「僕の東京物語」の2回目。前回東京近郊の農村地区で育った話を書いた。僕があぜ道の中を通った伊興小学校は何と1874年開校とうたっている。もっとも分校として出発したらしいが、とにかく150年の歩みを持っているのだ。そして、ここは母親の母校でもあった。母方の大家族に同居していたわけではない。たまたま母の実家近くに、東武鉄道の建売住宅が作られた。両親は昭和20年代にともに東武鉄道に勤務していて知り合った。そして東武が住宅開発に乗り出した最初の戸建て住宅を買ったわけである。これが今も自分が住んでいる土地で、僕が足立区北部で育ったのは偶然ではない事情があったわけである。
小学校時代はまだまだ辺りは田園地帯で、小学校も小さかった。(今なら近くの別の小学校に通ったはず。)全部で4クラスである。個人的な思い出はいろいろあるが、当時の世の中に関わる記憶を書いてみたい。小さな頃は家に電話がなかった。もちろん今「固定電話」と呼ばれているもののことだ。当時はクラスメートで電話がある家はまだ2割程度だったと思う。PTA会員名簿には、(呼)という番号が書かれていて、近所の電話がある家の番号が書いてあった。子どもは学校で怪我したり発熱することがあるから、近所の電話がある家が連絡先になっていた。まあ、そういう状態は小学校時代に終わったと思うが。
日本の高度経済成長とともに、急激に電化が進んでいた時代である。電気器具のいわゆる「三種の神器」、冷蔵庫、掃除機、白黒テレビは、小学校低学年時代にそろったと思う。つまり、僕は「テレビがない時代」を覚えているのである。小津安二郎監督の『秋刀魚の味』(1962)に掃除機を買うかどうかという話が出て来るが、まさにそういう時代だった。お風呂も薪を焚いて沸かしていて、僕も子どもながら薪割りをしていた。もちろん家の風呂は毎日入るものじゃなかった時代である。
そんな時代の東京に一大イヴェントがやってきた。東京オリンピックである。当時は小学校3年だったはず。確か高学年になるとあまり人気がない競技の見学に行っていたと思うが、僕たちは教室で「テレビ観戦」していた。突然各教室に白黒テレビが配備され、授業として見て良かったのである。もっとも何を見たかあまり覚えてない。今でもそうだけど、重要な決勝などは夜になるわけで、大事な試合は家で見たんじゃないか。だから一番の思い出は、開会式(1964年10月10日)の「五輪の輪」になる。
そしてもう一つは閉会式だった。開会式も記憶にあって、当時としては最多の参加国が行進した。NHKテレビの放送で北出清五郎アナが各国の名前を読み上げていった。それをマネ出来るというのが僕の世代には時々いるが、僕もある時期までは出来た。そして1945年8月6日に広島県で生まれた青年(坂井義則=早稲田大学競走部所属。後フジテレビ社員、2014年没)が聖火ランナーとして登場した。そういう事情は子どもながらに全部知っていて「平和の祭典」だと思って喜んでいたのである。そして祭りは終わる。最後の閉会式は隊列が崩れ参加者皆が手を取り合っていた。そういう式もアリなんだと非常に強烈なインパクトを受けた。
もう一つ強烈な思い出は1966年3月4日のカナダ太平洋航空機事故である。1966年は歴史に残る悲惨な飛行機事故が続いた年だった。まず2月4日に全日空機羽田沖墜落事故(死者133名)、一月後のカナダ太平洋航空機事故(死者64名)、そして翌日にはBOAC(英国航空)機空中分解事故(死者124名)、11月13日に全日空機松山沖墜落事故(死者50名)と乗客に大きな被害が起きた航空事故が日本で連続したのである。その後、さらに大規模な事故、特に1985年の日航機事故があり、当時を知っている人でも1966年の悲惨な連続事故は忘れている人が多いのではないかと思う。
その中でも特にカナダ太平洋航空機事故を覚えているのは、この事故で同学年の女子生徒が亡くなったからである。もっともその子と話した記憶はない。一度も同じクラスにならなかったからだ。でも名前と顔は知っていたのは、割合有名な一家だったからだろう。父親は仕事でシンガポールに赴任していて、母親とその子も確か途中でシンガポールに行った。そして記憶で書くと新学期から日本に戻るということで、父に先立って母子で帰国したという話だったと思う。だから3月4日という日付になる。
話したこともないんだから個人的な思い出はない。しかし、初めて「死」が日常的な世界に飛び込んできたのが衝撃だったのである。しかも新聞の一面に名前が載るような形で、知り合いが登場した。そんな風に事件事故に巻き込まれた知人はその後もいないのだから、子どもとしては強烈な思い出になるわけである。その後少女雑誌(「少女フレンド」とか「なかよし」とか)が取材に来たのも覚えている。友だちだった女子に「窓のそばに立って」「空の方を見て」とか振付をして「悲しそうな顔」の写真を何枚も撮っていった。そういう「演出」をして写真が「作られる」のだということも初めてしったわけである。
先ほどの事情から母子ともに亡くなり、残った父親がその後小学校に遊具(ジャングルジムなど)を寄贈した。正月に行った時には無くなっていたが、半世紀以上前のものだから残っているわけもないだろう。しかし、そういうエピソードがあったということは、誰かが語り継いで欲しいなと思う。その後僕は地理や歴史に関心を持つようになり、新聞も毎日読むようになった。そんな話はまた別の機会に書きたいと思う。