尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

都知事選ポスター問題再論、内田樹氏のとらえ方

2024年07月24日 22時04分20秒 |  〃  (選挙)
 都知事選関係の問題をもう一度。まず「ポスター掲示板」問題から。「NHKから国民を守る党」が都知事選に24人の候補者を立てて、その「掲示板を利用する権利」を販売したという問題が起きた。選挙後に公職選挙法改正の論議があるところまで書いている。このように一党があまりにも多くの候補者を立てたために、掲示板にポスターが貼れない候補者が出た。都選管はそれに対して「クリアーファイル」を渡して、それに入れて掲示板の外側に貼るように指示した。これが「不公平」であるとして、選挙無効の訴えが相次いでいる。これに対しては僕は「笑止千万」としか思ってない。
(自宅近くの掲示板)
 何が不公平なのか。確かにちゃんと掲示板に貼れないのは公平性に問題がある。だが、それを主張出来るのは全都の掲示板にクリアーファイルを貼っていた候補者だけだろう。前にも紹介したが、わが家近くの掲示板(複数)は最後の最後までたった9人の候補者のポスターしか貼られてなかった。マスコミで「主要候補」に入っているはずの候補でもポスターがない人がいた。僕は別に驚きも嘆きもしない。都知事選や参院選はいつもそんなものだからだ。半分以上の枠が空いたままになるのは僕の地区では通常のことだ。こっちこそ「不公平」だと思う。クリアーファイルで貼っていたポスターは恐らく都心部のごく限られた掲示板だけだと思う。

 僕は下に載せた「掲示板ジャック」も見ていない。クリアーファイルも見てない。知事選の間、何も自宅に引きこもっていたわけではなく、都心部の主な地区には行っていた。だけど、銀座、新宿、渋谷、池袋、上野などで駅から映画館や寄席などに行く動線上にポスター掲示板は一箇所もなかった。人が集まる主要駅にこそ掲示板を立てればいいと思うが、候補者が余りにも多いから掲示板が大きいのである。商業活動に影響を与えるから設置出来ないのかなと思う。住んでる人が駅まで行く途中にはあるんだろうけど、暑い時期にわざわざ裏の方まで入り込まない。東京東部の周辺地域には、都知事選の運動は及ばないのである。
(「掲示板ジャック」)
 ところで、この問題をもう一回書いてるのは、東京新聞7月21日付(日曜)の「時代を読む」というコラムを読んだからである。ここでは毎週違う人が月1回書いてるが、当日は内田樹(うちだ・たつる、1950~)氏の文章が掲載されていた。「性善説システムからのお願い」と題されたその文章を読んで、なるほどそういう見方もあるなあと思ったのである。なお、内田氏の肩書きは「神戸女学院大学名誉教授、凱風館館長」になっている。これじゃ知ってる人にしか判らない。Wikipediaには「フランス文学者、武道家(合気道凱風館館長。合気道七段、居合道三段、杖道三段)、翻訳家、思想家、エッセイスト」となってる。

 まあ、これでも判らないかもしれない。要するにフランス哲学者レヴィナスの研究、翻訳、紹介から始まり、21世紀になる頃から数多くの一般書を書いて知られた人である。僕も最初期の『ためらいの倫理学』や『「おじさん」的思考』なんかを面白く読んだ。対談等を含めると、すでに100冊を遙かに超える本を出していて、とてもじゃないが飽きてしまったが。しかし、うっかり忘れていたような視点からの鋭い指摘は時々ハッとさせるものがある。
(内田樹氏)
 さて、今回の問題に対する内田氏の考え方は以下の通り。「これまでも政見放送や選挙公報にはあきらかに市民的常識を欠いた人物が登場したけれども、それは「民主主義のコスト」だと思って、私たちは黙って受け入れていた。だが、今度の都知事選の非常識さは前代未聞だった。」「でも、こういう行為をする人たちは別に選挙を利用して金儲けをしたり、売名をしたいわけでもないと思う。彼らの目的は公選法が「性善説」で運用されているという事実そのものを嘲笑することにあるのだと私は思う。」

 「供託金さえ払えば、公器を利用して、代議制民主主義というものの脆弱性と欺瞞性を天下にさらすことができる。民主主義というのがいかに理想主義的な仕組みであるか、それを暴露して冷笑することがこのような行為をする人たちを駆動している本当の動機だと私は思う。「民主主義がどれほどくだらない制度だか、オレたちが好き放題にしているのを見ればわかるだろう?」と彼らは国民に向かって挑発的に中指を立てているのである。」

 なるほど、言われてみればこの「民主主義システム嘲笑論」は、世界に広がる「極右」勢力の気分をよく表わしている。今までの常識を「時代遅れ」と決めつけ、タテマエを非難して「ホンネ」を掲げる風潮。禁止されてないんだから、やって構わないという主張。揚げ足を取るようなやり取りで「論破」したと自分でみなす「論争」。そんな様子を思い出すと、彼らはシステムを嘲笑するのが目的なんだというのは、実に正確に言い当てている気がする。

 そして内田氏は「だからといってこういう行為を処罰できるように法整備をすることは原則としては反対である」という。その後の論理展開はかなり面倒くさい議論になっているので、ここでは省略する。詳しく読みたい人は自分で探して欲しい。僕は内田氏と違って、公選法を改正することに反対ではない。というか、常識で理解出来る範囲の問題行動があったとき、それを明文で禁止する法改正を立法院がするのをあえて止める理由が自分にはない。確かに無くて済めばその方がいい規定だろうが、そういうことをした人がいるんだから、僕が反対するような問題でもない。

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