コーマック・マッカーシーの3回目として『ブラッド・メリディアン』(1985、Blood Meridian, Or the Evening Redness in the West)を取り上げる。「Meridian」の意味は大体の人が知らないだろう。調べると「子午線」という意味で、それに加えて「正午」「最高点」という意味もある。そこから、「人生の頂点」、「絶頂期」という意味も出て来たようである。題名を翻訳すると「血の子午線、あるいは西部の紅き夕陽」といった感じか。もっとも「紅き夕陽」じゃなくて順番に訳せば「夕方の赤さ」である。この「赤」は夕陽ではなく、血を指すとも考えられる。少なくともそういう含意があると思う。
1985年に出た5冊目の長編小説で、翻訳は2009年に出た。430ページもある分厚い本で、読まないでいるうちに文庫(ハヤカワepi文庫)が出ている。僕の持ってる単行本の帯には「映画化決定!」と書かれているが、確かにそういう話があったというが結局実現しなかった。近年になって再び映画化の話が持ち上がり、ついに実現するかと言われているようだが、僕はなかなか難しいだろうと思う。刊行当時は高い評価は得られなかったらしいが、今ではマッカーシーの代表作のひとつ、あるいはさらにアメリカ文学を代表する一冊という風に評価が高くなってきたという。中にはメルヴィルの『白鯨』に比べる人まであるらしい。
それも判らないではないけれど、僕はこの小説は多くの人に勧めない。恐ろしく読みにくいうえに、暴力と差別語に満ちた内容に付いていけないのである。舞台になっているのは1850年前後のアメリカ西部(そしてメキシコ北部)である。だから、その時代を再現するならば血と暴力に満ちた、そして「差別表現」を含みこんだ小説になるしかない。それは理解出来るけれど、何もここまでとんでもない小説を日本人が読まなくてもいいんじゃないかと思いつつ、読み始めた以上は読み切りたいと一週間以上を費やしたのである。そして何とか読み終わった時には、もう最初の方を忘れている。(思い出すためには、英語版Wikipediaが役に立つ。)
母を出産時に失い、父の暴力の下で育った少年がいる。名前は最後まで出て来ず「少年」としか呼ばれない。テネシー州に住んでいたが、父の下を逃げ出し騾馬(らば=馬とロバの子)に乗って西部に向かう。合衆国に併合直後のテキサスに着き、そこで軍隊に入る。私設軍隊だがメキシコで「ことを起こす」ための軍隊である。だがコマンチ族に襲撃され大被害を受ける。生き残った少年は、その後グラントンらが組織した先住民(「インディアン」)討伐隊に参加する。頭部を切り取って持ち帰ると、賞金を獲得出来るのだ。これは実話だそうで驚くしかない。ところが砂漠を放浪して死にかけたり、インディアンに襲撃されたり大変。
コーマック・マッカーシーの小説にはいくつかの特徴がある。その一つが内面描写がほぼないことで、「少年」が何を考えているのか全く描かれない。字が読めない少年は難しいことを考えないのだが、それでも何のためにこの部隊に加わっているのか、読んでる側には理解出来ない。もう一つが「読点」(「、」のこと。英語ではコンマ)がないということである。
翻訳はその特徴を生かすために、切れ目のない文章でなされている。例を挙げると、「13」の最初のところ、「行進する隊列は騾馬にまたがった少年たちや麦藁帽子をかぶった老人たちや敵から獲得した馬や騾馬を預かり細い路地の奥の家畜が保管できる建物まで追っていく男たちが加わって膨れあがった。汚い風体の隊員たちの何人かは市民から渡された杯を高く掲げバルコニーに出ている婦人たちに腐れかかった帽子を振りすべての表情を倦怠感の中に溶かして奇妙な半眼になり高くあげた頭を揺らしているが、ともかくその全員が市民に取り囲まれているところはあたかも破れかぶれの蜂起の先駆けとなった兵士たちのようで二人の鼓手が先導していたがそのうち一人は知恵の足りない男で二人とも裸足それから喇叭手が一人いて片方の拳を武術のように頭上に差しあげながら喇叭を吹いていた。」しょうがないから訳文は一箇所読点を使っているが、原文はどうなんだろう。
こんな文章を400ページも読むのは苦痛だが、それに加えて内容が先住民虐殺なのである。それを肯定しているんじゃなく、「これがアメリカ創世記の暴力だ」と読者に突きつけるということなんだろうけど、読んでて気分が悪くなる。また砂漠で水が手に入らないまま何日も進むところなど、こっちの喉も渇いてくる。それにホールデン判事という実在したともしないともいう破格の人物が出て来て、難しいことを言う。これは訳者あとがきによれば、ニーチェの影響だという。僕にはその辺は良く判らない。
ジャンルとしては、これは「ウェスタン」(西部小説)だけど、むしろ「反ウエスタン」の系列だという。歴史を書き直す「反西部劇」だというのである。確かに破格のエネルギーに満ちた小説で、少年の目を通した「地獄巡り」は凄い迫力。これはアメリカ文化にとって重大な問題だろう。しかし、ここまで読みにくいと、よほど関心がある人以外は無理にチャレンジする必要があるのかなと思った次第。
1985年に出た5冊目の長編小説で、翻訳は2009年に出た。430ページもある分厚い本で、読まないでいるうちに文庫(ハヤカワepi文庫)が出ている。僕の持ってる単行本の帯には「映画化決定!」と書かれているが、確かにそういう話があったというが結局実現しなかった。近年になって再び映画化の話が持ち上がり、ついに実現するかと言われているようだが、僕はなかなか難しいだろうと思う。刊行当時は高い評価は得られなかったらしいが、今ではマッカーシーの代表作のひとつ、あるいはさらにアメリカ文学を代表する一冊という風に評価が高くなってきたという。中にはメルヴィルの『白鯨』に比べる人まであるらしい。
それも判らないではないけれど、僕はこの小説は多くの人に勧めない。恐ろしく読みにくいうえに、暴力と差別語に満ちた内容に付いていけないのである。舞台になっているのは1850年前後のアメリカ西部(そしてメキシコ北部)である。だから、その時代を再現するならば血と暴力に満ちた、そして「差別表現」を含みこんだ小説になるしかない。それは理解出来るけれど、何もここまでとんでもない小説を日本人が読まなくてもいいんじゃないかと思いつつ、読み始めた以上は読み切りたいと一週間以上を費やしたのである。そして何とか読み終わった時には、もう最初の方を忘れている。(思い出すためには、英語版Wikipediaが役に立つ。)
母を出産時に失い、父の暴力の下で育った少年がいる。名前は最後まで出て来ず「少年」としか呼ばれない。テネシー州に住んでいたが、父の下を逃げ出し騾馬(らば=馬とロバの子)に乗って西部に向かう。合衆国に併合直後のテキサスに着き、そこで軍隊に入る。私設軍隊だがメキシコで「ことを起こす」ための軍隊である。だがコマンチ族に襲撃され大被害を受ける。生き残った少年は、その後グラントンらが組織した先住民(「インディアン」)討伐隊に参加する。頭部を切り取って持ち帰ると、賞金を獲得出来るのだ。これは実話だそうで驚くしかない。ところが砂漠を放浪して死にかけたり、インディアンに襲撃されたり大変。
コーマック・マッカーシーの小説にはいくつかの特徴がある。その一つが内面描写がほぼないことで、「少年」が何を考えているのか全く描かれない。字が読めない少年は難しいことを考えないのだが、それでも何のためにこの部隊に加わっているのか、読んでる側には理解出来ない。もう一つが「読点」(「、」のこと。英語ではコンマ)がないということである。
翻訳はその特徴を生かすために、切れ目のない文章でなされている。例を挙げると、「13」の最初のところ、「行進する隊列は騾馬にまたがった少年たちや麦藁帽子をかぶった老人たちや敵から獲得した馬や騾馬を預かり細い路地の奥の家畜が保管できる建物まで追っていく男たちが加わって膨れあがった。汚い風体の隊員たちの何人かは市民から渡された杯を高く掲げバルコニーに出ている婦人たちに腐れかかった帽子を振りすべての表情を倦怠感の中に溶かして奇妙な半眼になり高くあげた頭を揺らしているが、ともかくその全員が市民に取り囲まれているところはあたかも破れかぶれの蜂起の先駆けとなった兵士たちのようで二人の鼓手が先導していたがそのうち一人は知恵の足りない男で二人とも裸足それから喇叭手が一人いて片方の拳を武術のように頭上に差しあげながら喇叭を吹いていた。」しょうがないから訳文は一箇所読点を使っているが、原文はどうなんだろう。
こんな文章を400ページも読むのは苦痛だが、それに加えて内容が先住民虐殺なのである。それを肯定しているんじゃなく、「これがアメリカ創世記の暴力だ」と読者に突きつけるということなんだろうけど、読んでて気分が悪くなる。また砂漠で水が手に入らないまま何日も進むところなど、こっちの喉も渇いてくる。それにホールデン判事という実在したともしないともいう破格の人物が出て来て、難しいことを言う。これは訳者あとがきによれば、ニーチェの影響だという。僕にはその辺は良く判らない。
ジャンルとしては、これは「ウェスタン」(西部小説)だけど、むしろ「反ウエスタン」の系列だという。歴史を書き直す「反西部劇」だというのである。確かに破格のエネルギーに満ちた小説で、少年の目を通した「地獄巡り」は凄い迫力。これはアメリカ文化にとって重大な問題だろう。しかし、ここまで読みにくいと、よほど関心がある人以外は無理にチャレンジする必要があるのかなと思った次第。
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