2024年9月26日(木)午後2時、いわゆる「袴田事件」の再審無罪判決が静岡地裁で出た。行こうかなとも思ったが、結果は無罪に決まってるし、さすがに静岡は遠いので止めることにした。傍聴券の倍率は10倍以上で当たるはずがないし、そもそも僕ではなくもっとふさわしい長年の支援者が傍聴するべきだろう。(自分は袴田事件の支援者だったわけではないので。)
その代わり、28日に開かれた日弁連主催の市民集会「司法に翻弄された58年間~袴田事件判決と今なお続くえん罪被害」(弁護士会館)に参加して、姉の袴田ひで子さんのあいさつ、小川秀世弁護団事務局長の報告を聞いてきた。狭山事件の石川一雄さん、足利事件の管家利和さんなどからの訴えもあった。いずれも何度も聞いてきたが改めて感慨を覚えた。
今まで「袴田事件」については、何度も書いてきた。何回書いたか調べてみたら、一般的な冤罪問題や再審法改正などを書いた記事を別にして、この事件に絞って書いたものに限っても、以下のように8回あった。ブログ開始翌年に新鑑定が報道され、2014年に最初の開始決定が出たときのことが思い出される。「死刑囚」である袴田さんが、「拘置をこれ以上継続することは、耐え難いほど正義に反する」として、即日釈放されたことにはビックリした。裁判所が重大証拠を「ねつ造の疑い」と断言したことにも驚いた。もちろん弁護団の主張は知っていたし、僕もそう信じていたが、裁判所がきちんと判断したことに驚いたのである。
それで終わるかと思ったら、検察の抗告、それを認めて再審開始を取り消した東京高裁と時間ばかりが経ってしまった。その間に折々に書いてきたことになる。1970年代後半に「冤罪では?」と問題視され始めたが、当時は大手新聞やテレビなどは全く取り上げていなかった。僕は1980年の最高裁判決(死刑)を傍聴している。それ以来、44年。ようやく聞かれた「無罪」の言葉である。
ところで、「いわゆる袴田事件」と最初に書いた。これはどういう意味があるかというと、1966年に起きた味噌会社専務一家殺害事件は袴田巌さんとは何の関係もない。たまたまその会社に勤務していて、深夜に火事になったたのでパジャマ姿で消火を手伝ったのである。(そのことは争えない事実なので、検察側は当初「犯行」後に着衣を脱ぎ、パジャマに着替えて消火活動に参加したという荒唐無稽な主張を行った。)それなのに事件名が「袴田事件」というネーミングは不当だろう。そこで地名を冠して「清水事件」と呼ぼうと提唱されたが定着しなかった。
もし「袴田事件」と言うのなら、その「現場」は清水市(現静岡市清水区)の味噌会社ではなかった。「事件は清水署取調室で起こった」のである。そこで繰り広げられた無実の袴田巌さんに対する、拷問、強要、監禁、傷害そして「殺人未遂」こそ「袴田事件」と言うべきだろう。「殺人未遂」というのは、証拠をねつ造、隠匿し、そのことを知りながら(警察官、検察官は証拠を隠して、裁判で偽証しているから、無実を知っていたのである)、「死刑」を求刑したからである。
判決で認定されたことは次回に考えるが、この事件は日本司法史上最悪レベルの歴史的冤罪事件である。死刑が確定して処刑されてしまった事件は他に複数あるので、「袴田事件」が最悪とは言わない。だが死刑執行事件で再審が開かれた事件は未だない。「袴田事件」は裁判所に「証拠ねつ造」が認められたという意味で歴史に残るのである。検察官、警察官も「人間だから間違うこともある」のではない。「証拠をねつ造し、隠して、有罪を求刑した」のだから、それは「権力犯罪」だった。そのことをまざまざと証したことが、この事件の最大の教訓である。
しかし、権力犯罪の企みは寸前のところで阻止されたのである。あり得ないほどの(半世紀以上にわたる)時間が掛かり、袴田巌さん本人は「死刑の恐怖」により心を破壊されてしまった。拘置が解ければやがて戻ると思われていたが、結局14年になるが未だに「夢の中」に住んでいる。(そういう袴田巌さんに対して長年見守り活動を続けてきた浜松の支援者に敬意を表したい。)弁護団だけでなく、今まで支えてきた数多くの支援者の存在あって、この大々的な権力犯罪を阻止できたのである。「袴田事件無罪判決」は日本民衆運動史に残る輝かしい成果でもあったと思う。
(今まで書いた8本の記事は以下の通り。)
①『袴田事件、DNA鑑定は「不一致」』(2012.4.12)
②『袴田事件と名張事件』(2012.7.7)
③『袴田事件再審の決定迫る』(2014.3.26)
④『画期的な決定-袴田事件の再審開始決定』(2014.3.27)
⑤『支援するという意味-袴田事件から』(2014.3.28)
⑥『袴田事件の再審、不当な取り消し決定』(2018.6.11)
⑦『再審に光が見えたー袴田事件最高裁決定』(2020.12.24)
⑧『袴田事件の再審開始決定、検察は特別抗告するな!』(2023.3.13)
その代わり、28日に開かれた日弁連主催の市民集会「司法に翻弄された58年間~袴田事件判決と今なお続くえん罪被害」(弁護士会館)に参加して、姉の袴田ひで子さんのあいさつ、小川秀世弁護団事務局長の報告を聞いてきた。狭山事件の石川一雄さん、足利事件の管家利和さんなどからの訴えもあった。いずれも何度も聞いてきたが改めて感慨を覚えた。
今まで「袴田事件」については、何度も書いてきた。何回書いたか調べてみたら、一般的な冤罪問題や再審法改正などを書いた記事を別にして、この事件に絞って書いたものに限っても、以下のように8回あった。ブログ開始翌年に新鑑定が報道され、2014年に最初の開始決定が出たときのことが思い出される。「死刑囚」である袴田さんが、「拘置をこれ以上継続することは、耐え難いほど正義に反する」として、即日釈放されたことにはビックリした。裁判所が重大証拠を「ねつ造の疑い」と断言したことにも驚いた。もちろん弁護団の主張は知っていたし、僕もそう信じていたが、裁判所がきちんと判断したことに驚いたのである。
それで終わるかと思ったら、検察の抗告、それを認めて再審開始を取り消した東京高裁と時間ばかりが経ってしまった。その間に折々に書いてきたことになる。1970年代後半に「冤罪では?」と問題視され始めたが、当時は大手新聞やテレビなどは全く取り上げていなかった。僕は1980年の最高裁判決(死刑)を傍聴している。それ以来、44年。ようやく聞かれた「無罪」の言葉である。
ところで、「いわゆる袴田事件」と最初に書いた。これはどういう意味があるかというと、1966年に起きた味噌会社専務一家殺害事件は袴田巌さんとは何の関係もない。たまたまその会社に勤務していて、深夜に火事になったたのでパジャマ姿で消火を手伝ったのである。(そのことは争えない事実なので、検察側は当初「犯行」後に着衣を脱ぎ、パジャマに着替えて消火活動に参加したという荒唐無稽な主張を行った。)それなのに事件名が「袴田事件」というネーミングは不当だろう。そこで地名を冠して「清水事件」と呼ぼうと提唱されたが定着しなかった。
もし「袴田事件」と言うのなら、その「現場」は清水市(現静岡市清水区)の味噌会社ではなかった。「事件は清水署取調室で起こった」のである。そこで繰り広げられた無実の袴田巌さんに対する、拷問、強要、監禁、傷害そして「殺人未遂」こそ「袴田事件」と言うべきだろう。「殺人未遂」というのは、証拠をねつ造、隠匿し、そのことを知りながら(警察官、検察官は証拠を隠して、裁判で偽証しているから、無実を知っていたのである)、「死刑」を求刑したからである。
判決で認定されたことは次回に考えるが、この事件は日本司法史上最悪レベルの歴史的冤罪事件である。死刑が確定して処刑されてしまった事件は他に複数あるので、「袴田事件」が最悪とは言わない。だが死刑執行事件で再審が開かれた事件は未だない。「袴田事件」は裁判所に「証拠ねつ造」が認められたという意味で歴史に残るのである。検察官、警察官も「人間だから間違うこともある」のではない。「証拠をねつ造し、隠して、有罪を求刑した」のだから、それは「権力犯罪」だった。そのことをまざまざと証したことが、この事件の最大の教訓である。
しかし、権力犯罪の企みは寸前のところで阻止されたのである。あり得ないほどの(半世紀以上にわたる)時間が掛かり、袴田巌さん本人は「死刑の恐怖」により心を破壊されてしまった。拘置が解ければやがて戻ると思われていたが、結局14年になるが未だに「夢の中」に住んでいる。(そういう袴田巌さんに対して長年見守り活動を続けてきた浜松の支援者に敬意を表したい。)弁護団だけでなく、今まで支えてきた数多くの支援者の存在あって、この大々的な権力犯罪を阻止できたのである。「袴田事件無罪判決」は日本民衆運動史に残る輝かしい成果でもあったと思う。
(今まで書いた8本の記事は以下の通り。)
①『袴田事件、DNA鑑定は「不一致」』(2012.4.12)
②『袴田事件と名張事件』(2012.7.7)
③『袴田事件再審の決定迫る』(2014.3.26)
④『画期的な決定-袴田事件の再審開始決定』(2014.3.27)
⑤『支援するという意味-袴田事件から』(2014.3.28)
⑥『袴田事件の再審、不当な取り消し決定』(2018.6.11)
⑦『再審に光が見えたー袴田事件最高裁決定』(2020.12.24)
⑧『袴田事件の再審開始決定、検察は特別抗告するな!』(2023.3.13)
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