尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

「ソロモンの歌」-トニ・モリスンを読む②

2019年09月23日 22時40分01秒 | 〃 (外国文学)
 アメリカの黒人女性作家トニ・モリスンを読み始めちゃったので、続けないといけない。次は3冊目の長編小説「ソロモンの歌」(Song of Solomon、1977、1978年全米批評家協会賞受賞作)の番である。何しろ文庫本で630頁以上もあって、手強そうでなかなか手に取る気にならない。9月中にと思って読み始めたが、案の定全然進まない。一週間以上掛かってやっと終わった。終り頃になるとスピードに乗ったが、出だしが大変だった。風俗習慣が違うと、これほど理解しにくいものか。文章が難解なわけではなく、むしろ一番物語性が豊かで読みやすい。でも付いていくのが大変なのである。

 「ソロモンの歌」は間違いなく傑作で、トニ・モリスンの代表作の一つとされている。チャレンジしてみる価値は十分にある。判りにくいのは、アメリカ南部のコミュニティに属していない「黒人」のイメージをあまり持っていないからだ。(ここでは「黒人」という表記を使う。)主人公一家はミシガン州に住んでいる。ラスト近くで主人公「ミルクマン」がヴァージニア州を訪ねると、対応が家族的で温かいことにビックリする場面が印象的だ。題名の意味もラスト近くでやっと判る。

 「ミルクマン」はなぜそう呼ばれたか。父親と本人は絶対に使わない「あだ名」が付いた理由は最初の方に出てくる。彼の父の名前は「メイコン・デッド」。「デッド」(DEAD)というラストネームはおかしいが、祖父の時代に白人係官が名前を登録をしたとき「父の名前はなんだ」と聞かれて、「死んだ」と答えたら「デッド」が姓にされてしまったのだ。父に妹が生まれたときに、その母親(ミルクマンの祖母)は死んでしまう。妹も死産と思われたときに、胞衣にくるまれた妹を兄が助け出した。その時にへその緒が取れてしまい、妹は「へそなし」と差別される。字が読めなかった父親は聖書から当てずっぽうに選んで「パイロット」(イエスを処刑したときの総督だったピラト)と娘を名付けてしまう。

 ミルクマンの祖父は農場を広げていたが、白人に恨まれて銃撃されて死ぬ。幼くして父母を失った兄妹は苦難の人生を送り、離散して暮らすが、後にパイロットが探し出して同じ町に暮らしている。でも二人は憎み合い、交渉がない。メイコン・デッドは不動産で成功し、町一番の黒人医師の一人娘と結婚した。姉二人が生まれた後、父母は憎みあうが、パイロットの「薬草」を使って「ミルクマン」(メイコン・デッド2世)が生まれた。なんだかこんなことを書いていても、この小説の面白さは伝わらないだろう。「ミルクマン」の一家は、両親が憎み合い、兄妹も憎み合う。そこで生きる「ミルクマン」は孤独である。

 そんな「ミルクマン」の友だちになったのは年上の「ギター」だった。ギターはパイロットの家にまだ12歳の「ミルクマン」を連れて行き、そこから新しい人生が開けてゆく。パイロットには父のいない娘リーバがいて、リーバにも父のいない17歳の娘ヘイガーがいた。5歳年上のヘイガーと「ミルクマン」は惹かれ合う。こんな調子で書いてると終わらないから、飛ばすことにする。「ミルクマン」一族は幸せになれないまま、時間が経ってゆく。「ミルクマン」はもう従姉のヘイガーにうんざりしていて、別れようとする。その結果、ヘイガーは毎月一回「ミルクマン」を付け狙って殺しにやってくる。一方、親友だった「ギター」もおかしい。なんだか謎の政治的言動が多くなり、衝撃的な真実が明かされる。

 時は60年代、ケネディ政権の時代だ。皆が殺気立っている。「ミルクマン」と「ギター」は父にそそのかされて、パイロットの家にあるという金塊を盗みに行く。しかし金の代わりに謎の骨を奪ってしまう。金塊は果たしてどこに? そこでようやく長い第一部が終わって、第二部は「ミルクマン」が金塊があるとにらんだ父が昔隠れ住んだ洞窟を探し求める。「自分探し」&「宝探し」になり、話は冒険小説的面白さを増してゆく。そこに突然なぜか「ギター」が敵として現れる。一方、南部の田舎で立ち往生した「ミルクマン」は、「北部らしさ」を嫌われて孤立する。地元民に狩猟に誘われ、初めて自己省察によって目覚める場面は圧倒的だ。初めて「南部」に足を踏み入れた「北部の黒人」はこうなんだ。

 多分今までの文を読んでも、なんだかよく判らないと思う。僕もストーリーの大筋をざっと書いただけである。この小説は大きな構想の下に、説話的というか、神話的というか、壮大な小説になっている。そこが面白いんだけど、どうしてここまで家族がいさかい合うのかという疑問も持つ。「上昇」した黒人はなかなか幸せになれない。「ミルクマン」の二人の姉は、40代になっても独身だ。大学まで行かせて、かえって黒人男性のコミュニティに入れなくなったのだ。そんな状況が60年代初期にはあったということだ。黒人内部における「男性と女性」「大人と子ども」に止まらず、「南部と北部」「高学歴と低学歴」など誰も書けなかった難問に挑んでいる。 

 物語としてはすごく面白いけれど、どうも今ひとつ判りにくいと僕は感じた。しかし、このような憎み合い、破滅する家族というのは、日本文学にもけっこう描かれている。例えば中上健次の「枯木灘」などの一族、あるいは三浦哲郎の破滅に至る兄弟姉妹たちなどである。それらも何故だろうと思いつつ、言語的、文化的により理解が出来る感じがする。トニ・モリスンはなかなか難物だなあと改めて思った。
コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 荒井晴彦監督「火口のふたり」 | トップ | 開聞岳、最も円錐形の百名山... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

〃 (外国文学)」カテゴリの最新記事