尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

「体罰」と「私的制裁」の間

2013年02月10日 23時38分47秒 | 教育 (いじめ・体罰問題)
 「体罰」の問題について、「『体罰』の本質は『DV』である」を書いた後、早期退職問題や映画などを書いてて話が途中になっている。この問題について何回か書いてみたい。まず、「学校内で起こった暴力事件を全部、体罰と呼ぶ」という定義で話が進んでいるような気がするのだが、それでいいのだろうか。「暴力」と「体罰」は違うのではないだろうか

 「体罰」という言葉の「」は「身体に対して直接加えられる」という意味である。これも考える問題があると思うのだが、それは次回以後に。「」は「罪に対して償いの意味で課される刑」と一応書いておきたい。刑罰の本質が、応報か教育かという問題は刑事政策上の大問題だが、「体罰」の場合は「応報でもあるが、本人にとっては教育の意味を持つ」ということになるだろう。そうすると、「罪」があることと「刑の平等性」があることが「体罰の前提」であるはずだ。

 戦前の小説や映画なんかを見ると、「授業中に騒ぐ」「宿題をやってこない」「そうじをさぼる」などのルールに反した行為があると、よく「水をいっぱい入れたバケツを持たせて廊下にたたせる」なんてことがあった。こういうのが本来「体罰」というものだろう。大体、授業中だけのつもりが、教師が忘れて放課後ずっと立ちっぱなし…といったドラマが起こることが多い。授業や清掃などで迷惑な行為があると、それは悪いことだという了解が教員と生徒集団の間に存在する。そういう「罪」が犯された場合は、大体「廊下に水バケツで立たせる」罰になる。そういう「量刑の平等性」もまあ承認されていた。その「刑罰」は明示されてはいないが、大体一定の時間に限られている。「しばらく立っとれ」と言われたまま、教師が職員室へ戻ったら他の仕事が入って立たせてる生徒を忘れてしまう。今度は忘れた教員の方に非があある。いやあ、すまんすまんという展開になる。大体の了解として「しばらくしたら教員が戻ってきて、これからはしっかりやれ」と言って解除する運びに決まっているわけだ。そういう「量刑の平等性」を皆が了解していないと「体罰」は機能しない

 よく「イギリスでは体罰が認められている」という人がいる。伊吹衆議院議長もそういう発言をしている。いやイギリスでは禁止されたという話もあるし、一部復活したという話も聞く。アメリカの一部の州でも体罰は容認されているようだ。そういう世界の事情はよく判らないが、はっきりしているのは、それは「正式の体罰」であるということだ。つまり学級担任または教科担任の訴えをもとに、校長が生徒を呼び出し話を聞いて、校長の権限で「ムチ打ち5回」などと決めて校長自身がムチを振う。多分多くの場合、そうなっているのではないかと思う。つまり、「犯罪」のあとに「事情聴取」と「刑罰の言い渡し」がある。これは「刑罰」の最低限のルールだろう。正式の刑事裁判ほど厳格なルールはないけれど、少なくとも保護者には事前連絡され、本人や保護者の言い分は聞く。日本ではそういう意味では、「体罰」は確かにない。「体罰は禁止されている」わけだから、校長が正式に言い渡す「体罰」はありえない。諸外国で「体罰を認めている国もある」などと言っても、教科担任や部活顧問が誰の意見も聞かずに、勝手に暴力を振うことを認めている国はないだろうと思う

 刑事事件の場合で考えてみたい。まず「刃物を持って暴れている男がいる」という通報が警察に入る。警官隊がやってきて、男を取り押さえる。これは「暴力」を振う現行犯を「暴力」で押さえこむわけだが、このとき「銃」や「警棒」が使われたとしても、基本的には合法であり「職務の遂行」である。(不必要だったりやり過ぎな銃の使用だとして、警官が殺人罪等で起訴される例はかなりあるが。)その後、身柄を確保された容疑者を逮捕、勾留して強制的に取り調べる。起訴後も重要事件の場合は裁判終了まで拘置される。これを個人が勝手にやれば「不法監禁」だけど、裁判所が認めた逮捕や勾留、拘置という「国家権力による暴力的監禁」は合法で、普通それを暴力とは言わない。その後、裁判で刑罰が決まり、懲役15年などと決まる。甚だしい場合は死刑である。こうして罪は「体罰」によって償われる。罰金だって払わない場合は拘留されることになるので、結局国家の刑罰は「体罰」なのである。(死刑を存置している日本という国家は、「体罰」を制度化している国である。)

 ところで、以上のような「暴力」によって支えられた法秩序体系を持つ日本(だけでない近代国家)は、システムとしての司法機関が機能している限り、それを国民は「暴力」とは認識しない。しかし、では逮捕時の警官個人が「お前みたいなヤツは、生きて裁判を受ける資格なんてない」と言って射殺してしまったらどうだろう。今度はこの警官の方が犯罪者である。システムの一員として銃の使用を許可されることはあっても、警官が個人の考えで刑罰を執行してはならない。取り調べ時に「いつまで黙ってるんだ」と殴ったり椅子を蹴ったりするのはどうだろうか。これは「拷問」であり、憲法で禁止されている。しかし、戦後もかなり行われてきたし、強圧的、威圧的取り調べは現在でも珍しくない。しかし、明るみに出れば警官の方に非があることになる。警察、検察は否定して、やったやらないの議論になり裁判所は認めないことも多いが、はっきりした証拠で暴力や威圧的取り調べが証明されたら警官の犯罪となる。

 さて、こういう司法システムを見ていくと、今「体罰」と呼ばれているのは、警官が裁判を待たずに勝手に射殺したり、逮捕時にやり過ぎ的に殴る蹴るの暴力を振う場合にあたるのではないか。それは「体罰」ではなくて、「私的制裁」というべきだろう。また取り調べ時に教員の方が激昂して殴りつけるというようなものも「拷問」と捉えることができる。学校に認められた合法的な「懲戒権の発動」だというためには、言い分を十分に聞く事情聴取、校長等の責任者による言い渡しや罰の執行、保護者への連絡と同意などが最低限必要だろう。そして実際、いじめ、ケンカ、喫煙等の事件が起こった時、暴力を使わず事情聴取をして、保護者に連絡の上、謹慎、反省文等の罰を言い渡すことをしている。ところで、それらの場合はいじめや喫煙が校則に違反していることははっきりしている。従って、教師が例えば喫煙している生徒を見つけたら、勝手に殴りつけて終わりにしたりはしない。そういう「個人プレー」はやってはいけない。ちゃんとした指導のルールが決まっていて、生活指導部や学年教員団が事情聴取や保護者連絡を行い、決められた検討を経て校長が罰則を決める。一方、今「体罰」と問題化しているケースのほとんどは、部活の試合でのミス、部活練習中の気合い等、そもそも「罪」ではない、校則上定められていないことを問題にしている。だから、そもそも「体罰」の対象になるはずがない。教員の側の思い込みによる「指導という名の私的制裁」なのである。

 一方、考えておかないといけない問題がある。「体罰も必要な場面もある」という人がいるのは、そうしないと「教室内の秩序が保たれない場合もある」「ケンカしている生徒を分けるため力で引き離す場合はどうか」などと言うのである。常識で考えて、教室を抜け出してさぼろうとする生徒を引きとめて、手や体をつかんで座らせようとする行為が「体罰」のはずがない。今、教師が生徒の身体に触れて強制的に座らせようとすると、「体罰だ」とか(男性教師が女子生徒に行うと)「セクハラだ」などと騒ぎ立てる生徒も多いのではないか。しかし、それは「体罰」ではない。刑事事件で言えば逮捕時の強制にあたり、言ってみれば「公務の執行」である。(「校務執行」と言うべきか。授業妨害は「校務執行妨害」である。)

 小田原の中学で「ハゲと言われて、体罰を振った」というケースがあった。この場合、生徒が集団で教師に(教師に対してだけではないが)「ハゲ」とからかうのは、「暴言」であり「暴力」と言ってもいい。「対教師暴言」は指導の対象であり、本当はそういう正規の指導のルートに乗せるべきだった。でも、教師の側が体罰をしたというけれど、本質は「暴力に対して暴力でやり返した」というものだと思う。教師が暴力でやり返していいのかと言うと、不適切だと思う。でも言われっぱなしでガマンしている必要はない。そういう事例は案外多いと思う。生徒がかげで何を言うのも止められないが、授業妨害になるような行為、また明らかに人権侵害、差別にあたるような言動は許されない。

 こういう風に、今「体罰」と言われる行為の多くは「私的制裁」で、明るみに出れば教員側の非になるしかない、非合法な暴力である場合が多い。でも、実力で「校務の執行」を行う場合や「暴言に対抗する場合」などは、(それがいいか悪いかの問題とは別に)「体罰」というのが不適当な場合も多い。
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