尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

超絶面白本、西加奈子「サラバ!」を読みふける

2017年11月13日 23時06分40秒 | 本 (日本文学)
 ここ数日、西加奈子(1977~)の直木賞受賞作サラバ!」(小学館文庫、上中下)を読みふけっていた。とんでもなく面白くて、心の奥にズシンと響いてくる。すごい小説である。原著が2014年に出た時、直木賞確実と言われてものすごい評判だったけど、あまりに分厚くて文庫になったら読もうと思った。今回文庫になったら上中下3巻もあるではないか。買う時にうっかり中巻を買い忘れるところで、店員さんが注意してくれて助かった。(僕は文庫は買って読みたいと思うし、ちゃんと書店で買いたいなと思っている人間である。)合計1,860円+税。絶対に高くない。

 この本は基本的には、圷歩(あくつ・あゆむ)、後に両親が離婚して母方の姓を名乗った今橋歩という男性の37年間の自伝という体裁で書かれている。著者は女性なんだから、ホンモノの自伝のはずがない。でも、ここで書かれている小学校低学年でエジプトに住んだ時の描写なんか、とても想像だけでは書けないだろう。調べてみると、やっぱり著者は1977年にイランで生まれ、後にエジプトにも住んでいた。大阪の人間という点も共通している。もっとも歩は東京の大学に進むのに対し、著者は関西大学卒業。実際の体験が入っていても、やはり想像力で書かれた同時代の精神史である。

 書きたいことはいっぱいあるけど、一応ストーリーを簡単に。歩は(もちろん本人は知らないことだけど)イスラム革命直前のイランに生まれた。父親が石油会社の海外駐在員だったから。革命で帰国して大阪に住むが、4歳上の姉・貴子が小学校で「問題児」となり、いじめられる。母親は娘とうまくいかず、歩に期待する。歩は幼いころから自分を消して周囲に溶け込むように生きるすべを身につけ、幼稚園、小学校を楽しく暮らすけど、父はまたエジプト勤務となってカイロに赴く。初めてのエジプトは何しろ匂いが強烈で、トイレもすごい。豪華なマンションに住んで日本では考えられない暮らしをする。日本人学校で友だちもできるけど、それ以上になぜか気があった現地の少年、ヤコブと固い友情を結ぶことになる。ここまでが上巻で、「サラバ!」の由来は上巻の最後に出てくる。

 ここまででもちょっとすごい幼児体験だけど、だんだん両親に不穏なムードが漂い始め、突然の離婚で帰国することになる。姉は相変わらず日本の中学で孤立し、歩は孤立しないように柔道を始めようとして母親の強い反対で、サッカーを始める。中学のサッカー部と男女交際、私立男子校に入って、須玖(すぐ)という友人と出会い、本や映画や音楽の世界を知る。だが、そこに1995年の阪神大震災、続く地下鉄サリン事件が感受性の鋭い須玖の心を閉ざしてしまう。一方、姉・貴子は前に住んでいたアパートの大家を中心にした宗教(のようなもの)で、神様のように奉られたあげく、マスコミにうさん臭いと取り上げられ、心を閉ざすようになる。ここまでが中巻の前半。

 後半で彼は東京へ来て、さまざまな体験をしながらライターとして暮らすようになる。何人もの女性と関係を持つが、やがて別れがやってくる。そして、姉はどうなる、歩の家族は、と話はずっと続くわけだけど、一応それは自分で読んでもらうことにしてストーリー紹介は止める。下巻になると、ええっと思う展開もあるけど、けっこう「こうなるな」と思うところも多い。上中で拡散した伏線を回収して、この壮大な物語にまとまりを付けるにはどうなるか。(ヒントを書いておくと、2011年に日本とエジプトで何が起こったか、思い出してほしい。)それでも姉の関わった「サトラコヲモンサマ」の名前の由来にはぶっ飛んだ。最後の頃に出てくる父母の離婚の理由も読まないと判らない。

 読んでみて、よくもまあ女性にして、思春期の男子の気持ちがここまで書けたなあと思った。中学時代なんか思い当たることが多い。基本的に歩は容姿に恵まれ、姉は恵まれなかった。いじめられっ子の姉のことを知られたくない歩は、がんばって「フツー」を演じて、本心を消すように生きて来た。その甲斐あって、容姿に恵まれた歩はモテるのである。大学1年の時なんか、手あたり次第。それも30過ぎると終わってしまう。その終わり方はビックリだけど、若さや容姿で勝負できる時期なんか、あっという間に過ぎてしまうのである。パートナーやセクシュアリティの問題も大きなテーマである。

 だけど、やっぱりこの本の一番大きなテーマは「家族」と「宗教」だと思う。社会や政治、男女関係、学校、労働、文化など様々な問題が出てくるけど、人間にとって一番大きいのはやっぱり「家族」なんだと思う。僕も(世界中のすべての人と同じように)、気が付いてみれば今の時代に生きていた。気が付いたら日本語で話し、考えていた。人間は与えられた条件の中で生きていくわけだが、同時代を生きる人なら世界に何十億、日本でも1億以上いる。でも、同じ家族に生まれた人は限られる。親は選べないから、これも気づいてみれば親子になっていた。

 歩の人生を読むと、小さいころはこんな大変な家はないという感じ。姉はとんでもないし、母も自分勝手である。父親だってかなり変で、ここまで変な一族に囲まれた末っ子のアユムくん、よくやってるじゃないかと拍手を送りたいぐらいである。でもだんだん歩クンもおかしくなってくる。家がもっと裕福なら、自分がもっと容姿に恵まれていたら…と考えない人は少ないだろう。その恵まれた境遇にいるはずの歩。だが、彼は自分は家族の被害者だと思って生きていた。実際小さなころはそうなのである。一番幼い彼にできることなんかない。しかし、そうやって「被害者として、声を潜めて生きる」ことが彼の心をむしばんでしまう。「歩」と名付けられたけれど、彼はずっと自分で歩いていなかった。

 姉の心を閉ざしていたものは何か。よく判らないんだけど、何か切実に信じられるものを求めては、裏切られ続けていく。そんな姉が自ら歩み始めるとき、「信じる」って何だろうと深く考え込む。それは「宗教」かもしれない。実際、父は出家して仏門に入るし、歩の子どもの頃の親友ヤコブはエジプトのコプト教徒だった。エジプトでは朝の祈りの時間を知らせる「アザーン」で起きるし、姉は一時は宗教の教祖のようになる。歩はまったく宗教に関わらないけど、これほど宗教に近い人生を送って来た日本人も少ないと思う。そういう彼を通して、僕らも「神」または「運命」をとことん考える。

 僕にももちろん多くの「出会い」があり、多くの「サラバ!」があった。いつもは忘れているけれど、その一つ一つはやっぱり「奇跡」だった。誰にでもきっといくつも思い当たることがあると思う。出会ったり、別れたりを繰り返しながら、最後には全員と「死」という別れで「サラバ!」である、僕らの人生。でも、その中で多くの奇跡も起こったではないか。それは「神」がいるのか、単なる偶然か、そんな問題はどっかへ追いやって、僕らは歩の人生を通して、僕ら自身の人生の「奇跡」を静かに見つめてみようか。それが「サラバ!」を読んで心を揺さぶられた僕が思ったこと。

 僕は西加奈子さんの本を読むのは初めて。「サラバ!」以前は、そういう名前の作家がいるな程度の認識で、西野カナがエッセイ書いてるんかと昔は思ってた。これからちゃんと読みたくなってきた。なお、本の中にユダヤ教コプト教が重要な役割で登場する。イスラム教キリスト教との関係を説明する注があった方がいいんじゃないかと思う。一神教であることは共通で、神は同じである。コプト教はキリスト教の一派で、451年の公会議で主流派と分かれた。主にエジプトで人口の1割程度の信者がいる。エチオピアやアルメニアの正教会と近い関係にある。ユダヤ教は旧約聖書しか認めないが、イエスを神の子として新約聖書を認めるのがキリスト教。イエス(イーサー)も預言者と認めるけど、ムハンマドが最後に現れた預言者と信じるのがイスラム教。
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