この間「体罰」に関する議論を見ていて、僕が一番おかしいと思ったのは「体罰フィフティー・フィフティー論」である。これは朝日新聞のスポーツ欄1月30日付の「スポーツと体罰 番外編」という企画の中に書いてあった。「ある高校の球技の監督は練習中に生徒を殴る。一度に数十回殴ったこともある。『生徒たちも一生懸命でないから指導された、と分かってくれている部分が大きい。体罰は一方的だと言われるが、私はフィフティー・フィフティーと思っている。生徒が公にすれば私は職を失うわけです。生徒はそれを分かった上でついてきてくれている。1発で暴行になるのか、10発でも愛のムチだと思ってくれるか、結局は信頼関係」
これはないだろうと思う。いや、指導力のある教員が暴力を振うが、生徒は信頼してついてくるということはあるだろう。指導される方にも力の差があり、この顧問の指導について行き、自分も評価されるような成績をあげ選手として認められたいと思う生徒はいる。でも、そうでない生徒もいる。強い部活で、それを承知で頑張るつもりで入学してきた生徒でも、ケガしたり人間関係に悩んだりして、なかなか部活に集中できないこともある。実力差もやる気も様々な生徒を「一生懸命でないから」と言って暴力でやる気を出させようという発想は、「教育」とは言えない。
そういう問題もあるけど、「それを公にすればその先生が職を失うという情報」と「暴力」が、フィフティー・フィフティーで「対等の関係」だと思っているということが間違っている。そんな情報を持たされたら、生徒の心は真っ暗でものすごい負担である。「おれはこれから体罰をするが、おれの指導を信頼できないと思ったら、教育委員会なりマスコミなりにばらして、おれをクビにしてもいいぞ」と思いながらやる「体罰」が、対等の関係のはずがない。これは典型的な「パワハラ」的な発想である。こんなことをされたら、暴力そのものも嫌だろうが、その際の「信頼関係があるからおれのことを密告しないよな」という上からの思い込みの方が生徒に嫌な感じを与えるだろう。
生徒からすれば「密告」は非常に大きな負担である。校内に信頼できる教員がいればいいが、これほど指導力に思い込みのある教員を注意できる人は、管理職でもそうはいないだろう。うっかり相談して、お前がもっと頑張れと突き放されたら、その学校で居場所がなくなる。では、教育委員会やマスコミに訴えればいいかと言えば、その場合は自分の身をさらして「清水の舞台から飛び降りる」決心が必要だ。精神的負担をおいても、それに取られる時間を考えるだけで、心がなえてくるというのが普通の生徒だろう。顧問の教員にも家族がいるだろうから、自分が「体罰」を公にした結果本当に失職でもしたら、生徒の側も一生心の負担である。強い者(上司など)が「セクハラ」をしてきて、「訴えたければ訴えればいいよ」というのは、パワハラそのものでしょ。セクハラを公にすれば上司も飛ばされる、だから「セクハラはフィフティー・フィフティーだ」と主張するとすれば、どれだけ非常識か判ると思う。
こういうのは、典型的な「冷戦思考」だと思う。双方に「マイナス」があれば、それで「恐怖の均衡」が保たれるだろうという考え方である。貿易や文化交流などでは、今は「wín-wín」(ウィン・ウィン)関係でないといけないだろう。片方が一方的に利益を得るのではなく、両方が勝つという関係である。「教師には暴力があるが、生徒は公にすれば教師を失職させられる」というのでは、「zero-sum」(ゼロ・サム)関係である。これはこれで「対等」かもしれないが、現代の教育では間違っている。
このような主張は、その指導で傷ついた生徒を思いやることがないからできるものだと思う。学校と言う場で教師が誰をも何ら傷つけずに仕事をすることは不可能だと僕は思っているが、それでも「弱い側」の存在を思うことは大事だ。教師の暴力、パワハラで心に傷を負う生徒はいっぱいいる。特に部活で高校に進学して、途中で挫折した生徒は誰にもケアされず、自分が弱かった、自分が下手だったと思って悩んでいる。高校によっては、退部したら事実上退学せざるを得ないような高校もある。強い部活で教師についてこられた生徒はいいけど、そうでない生徒は必ずいて悩んでいる。教師と言う存在は、「できる生徒」と「できない生徒」では、別のものに見えている。そのことを忘れてはいけない。同窓会なんかで話していると、そういう見え方の違いに気付かされたりする。教員はできる生徒だったことが多いわけで、勉強ができない生徒、運動神経がない生徒、絵や音楽が不得意な生徒の気持ちがなかなか判らない。肝に銘じて置かないと、思わず強者の主張をしてしまい、自分が強者だということにも気づかないでしまう。この「体罰フィフティー・フィフティー論」は典型的な例ではないか。
これはないだろうと思う。いや、指導力のある教員が暴力を振うが、生徒は信頼してついてくるということはあるだろう。指導される方にも力の差があり、この顧問の指導について行き、自分も評価されるような成績をあげ選手として認められたいと思う生徒はいる。でも、そうでない生徒もいる。強い部活で、それを承知で頑張るつもりで入学してきた生徒でも、ケガしたり人間関係に悩んだりして、なかなか部活に集中できないこともある。実力差もやる気も様々な生徒を「一生懸命でないから」と言って暴力でやる気を出させようという発想は、「教育」とは言えない。
そういう問題もあるけど、「それを公にすればその先生が職を失うという情報」と「暴力」が、フィフティー・フィフティーで「対等の関係」だと思っているということが間違っている。そんな情報を持たされたら、生徒の心は真っ暗でものすごい負担である。「おれはこれから体罰をするが、おれの指導を信頼できないと思ったら、教育委員会なりマスコミなりにばらして、おれをクビにしてもいいぞ」と思いながらやる「体罰」が、対等の関係のはずがない。これは典型的な「パワハラ」的な発想である。こんなことをされたら、暴力そのものも嫌だろうが、その際の「信頼関係があるからおれのことを密告しないよな」という上からの思い込みの方が生徒に嫌な感じを与えるだろう。
生徒からすれば「密告」は非常に大きな負担である。校内に信頼できる教員がいればいいが、これほど指導力に思い込みのある教員を注意できる人は、管理職でもそうはいないだろう。うっかり相談して、お前がもっと頑張れと突き放されたら、その学校で居場所がなくなる。では、教育委員会やマスコミに訴えればいいかと言えば、その場合は自分の身をさらして「清水の舞台から飛び降りる」決心が必要だ。精神的負担をおいても、それに取られる時間を考えるだけで、心がなえてくるというのが普通の生徒だろう。顧問の教員にも家族がいるだろうから、自分が「体罰」を公にした結果本当に失職でもしたら、生徒の側も一生心の負担である。強い者(上司など)が「セクハラ」をしてきて、「訴えたければ訴えればいいよ」というのは、パワハラそのものでしょ。セクハラを公にすれば上司も飛ばされる、だから「セクハラはフィフティー・フィフティーだ」と主張するとすれば、どれだけ非常識か判ると思う。
こういうのは、典型的な「冷戦思考」だと思う。双方に「マイナス」があれば、それで「恐怖の均衡」が保たれるだろうという考え方である。貿易や文化交流などでは、今は「wín-wín」(ウィン・ウィン)関係でないといけないだろう。片方が一方的に利益を得るのではなく、両方が勝つという関係である。「教師には暴力があるが、生徒は公にすれば教師を失職させられる」というのでは、「zero-sum」(ゼロ・サム)関係である。これはこれで「対等」かもしれないが、現代の教育では間違っている。
このような主張は、その指導で傷ついた生徒を思いやることがないからできるものだと思う。学校と言う場で教師が誰をも何ら傷つけずに仕事をすることは不可能だと僕は思っているが、それでも「弱い側」の存在を思うことは大事だ。教師の暴力、パワハラで心に傷を負う生徒はいっぱいいる。特に部活で高校に進学して、途中で挫折した生徒は誰にもケアされず、自分が弱かった、自分が下手だったと思って悩んでいる。高校によっては、退部したら事実上退学せざるを得ないような高校もある。強い部活で教師についてこられた生徒はいいけど、そうでない生徒は必ずいて悩んでいる。教師と言う存在は、「できる生徒」と「できない生徒」では、別のものに見えている。そのことを忘れてはいけない。同窓会なんかで話していると、そういう見え方の違いに気付かされたりする。教員はできる生徒だったことが多いわけで、勉強ができない生徒、運動神経がない生徒、絵や音楽が不得意な生徒の気持ちがなかなか判らない。肝に銘じて置かないと、思わず強者の主張をしてしまい、自分が強者だということにも気づかないでしまう。この「体罰フィフティー・フィフティー論」は典型的な例ではないか。
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