなり(自分も日々若くなくなっていくわけだが)、高齢の女性観客割合が高い映画館になっていた。

 他にもアートシネマをやってくれる映画館が増え、岩波ホールの映画が今一つ面白くなくなっても、僕が岩波ホールに行き続けたのは、岩波ホールが「エキプ・ド・シネマ」という運動であり、先駆者である高野悦子さんに感謝の気持ちを持ちつづけ、個人的な顕彰運動をしていたからである。多分そういう気持ちで、岩波ホールの映画は見ておこうと思っている人も多いと思う。

 岩波ホールで公開された映画で、あまり触れられない映画について最後に書いておきたい。まずは、つい最近訃報が伝えられたポルトガルの映画監督パウル・ローシャである。ポルトガルのヌーヴェルヴァーグと言われる瑞々しい青春映画「青い年」「新しい人生」が60年代に作られ、ヨーロッパでは評価されていた。この2作が80年に岩波で公開されたあと、ローシャは日本で映画を作る。明治時代に来日し、最後は徳島に住んだ文筆家モラエスを映画化した「恋の浮島」である。これは立派な映画だったが、あまり評価されなかったのは残念である。

 もう一人、セネガルの映画監督、ウスマン・センベーヌも忘れられない。ブラックアフリカの映画はほとんど商業公開されない中、「エミタイ」「チェド」「母たちの村」と3作も公開されている。現代アフリカを代表する映画が公開されたことは、非常に重要な功績ではないか。また、トリュフォーの「緑色の部屋」は死者に取りつかれたような人間を描く問題作で、大変美しい映画で大好きなのだが、岩波で公開された後、どのトリュフォー特集でも上映されない。日本映画では村野鐵太郎監督が森敦の原作を映画化した「月山」が素晴らしかった。また、小栗康平監督の「眠る男」も大変な傑作だと思うが、韓国の名優アン・ソンギに眠るだけの男を演じさせて話題になった。このように、なかなか他で上映できない数々の素晴らしい映画を上映したのが岩波ホールだった。

 ちなみに、岩波ホールで公開された映画の製作国を書いて終わりたい。ほとんど見たことがない国の映画が多いのではないか。というか、どこにある国か、判るでしょうかという感じである。
 インド、エジプト、日本、フランス、スウェーデン、ブルガリア、アメリカ、イタリア、ソ連、ハンガリー、コートジボアール、グルジア、ルーマニア、デンマーク、ギリシャ、ポルトガル、ポーランド、ベトナム、セネガル、ドイツ、ユーゴスラヴィア、ニカラグア、トルコ、アルゼンチン、中国、イギリス、インドネシア、コロンビア、韓国、カナダ、キューバ、インドネシア、タイ、オランダ、ボスニア、香港、フィリピン、イラン、イスラエル
 この驚くべき数の多さ。やはり単なる映画館というより、民間の文化交流運動と言うべき仕事をした人だったと言う思いがする。(2022.1.13一部改稿。トリュフォー監督「緑色の部屋」はその後全作品上映などで見られた。岩波ホールは2022年7月で閉館すると1月に発表された。)
コメント (2)
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