尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

『なまいきシャルロット』『ある秘密』、クロード・ミレール映画祭

2022年10月14日 22時42分01秒 |  〃  (旧作外国映画)
 「クロード・ミレール映画祭」というのがあって、4本の映画を見た。まあ、昔のフランス映画が好きなのである。別に多くの人が見なくてもと思うけど、せっかくだから記録しておきたい。クロード・ミレール(Claude Miller、1942~2012)はフランスで多くの監督の下で働いてきた人である。ロベール・ブレッソンの『バルタザール、どこへ行く』、ゴダール『ウイークエンド』、ジャック・ドゥミ『ロシュフォールの恋人たち』などの助監督を務めた。その後はトリュフォー映画の製作主任を務めたというから、ずいぶん彼が関わった映画を見てきたことになる。
(『なまいきシャルロット』)
 でも僕はこの人の名前を覚えてなかった。1976年に長編劇映画の監督になり、『なまいきシャルロット』(1985)、『小さな泥棒』(1988)でシャルロット・ゲンズブールをスターにした。この題名は記憶にあるが、当時は見なかった。シャルロットはセルジュ・ゲンズブールとジェーン・バーキンの娘で、14歳で『なまいきシャルロット』に主演してセザール賞新人女優賞を取った。だけど、題名からアイドル売り出しのスター映画かと思い込んでいた。実際は思春期の息づかいを細やかに描いた佳作だった。
(クロード・ミレール監督)
 オリジナル脚本だがカーソン・マッカラーズ結婚式のメンバー』のような作品で、マッカラーズの著作権管理者から訴訟を起こされたという。その決着は知らないけれど、ある夏の少女が町を出て行きたいと望む焦燥感を描き出すという点が似ている。ただ、この映画では同年代の天才少女ピアニストに憧れて、お付きの係になりたいと思い込むのである。場所は湖を臨む避暑地のような町で、天才少女は豪邸に住んでいる。「ひと夏の少女」という映画は多いが、中でもこの映画は見どころが多い。またトリュフォー映画でなじみのベルナデット・ラフォンがシャルロットの家の家政婦役でセザール賞助演女優賞を取っている。
(『勾留』)
 製作順では『なまいきシャルロット』より前の1981年作の『勾留』は今回が初公開。連続幼女レイプ殺害の容疑者を、刑事リノ・ヴァンチュラが大みそかに署に呼んで取り調べる。被疑者は否認するけど、やがて妻(ロミー・シュナイダー)がやってきて…。僕はあんまり面白くなかった。取り調べ方法が国によって違うのは当然だが、あまりにも不自然である。証拠を突きつけるのではなく、状況面だけグダグダとやり取りする。日本の刑事ドラマで日本の警察を理解するのは無理だけど、同じようなことがフランス映画でも言えるんだろう。
(『伴奏者』)
 『伴奏者』(1992)はドイツ軍占領下のパリで、ドイツ軍にも大人気の女性歌手がいて、伴奏者を求めている。20歳の若く貧しい少女が選ばれたが、歴史の流れに翻弄される。ニーナ・ベルベロワという亡命ロシア人の小説の映画化。主演の少女ソフィーは大歌手イレーヌにすっかりのぼせて憧れる。この歌手はエレナ・サヴォノヴァというロシア人女優が演じて大変な貫禄である。ニキータ・ミハルコフ『黒い瞳』で主演していた人。歌手の夫はドイツ軍やヴィシー政府と協力してきたが、風向きが変わりつつあるのを感じて、スペイン、ポルトガルを経てロンドンの自由フランス政府に参加しようとする。何回かの演奏会シーンとともに、この逃亡劇が山場になる。ところがイレーヌには秘密があった。ソフィーは何とか悲劇を防ごうとするが…。
(『ある秘密』)
 一番の傑作は『ある秘密』(2007)だった。これも戦時中が舞台になっていて、フィリップ・グランベールという人の自伝的小説の映画化だという。第2次大戦後、スポーツが得意な両親のもとに、病弱な少年がいる。一人っ子のはずなのに、少年は兄がいると言い張っている。そこから時間は戦時中に戻り、戦時下フランスのユダヤ人迫害の物語になる。しかし、内容はかなり複雑で、二組の夫婦がいる。先の少年の父と母は大戦前に別の相手と結婚していた。さらに少年の父のかつての妻と、少年の母のかつての兄は兄妹だったのである。既婚でありながら、父は義弟の妻に一目惚れしてしまう。そして戦時中にそれぞれの相手が亡くなったのである。特に父のかつての妻と二人の子どもは逃亡直前にユダヤ人と見抜かれ収容所に送られた。

 ちょっと複雑な感じの筋だが、「ユダヤ人」であることと「秘密の恋」が、戦後を生きる虚弱な少年に影響していく。心理サスペンス映画的な感じの作品で、とても完成度が高い。セザール賞に沢山ノミネートされたが、結局一家の友人役のジュリー・ドパルデュー(ジェラール・ドパルデューの娘)だけが助演女優賞を獲得した。ヨーロッパ映画ではやはり第二次大戦が時代背景になっていることが多いなと思った。『ある秘密』『伴奏者』の緊迫感は高く完成度も高いように思う。

 「誰よりも映画を知りつくし、それを手中にした監督」とチラシにあるように、確かにスラスラ見られて面白い。でも何かもう一つ足りない感じがする。フランスでも日本でも大きな賞を取るような監督ではなかった。「知りつくす」だけではダメで、かつて彼が助監督に付いた巨匠の名作のような独自の文体がない。だけど、フランス語を聞きながらドキドキ見られる佳作揃いだった。
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タナダユキ監督『マイ・ブロークン・マリコ』、渾身の永野芽郁に刮目せよ

2022年10月13日 22時26分41秒 | 映画 (新作日本映画)
 タナダユキ監督『マイ・ブロークン・マリコ』という映画がすごかった。平庫ワカの同名コミックが原作で、それは第24回文化庁メディア芸術祭マンガ部門新人賞を受けたのだという。僕はそれは知らなかったけど、若い女性二人の壮絶な結びつきがストレートに心に響く。もともと原作も短いものらしいが、映画も凝縮された描写で、今どき珍しい85分にまとまっている。フランスの女性監督セリ-ヌ・シアマ監督『秘密の森の、その向こう』という映画も同じ日に見たんだけど、そっちはさらに短い73分である。(ちなみに『トップガン マーヴェリック』は131分、『ジュラシック・ワールド/新たなる支配者』は147分。)

 シイノトモヨ永野芽郁)はある日、昼食のラーメン屋で何気なくテレビを見ていたら、親友イカガワマリコ奈緒)がマンションから転落して死亡したというニュースを報じていた。中学からの親友の死をシイノは受けとめられない。家を訪ねると、もう部屋は片付けられていた。葬儀はなく「直葬」なんだという。父から虐待を受けていたマリコの骨を家に置いておけるか。突然思い立ったシイノは実家を訪ねて、マリコの父(尾美としのり)とその後再婚した義母(吉田羊)に会いに行く。そして、突然骨箱を奪い取り、そのまま仕事も放って逃亡の旅に出るのだった。
(屋上で花火をする二人)
 この「遺骨泥棒」が最高。窓から遺骨を持って飛び降りると、裏の川を渡って逃げ出す。かつて見たことないようなトンデモな展開に絶句。まあ、そういうストーリーだとは知っていたが、映像の躍動感が半端じゃない。それを支えるのが、ブラック企業で働きながらタバコを吸いまくる永野芽郁の全力演技だ。(ニコチン抜きのタバコを数ヶ月前から吸う練習を始めたという。)さて、どこへ行くかと思ったとき、ふと思い出したのが昔見た「まりが崎」のポスター。ここ行きたいねと言い合った思い出の地。
(舞台となる種差海岸)
 実際は青森県八戸市の種差海岸で撮影された。特に説明はないんだけど、途中のバスなどで判る。そして、ここでもどん詰りに相応しき体験を散々することになる。たまたま釣り人のマキオ窪田正孝)に助けられるが、それでも遺骨はどうなるんだ。その間に過去がインサートされるが、死んだマリコが現れたり、今だから言えることを絶叫したり…。そこで判ることはマリコが壊れていたのと同じく、他に友人がいないシイノも壊れている。二人の関係は一体どんなものだったのか。
(シイノとマキオ)
 マリコの父は出て来るが、シイノの家族関係は描かれない。ラスト、マリコが最後に残した手紙をシイノが読むが、内容は伝えない。あえて描かないことで成立している映画である。原作も同様らしいが、映画化に当たって新しい設定を加えることも多い。しかし、この映画はそうはしなかった。だから、学校時代など不明な部分が多い。それで良いのである。余計な設定を加えて時間を増やすのではなく、ひたすら映像に寄り添うしかない映画だ。映画はマンガや舞台と違って、ロケが出来る。現実の映像を背景にして、壮絶な人間ドラマを見るのである。
(タナダユキ監督)
 監督・共同脚本のタナダユキは非常に快調。かつて『タカダワタル的』(2004)で注目され、その後劇映画に転じた。『百万円と苦虫女』(2008)で日本映画監督協会新人賞を受けた。この映画の蒼井優も何だか似たような感じだった。『ふがいない僕は空を見た』(2012)等があるが、一時は小説やテレビドラマが多かったという。2021年の『浜の朝日の嘘つきどもと』で復調をうかがわせたが、今回の『マイ・ブロークン・マリコ』は一番いいんじゃないか。永野芽郁が今までのイメージを破る役柄を熱演しているが、マリコ役の奈緒も良かった。今年の大収穫だと思うが、映画に見える日本の壊れ方もすごい。どこから手を付ければ良いのだろう。
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「マイナ保険証義務化」に断固反対する!ー国民皆保険制度を守れ

2022年10月12日 22時40分35秒 | 政治
 今あちこちで「マイナンバーカード」を申請しましょうというキャンペーンをやっている。このカードを持つと便利になるという触れ込みで始まったが、取得者が全然増えない。何年やっても国民の半分にも行かなかった。そこで取得するとポイントが貰えますと国民を餌で釣ろうという卑しい試みをやっている。常識的に考えて、「こういう政府の対応は怪しい」と思うけれど、物価高の世の中である。申請者はそれなりに増加しているらしい。

 ところが、今度は事実上の「マイナンバーカード義務化」に踏み出すらしい。10月8日に朝日新聞が報じたが、今は読売オンラインからコピーする。「政府は、現行の健康保険証を2024年秋に原則として廃止する方向で調整に入った。マイナンバーカードを保険証代わりに使う「マイナ保険証」がすでに導入されており、保険証を廃止して一本化する。マイナンバーカードの普及を加速させ、医療のデジタル化を後押しする狙いがある。河野デジタル相が13日にも発表する。政府は6月に閣議決定した「デジタル社会の実現に向けた重点計画」で、24年度中をめどに保険証の原則廃止を目指す方針を明記していたが、具体的な時期は決まっていなかった。同年秋の廃止に向け、デジタル庁が中心となって準備を進める。(以下、略)」

 これは余りにもひどい約束違反である。約束というのは、マイナカードは義務化はしないと言って始めたからである。持ってると便利なら、みんなどんどん持つはずが、全然増えない。その原因を解消するのではなく、公務員の家族に強制したりしていた。そしてポイント付与作戦を始めたが、それでもダメかとついに「強制」に踏み切るのである。保険証がなければ、これは困るだろう。人はいつ病気やケガをするか判らない。保険料を払ってなければ別だが、払った人には向こうの方から送ってくる。だから「国民皆保険制度」が成り立ってきたのである。
(紙の保険証廃止を発表する予定の河野デジタル相)
 紙だろうが、カードだろうが、それはどっちでもよい。問題は「マイナカードは自分で申請して、自分で取りに行く必要がある」という点にある。この「紙の保険証廃止」は絶対に出来ない。常識があれば誰でも判る。今ガンの闘病中で余命宣告を受けている人に、役所までカードを申請して取りに行けというのか。認知症で外出が不安な高齢者にカードを作れというのか。重い障がいを持っている人はどうすればいいのか。これら、いままさに「保険証利用中」の人に対して、紙の保険証はなくなりました、マイナンバーカードを作ってない人には保険が適用されませんと言うのだろうか。

 利便性を感じないから、僕はマイナンバーカードを持っていない。役所に行かなくてもコンビニで住民票が取れるとか言うけど、ここ数年住民票など取っていない。取るとしても、区民事務所も最寄りコンビニも同じく自宅から2分程度なのである。確定申告が自宅から出来ますというので、ちょっと気をひかれたけど実は他にカードリーダーを買う必要があると出ていた。それを検索したら数千円したのでバカらしくなった。税務署は歩いて30分ほどだから、一年一辺散歩して出しに行っている。(郵送も可能だが、運動という意味で。)でも僕は自覚的なマイナカード反対派だから取らないだけで、義務化されれば取らざるを得ない。

 しかし、健康面でマイナカードを作れない人は必ず出て来るので、全国民100%がカードを持つということは今のやり方では不可能だ。日本では保険証と選挙通知は役所から送ってくるものとみんな思ってきた。だから、考え方を変えて、「役所の側からカードのない人を訪問して作成して届ける」という方法にする必要がある。それでも「引きこもり」など家族でも会えない人もいるんだから、外部の人が来て写真を撮影することは難しい。そんなことは誰でも判ることで、まさに厚生労働省が担当していることだ。それでも「紙の保険証廃止」というのだから、要するに「国民皆保険制度」を壊すのである。守っていこうと思っていないのだ。

 もう一つ大問題がある。それは「マイナ保険証」の作り方である。そう、これも自分で申請しないとダメなのである。そして、それはセブン銀行ATMから申し込むことも出来るが、主にはスマートフォンパソコンで申請するのである。もちろん、カードリーダーや暗証番号がいる。いまこの記事を読んでいる人はパソコンかスマホで見ているわけだから、自分は出来ると思うかもしれない。でも、面倒そうである。しかし、世の中にはスマホもパソコンもない人がいる。結構多いだろう。90代、80代の人全員にスマホやパソコンを駆使せよというのは無理である。政治家や官僚にも親や祖父母がいるだろうに、何でこんな無慈悲なことをするのか。

 僕は結局は「例外」が残るに決まってると思う。現役世代はもちろん、高齢者だって保険料を預金から引き落としにしていることが多い。(原則は引き落とし。)保険料だけは取っているのに、保険証が使えないというのでは国家的詐欺である。だから、「保険証記載事項証明書」みたいなものが作られるだろう。そしてそれが保険証の代わりに例外的に使えるとなるかと思う。マイナ保険証を持ってる人も「例外」の方を使うという人がかなり出て来るはずである。僕は多分そうなると思っているのだが、とにかく「自分で申請しなければ保険証を使えない」というのは、国民皆保険制度の大変更だと強調しておきたい。
(マイナ受注企業が自民に献金という記事)
 マイナカード事業関連の企業は、何でも自民党に巨額献金をしてきたとか。それが原因かはともかく、この「デジタル化」政策は異常である。仮に「マイナ保険証」を義務化しても、カードは期限がある(成人は10年、未成年は5年)し、仕事が変われば保険証も代わる。未納で止められることもあるだろうし、もう医療現場が大混乱するのは間違いない。一体全体、官僚や政治家は福祉や医療の現場で研修を義務づけて、世の中の「弱者」を知った方がいい。それにしても、今の政府を作ってきたのは、高齢者が自民党に投票してきたからである。こういう政策を進める政府は次の選挙で鉄槌を下さないといけない
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エリザベス2世、アラン・タネール、イレーネ・パパス他ー2022年9月の訃報③

2022年10月11日 22時29分47秒 | 追悼
 2022年9月の訃報、外国人編。エリザベス女王以外は映画関係で知った名前が多い。「グレートブリテン及び北アイルランド連合王国」のエリザベス2世が9月8日死去、96歳。1926年4月21日に後のジョージ6世の長子として生まれた。1936年12月にエドワード8世が「世紀の恋」と騒がれた事件(既婚のアメリカ女性シンプソン夫人との恋愛問題)で退位し、弟のジョージ6世が即位した。(映画『英国王のスピーチ』のモデル。)その結果、エリザベスが10歳で王位継承順位第1位となったのである。1952年2月6日、父が死去しエリザベスが即位。以後、英国史上最長の在位70年に及んだ。今年春には在位70年式典も行われた。70年となれば、もうそれ以前を記憶している人はほとんどいない。トラス新首相の任命を9月6日に行い、8日に健康が懸念されると王室が発表。そしてその日に亡くなった。実に理想的な「死に方」なのに驚いた。世界中で高齢者の多くはこう死にたいものだと思っただろう。
 
 即位の時点ではインドは独立していたものの、ケニア、ガーナ、マレーシア、香港など世界中にまだ多くの植民地を持っていた。それを次々に手放す治世だったわけだが、女王の存在は連合王国にとって大きな意味があっただろう。一方、旧植民地側から見れば、やはり旧宗主国には複雑な感情がある。しかし、まあエリザベス女王に関しては多くの報道がなされたので、ここでは省略したい。(僕は日本の報道が実に大きいことに驚いた。)来日した時の日本中の熱狂ぶりは何となく覚えている。僕はエリザベス女王の訃報にあまり大きな関心がないのだが、まああれだけ犬を飼い続けたんだから「いい人」ではあるんだろう。僕は愛犬家には甘いのである。飼ったのは父が子ども時代に与えたウェルシュ・コーギー・ペンブロークだった。
(愛犬と)
 スイスの映画監督アラン・タネールが9月11日に死去。92歳。50年代には英仏で映画の仕事をしていたが、60年代にスイスに帰って記録映画を作り始めた。日本では『ジョナスは2000年に25才になる』(76)、『光年のかなた』(81、カンヌ映画祭審査員特別グランプリ)が84年、85年に旧ユーロスペースで連続公開された。『ジョナス…』は五月革命挫折後の若者たちが精神世界やエコロジーに惹かれながら生きていく様を描く。2000年に20歳になるジョナスは、つまり1975年生まれになる。新しい世代が生まれて映画が終わる。どういう21世紀になるんだろうと思ったが、今は47歳のジョナスの人生はどんなものだろう。『光年…』はアイルランドが舞台だが、まるでドン・ファンシリーズの映画化のような若者と老師の瞑想を描く。この2作の感銘は深く、僕は以後もタネール作品を見続けた。『白い町で』『幻の女』などがミニシアターで公開された時代のことである。
(アラン・タネール)
 ギリシャの女優、イレーネ・パパスが9月14日死去、96歳。国際的に活躍した大女優だったが、時間が経ちすぎて忘れられたかもしれない。62年の『エレクトラ』、64年の『その男ゾルバ』などマイケル・カコヤニス監督作品で世界に知られた。同時代的に見たのは、岩波ホールで77年に公開された『トロイアの女』(71)。もっとも主演とは言えないけれど。このようなギリシャ悲劇などばかかりでなく、『ナバロンの要塞』『1000日のアン』など世界の多くの映画に出演した。
(イレーネ・パパス)
 アメリカの女優、ルイーズ・フレッチャーが9月23日に死去、88歳。『カッコーの巣の上で』の看護婦長役でアカデミー主演女優賞を受賞した人である。もちろん『エクソシスト2』など他の作品、あるいは『スター・トレック』など多くのテレビドラマに出ているけど、結局は『カッコーの巣の上で』のド迫力で記憶される人である。
(ルイーズ・フレッチャー)
 アメリカの女優、マーシャ・ハントが9月17日に死去、104歳。30年代、40年代に愛らしい容貌で多くの映画の脇役として活躍した。しかし、この人はその事によってではなく、50年代初期のマッカーシズム時代にあくまでも自由主義的主張を曲げなかったことで知られている。ブラックリストに名前が載り、50年から56年までほとんど干されていた。「ハリウッド・テン」の一人、ダルトン・トランボが監督をした反戦映画『ジョニーは戦場に行った』(71)で主人公の母親を演じている。この間も公民権運動、環境保護運動、ホームレス支援などに積極的に関わってきた。
(マーシャ・ハント)
 アメリカの写真家、映画監督のウィリアム・クラインが9月10日死去、96歳。陸軍の軍人としてパリに滞在。除隊後にソルボンヌ大学で学んだ。50年代以後、常識を破る「ブレ・ボケ・アレ」の手法で都市を切り取る写真で評判になった。『ニューヨーク』(56)、『東京』(64)などで知られた。2012年にはロンドンの国立現代美術館で森山大道と2人展を開いている。60年代末からは映画監督としても活躍。『ポリー・マグーお前は誰だ? 』、『ベトナムから遠く離れて』(オムニバスの一編)、『モハメド・アリ/ザ・グレーテスト』などがある。
(ウィリアム・クライン)(「東京」)
フランク・ドレイク、2日死去、92歳没。アメリカの天文学者。地球外文明の数を推定する「ドレイクの方程式」の提唱者として知られる。
ピーター・ストラウヴ、4日死去、79歳。アメリカの幻想文学、ホラー作家。キングと共作した『タリスマン』、映画化された『ゴースト・ストーリー』などで知られる。ブラム・ストーカー賞を3回受賞している。
ジュスト・ジャカン、6日死去、82歳。フランスの映画監督。ファッション写真家として成功した後、映画界に進出した。1974年に『エマニュエル夫人』でデビューし、ソフトポルノとして世界的に大ヒットした。その後も『O嬢の物語』『マダム・クロード』『チャタレイ夫人の恋人』など同様のエロス路線の映画を監督した。ある種、忘れがたい監督である。
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三遊亭円楽、佐野眞一、平良敏子、田中琢他ー2022年9月の訃報②

2022年10月10日 20時54分34秒 | 追悼
 6代目三遊亭円楽が9月30日に死去、72歳。(「圓楽」が本当だが、ここでは円楽と書く。)2022年1月に脳梗塞で入院して、8月に国立演芸場で「復帰」した。僕はそれを見たけれど、もう「本格復帰はないだろう」と感じた。そうは書けないけど、最後の公演という感触を持った。まさかここまで訃報が近いとまでは思わなかったけど。この人は「笑点」では「腹黒」キャラだが、政治絡みの回答は常識をはみ出さない。本質は気配り上手の善人だった。何回か聞いてるけど、名人級とは言えなかっただろう。むしろ各団体をまとめるプロデューサー的才能が貴重。一番記憶にあるのは、神田伯山真打披露の口上。それとその後の形態模写。大師匠の圓生立川談志のマネが絶品だった。よほど見巧者(みごうしゃ)だったのである。
(6代目三遊亭円楽)
 6代目円楽らは今でも「五代目円楽一門会」と称している。1978年に三遊亭圓生とともに落語協会を脱退したことに端を発している(落語協会分裂騒動。)その時一緒に脱退しながら復帰した圓生直弟子が3人いた。そのうち川柳川柳三遊亭円丈は2021年11月に亡くなった。そして圓生直弟子の最後となっていた三遊亭圓窓が15日に死去した。81歳。圓窓も70年から7年間「笑点」に出ていた。落語界では「圓窓五百噺を聴く会」を完遂したことで知られている。かつて7代目圓生襲名に名乗りを上げたこともあった。
(三遊亭圓窓)
 ノンフィクション作家の佐野眞一が9月26日に死去、75歳。この人は昭和史を彩る人物評伝に優れたものが多い。無着成恭『山びこ学校』に作文が載った生徒のその後を追った『遠い山びこ』、民俗学者宮本常一と渋沢敬三を描く『旅する巨人』は感銘深い。『東電OL殺人事件』では冤罪可能性を追った。しかし、2012年10月に当時の橋下徹大阪市長をめぐる連載で差別問題を起こした。その後盗用疑惑も明るみに出た。講談社ノンフィクション賞を受けた『甘粕正彦 乱心の曠野』など、持ってるけど読んでない本がある。戦前の枢密院議長倉富勇三郎の膨大な日記を読み解く『枢密院議長の日記』(講談社現代新書)が力作である。
(佐野眞一)
 沖縄を代表する織物「芭蕉布」の復興に尽くした染織家平良敏子が9月13日に死去、101歳。沖縄本島北部の大宜味(おおぎみ)村喜如嘉(きじょか)に生まれ、戦時中に倉敷に徴用された。戦後に大原総一郎から柳宗悦「芭蕉布物語」という本を紹介されたという。そして、沖縄へ帰った後で、滅びる寸前だった芭蕉布の技術を復興させた。芭蕉布を沖縄を代表する工芸品に育てただけでなく、優れたデザインが海外でも高く評価されている。1965年沖縄タイムス文化賞、1973年に「現代の名工」選定、1986年に吉川英治文化賞。2000年には「人間国宝」に認定された。
 (平良敏子と芭蕉布)
 沖縄の「人間国宝」ではもう一人、2000年に「琉球古典音楽」として認定を受けた照喜名朝一(てるきな・ちょういち)が10日死去、90歳。幼少期から三線に親しみ、86年に「組踊」で国の重要無形文化財保持者に認定された。世界に琉球芸能を紹介するとともに、後継者育成にも努めた。
(照喜名朝一)
 考古学者、元国立奈良文化財研究所所長の田中琢(みがく)が9月16日死去、88歳。知らない人が多いと思うけど、この人は歴史関係者にはよく知られている。平城宮跡で木簡第1号を見つけた人である。91年に出た集英社版日本の歴史第2巻「倭国大乱」はこの人が書いている。また岩波新書から佐原真氏との共著「考古学の散歩道」「発掘を科学する」、また単著「古都発掘 藤原京と平城京」を著している。だから90年代にはよく読んでいた人だった。
(田中琢)
 詩人、映像作家の鈴木志郞康(しろうやす)が8日死去、87歳。64年に天沢退二郎、菅谷規矩雄らと誌誌「凶区」を創刊。68年、詩集『罐製同棲又は陥穽への逃走』によりH氏賞。破壊的な口語表現が衝撃を与えた。同時に60年代初期からジョナス・メカスの影響で個人映画の撮影を始めた。非常の多くの映像作品があるが、1977年の「草の影を刈る」という200分の大作を四谷三丁目にあったイメージ・フォーラムで見た記憶がある。詩人としては高見順賞、萩原朔太郎賞なども受賞している。90年から多摩美大教授。「極私的」という言葉は鈴木の造語だとウィキペディアにある。追悼記事があっても良い人だと思う。
(鈴木志郞康)
 劇作家、演出家、作家の宮沢章夫が9月12日死去、65歳。1985年にシティボーイズや竹中直人、いとうせいこうらとコント集団「ラジカル・ガジベリビンバ・システム」を結成。90年からは劇団「遊園地再生事業団」を主催。90年代の「静かな演劇」系の群像劇を手掛けた。93年「ヒネミ」で岸田国士戯曲賞。2010年「時間のかかる読書」で伊藤整文学賞。僕はお芝居は見てないんだけど、朝日新聞に連載されたエッセイを愛読していたことを思い出した。
(宮沢章夫)
 映画監督の澤田幸広が21日死去、89歳。日活アクション映画の最末期に監督に昇進、1970年の「斬り込み」「反逆のメロディー」などの新鮮な描写で注目された。ロマンポルノに転換後も「濡れた荒野を走れ」などを手掛けた。また一般映画として「あばよダチ公」「高校大パニック」、児童映画として「ともだち」(ベオグラード児童映画祭グランプリ)などを監督した。またテレビでは「太陽にほえろ!」「大都会」「西部警察」など多くのアクションドラマを手掛けている。池袋の新文芸坐で8月に特集上映を行っていたが、大体見ているのでパスしてしまったら、直後に訃報を聞くことになった。
(澤田幸広)
 元官房副長官の古川貞二郎が5日死去、87歳。旧厚生省で事務次官を務めた後、95年に官房副長官に就任。村山、橋本、小渕、森、小泉内閣で留任して、2003年9月まで務めた。在任期間8年7ヶ月に及び、これは歴代2位になる。(1位は杉田和博、3位は石原信雄。)在任中はハンセン病国賠訴訟の控訴断念、米国同時多発テロへの対応など難局の対応にあたった。副長官退任後は、「皇室典範に関する有識者会議」のメンバーとして女系天皇も認める報告書をまとめた。
(古川貞二郎)
西東清明(さいとう・きよあき)、7月18日死去、81歳。映画編集技師。東映で『Wの悲劇』『鉄道員』など多数を手掛けた。
小林七郎、8月25日死去、89歳。アニメ美術監督。映画『ルパン三世 カリオストロの城』『うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー』などの他、多くのテレビアニメを手掛けた。
高田一郎、1日死去、93歳。舞台美術家、武蔵野美大名誉教授。59年の「マリアの首」などで知られ、85年にはミラノスカラ座で浅利慶太演出のオペラ「蝶々夫人」の美術を担当した。他に「頭痛肩こり樋口一葉」など多数。
おおたか静流(しずる)、5日死去、69歳。歌手。「花」のカバーをはじめ多くのCMソングを歌っている。「悲しくてやりきれない」のカバーは映画『シコふんじゃった』の主題歌に使われた。
神坂次郎(こうさか・じろう)、6日死去、95歳。作家。『元禄御畳奉行の日記』『縛られた巨人 南方熊楠の生涯』など多数。
渡部又兵衛、7日死去、72歳。コント集団「ザ・ニュースペーパー」代表。政治家に扮し時事ネタで人気を得た。
久米是志(くめ・ただし)、11日死去、90歳。ホンダ3代目社長。本田宗一郎から直接指導を受けたエンジン開発者。初代シビックの開発責任者。72年に世界で最も厳しい米国の環境規制を初めてクリアーした。83年から90年に社長を務め、その後のロボット、航空機などの研究開発を進めた。
彩木雅夫(さいき・まさお)、16日死去、89歳。作詞家。「長崎は今日も雨だった」で知られる。
石井いさみ、17日死去、80歳。漫画家。「750(ナナハン)ライダー」がヒットした。
中村健之介、22日死去、83歳。ロシア文学者、北海道大学名誉教授。ドストエフスキーの研究で知られた。他にロシア正教の大司祭ニコライの研究で知られ、全日記の監訳を務めた。新書、文庫などにあるニコライ紹介書はこの人の著書である。
田澤耕(たざわ・こう)、22日死去、69歳。カタルーニャ語研究者。カタルーニャ語の文法書、辞書などを多数まとめるとともに、ガウディ等カタルーニャ文化を広く紹介した。また日本文学などをカタルーニャ語に翻訳するなども行った。2003年、カタルーニャ州政府よりサン・ジョルディ十字勲章を受賞した。
有吉道夫、27日死去、87歳。将棋棋士9段。「火の玉流」と呼ばれ、公式戦1000勝を達成した。69年の名人戦では師匠の大山康晴と史上初の師弟による名人戦として注目された。
山脇百合子、29日没、90歳。絵本作家、挿絵画家。実姉の中川李枝子との共作が多く、『ぐりとぐら』の挿絵で知られた。
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武村正義、池永正明、福井達雨ー2022年9月の訃報①

2022年10月08日 22時58分38秒 | 追悼
 2022年9月の訃報。ジャン=リュック・ゴダールを別に書いた。僕にとってゴダールの訃報がすべてみたいな月だったけど、思いのほか重要な訃報が多かった。月末に亡くなった三遊亭円楽は、8月に国立演芸場で聞いたばかり。先月、青森県の蔦温泉を書いたが、そこにアントニオ猪木の墓があると書いたら、10月1日に亡くなった。何だか偶然にしては怖すぎの感じ。月ごとなので猪木は来月になる。全部で3回に分けて、まずはそう言えばこの人がいたなという3人を取り上げたい。

 元新党さきがけ代表武村正義が9月28日に死去。88歳。マスコミは「元官房長官」と書いたが、書くならば「元大蔵大臣」ではないか。21世紀になって、官房長官の重要性が増しているが、昔は首相の次は外相、蔵相だった。だから、「自社さ」三党連立の村山富市内閣が出来た時、自民党総裁の河野洋平が外相、さきがけ代表の武村が蔵相に就任したのである。官房長官というのは、前年1993年に非自民8党派連立の細川護熙内閣が出来た時に就任したものである。
(武村正義)
 93年総選挙では、自民党から新生党(小沢、羽田グループ)とさきがけが離党し、新生党は社会、公明、民社などと政権合意をまとめて選挙に臨んだ。どちらも過半数を取れず、細川の日本新党と武村の新党さきがけが組んだ院内会派「さきがけ日本新党」がキャスティングボートを握ることになった。そして小沢一郎が日本新党の細川を首相候補として擁立して、政権交代が実現した。しかし、その後「国民福祉税」構想などで細川首相と距離を置くようになり、94年4月の細川首相の辞意表明で両者の関係は終わる。

 この背景には連立政権の実質的リーダー、小沢一郎(新生党代表幹事)に対する警戒心がある。「豪腕」で知られた小沢は、当時「普通の国」を目指す「危険な政治家」と思われていた。リベラルな政治姿勢の河野洋平が総裁を務める自民党の方が連立相手として相応しいという判断もあったのだと思う。ある意味「反小沢」でまとまったのが、あり得ないと思われた社会党委員長を首相に担ぐ「自社さ連立」内閣だったのである。大蔵大臣は村山首相が辞任する96年1月まで務めた。その間、フランスが南太平洋で大気圏内核実験を行った際に、現職蔵相でありながら現地の抗議デモに参加したことが忘れらない。
(自社さ三党連立、左から武村、村山、河野)
 武村正義については、衆議院議員になる前の方が興味深いと思う。高校時代は民青で、名大工学部から東大教育学部、経済学部と大回りして、国家公務員上級試験に合格。27歳、妻子ありの経歴を後藤田正晴が面白がって、自治省に採用されたとウィキペディアにある。1971年に郷里の滋賀県八日市市長に当選。自転車で通勤する36歳の若い市長は全国的に注目された。1974年には当時の野崎知事に反発する勢力に擁立され、4野党推薦の「革新」候補として滋賀県知事選に立候補して当選した。78年、82年には無投票で再選。この間、79年には琵琶湖の水質保全のための合成洗剤追放条例(琵琶湖条例)や風景保全のための条例を成立させた。
(知事時代)
 僕は知事就任以前から注目していたが、87年総選挙に当選した後は自民党に入党してガッカリしたものだ。しかし、「政治とカネ」の問題を考える「ユートピア政治研究会」を結成し、これが「新党さきがけ」につながる。日本では珍しい「環境重視の保守リベラル政党」の可能性があったかもしれないと思う。だが三党連立を成功させる「寝業師」の面も持ち、その結果小選挙区制度に対応するため「社・さ」で新党を結成すると言うとき、鳩山由紀夫に「排除」されてしまった。その時点では「自民寄り」のイメージが強くなってしまったのである。しかし、僕は思うのだが、鳩菅の軍師として民主党に武村がいたら歴史は少し変わったのではないか。今後大国が終わる日本において、武村が主張した「小さくともキラリと光る国」は再発見されると思っている。

 元プロ野球選手の池永正明が9月25日に死去。76歳。下関商業の投手として3年連続で甲子園に出場。2年生だった63年の選抜大会では優勝した。1965年に西鉄ライオンズに入団して、20勝10敗で新人王となった。そして67、68年には23勝を挙げて、300勝投手も夢ではないと言われたわけである。しかし、池永の名前は「黒い霧事件」による永久追放で記憶されることになってしまった。当時政界で疑惑が持ち上がると「黒い霧」と言われたため、69年オフに「野球賭博に関わる八百長疑惑」が持ち上がった時も「黒い霧」と呼ばれた。そして100万円を受領して返金されていなかった(年長選手から勧誘され返せなかった)ことを認めた。この結果、永久追放処分が下されたのである。
 (池永正明)
 僕はもちろんこの事件をよく覚えている。中学生だったので、当時のこと故、受験勉強中などにはプロ野球のラジオをよく聞いていた。毎日巨人戦がテレビ中継されていた時代である。パリーグの中継はほぼなかったから、多分テ池永を池永を見たことはなかったと思う。でもこれほど活躍していた選手の名前は当然知っていた。そして若い投手の代表格として、何となく気に入っていた。西鉄は50年代に2度日本一になった黄金時代があるが、60年代後半には低迷していた。僕は逆に強かった巨人、阪急などに関心がなかったのである。しかし、池永なくして西鉄はやっていけない。この処分は厳し過ぎるのではないか、と思わないでもなかった。その後処分解除を求める運動が続き、2005年に永久処分が解除された。本人は博多の中州でバーを営んでいたという。

 滋賀県に重度障害児施設「止揚学園」を設立した福井達雨が9月6日に死去、90歳。東京では新聞に訃報が掲載されなかったが、僕は非常に影響された人なので、取り上げておきたいのである。70年代、80年代にとても多くの本を書いている。自身の体験だけでなく、障害児の描いた絵をもとにした絵本なども多い。若く理想主義的だった僕は、障害児のために献身する福井に教育者の鑑を見る思いがした。「止揚学園」とはヘーゲルの止揚である。まさに時代を象徴するような命名ではないか。
(福井達雨)(止揚学園)
 書名をちょっと挙げておくと、『僕アホやない人間だ』『嫌われ、恐がられ、いやがられて 障害児差別と共に25年』『子供に生かされ子供を生きる』『草は枯れ、花は散るとも 子どもらに生かされて35年』『やさしい心をもっていますか? 障害児と共に生き、社会と闘い、心を守った、ほんとうの教育』などなど。読まなくても判るような題名だけど、読めばやっぱり感動したのである。妻の知人にここに勤めている人がいて、毎年のようにカンパしていた。やっぱり仕事にするとなると大変なようで、僕も最近は読んでないんだけど、長く続けたことだけで、偉大な教育者であり社会福祉家だったと思う。全国で講演活動も行っていた。
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劇団印象『カレル・チャペック』を見る

2022年10月07日 22時50分29秒 | 演劇
 劇団印象カレル・チャペック~水の足音~』という劇を東京芸術劇場(シアター・ウエスト)で見た。今日が初演で、10日まで全7公演。戦前のチェコで活躍したカレル・チャペックは僕の大好きな作家で、数年前に何回か記事を書いた。僕はこの劇団を知らなくて、新聞で紹介されていたので是非見たいと思ったわけである。しかし、劇団名も「いんしょう」と常識的に読んでしまった。アナウンスで「いんぞう」と言うから、チラシを見たら英語で「-indian elephant-」と書いてあった。
 
 鈴木アツト作・演出で、この人が劇団の中心。外国人の評伝劇は3回目だと出ている。前はオーウェルケストナーと言うんだから、そっちも僕は是非見たかった。1921年から1938年のカレルの死まで、全7場で構成されている。最後を除き、チャペック兄弟の家が舞台で、そこにカレルと兄のヨゼフ、兄の妻ヤルミラ、後にカレルの妻となるオルガ、そして共和国大統領のトマーシュ・マサリク、その息子のヤン・マサリク、チャペック兄弟の友人ランゲル、そして兄夫婦の娘アレナという実在人物が主要登場人物である。そこにもう一人、ドイツ語教師のギルベアタ・ゼリガーという女性が登場する。
(左=カレル、右=ヨゼフのチャペック兄弟)
 複雑なようで、ある程度人名を知っていれば混乱はしない。ヨゼフは画家として活躍した人物だが、当初は戯曲も共作していた。チェコスロヴァキア共和国の初代大統領トマーシュ・マサリクは哲人大統領と呼ばれ、チャペックの家で開かれた「金曜会」という会合にも出席していた。劇のようにカレルを家に訪ねても全然おかしくない。チェコスロヴァキアは第一次大戦でオーストリア=ハンガリー帝国(ハプスブルク帝国)が敗北して、独立を達成した若い国だった。小さな民主主義国家としていかに独立を維持していくか。マサリクにとってだけでなく、それがカレル・チャペックの生涯のテーマだった。

 ゼリガーというドイツ人は架空の存在だろう。ドイツ人が多いズテーテン地方の教師で、独立後にドイツ人が少数民族になりチェコ語が優先されるようになった。それはおかしいのではないかとカレルに詰め寄るのである。そして次第にナチスに惹かれるようになっていく。この問題を作者が取り上げたのは何故だろうか。当然「ウクライナ戦争」だろう。ソ連解体により、ウクライナやモルドバなどに住むロシア人は少数民族になってしまった。ロシアは自国外のロシア人勢力を支援して「分離国家」を作り上げ「併合」していった。この経過はズテーテン地方の割譲をチェコに迫ったヒトラーのやり口を想起させる。
(カレルと妻のオルガ)
 この劇では家庭内の様々なドラマを軽快に描き出していく。女性の生き方、ユダヤ人ランゲルの人生など、いくつかのサブテーマも描く。またカレルとヤン・マサリクとのオルガをめぐる恋愛の行方も興味深い。(ヤンとオルガの関係が事実かどうか僕は知らない。)また娘のアレナが川で山椒魚を取ってきたり、マサリク大統領が「船長ヴァン・ドフ」に扮して出て来るなど『山椒魚戦争』にまつわるエピソードも印象的。しかし、やはり「危機の時代に民主主義を守っていくこと」に関する勇気と決断のドラマが感動的に描かれたドラマである。
(トマーシュ・マサリク)
 まさに今に向けて書かれた劇だと僕は感じた。ラスト近くでズテーテン地方の割譲を英米が認めた「ミュンヘン協定」(1938年9月29日)が出て来る。ヤン・マサリクはカレルを訪問し、やむを得ざる苦渋の決断として、新聞に支持する文章を書いてくれるように依頼する。ヤン・マサリクは戦後外務大臣になるが、共産党政権樹立直前に謎の死(恐らく殺害)をとげる。その未来を知る者には苦渋の苦さも格別だ。また、ちょっと違う問題だけど、チャペック兄弟と言えば家で犬や猫を何匹も飼っていたことで有名だ。また園芸家としても著名。庭いじりは難しいだろうが、ぬいぐるみでいいから「ダーシェンカ」が欲しかった。

 まあ、とにかく全体としては非常に満足したお芝居。役者はカレルを二條正士以下、皆頑張っていたが名前は省略。ヤルミラ役の岡崎さつきが良かったと思う。チャペックに関しては、2017年末から18年にかけて「チャペック兄弟、犬と猫の本」、「チャペックの旅行記」、「新聞・映画・芝居をつくる」、「政治とコラム」、「「山椒魚戦争」と「ロボット」」と5回書いた。最高傑作は間違いなく『山椒魚戦争』だが、『園芸家12ヶ月』『ダーシェンカ』も忘れられない。
*コメントにより、記事に間違いがあったことが判り一部書き直しました。(2022.10.18)
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映画『ミーティング・ザ・ビートルズ・イン・インド』

2022年10月06日 22時51分09秒 |  〃  (新作外国映画)
 映画『ミーティング・ザ・ビートルズ・イン・インド』(Meeting The Beatles in India)という映画をやっている。もう題名通りのドキュメンタリー映画である。1968年にザ・ビートルズの面々がインドを訪れ、マハリシ・ヨーギーのアシュラムでメディテーションを行った。これは非常に有名な出来事で、「激動の60年代」に悩む若者たちに「精神世界」ブームをもたらした。その時、同じ場所にカナダのポール・サルツマンという23歳の青年が滞在していた。彼は皆と仲良くなって写真を撮ったけれど、帰国した後はすっかり忘れていた。その後、彼の娘が写真を再発見して、今では広く知られている。そして、近年になってサルツマンはイギリスやインドを訪れて、彼らと出会った半世紀前を振り返る記録映画を製作したのである。

 僕はザ・ビートルズのコアなファンとは言えないけれど、もちろん同時代人だから良く知っている。彼らの解散は中学3年の時で、一応解散前から知っているのである。だから、好きな曲、知ってる曲を挙げろと言われれば、何十曲もスラスラ言える。しかし、この映画はむしろファン以外の人に見て欲しくて書こうかと思った。ドキュメンタリー映画として非常に優れているというわけではない。むしろこの半世紀の「精神史」を理解するために見て欲しいのである。
(サルツマンが撮った有名な集合写真)
 60年代から70年代に掛けて、世界が本当に大きく変わった。政治的な変革を求めた60年代の「挫折」の後に、精神世界、身体性、「第三世界」などの「ブーム」がやってくる。全世界ではないだろうが、「西側先進諸国」では大体そのような流れがあった。そのことは最近では真木悠介気流の鳴る音』を論じた時にも触れた。当時の「精神世界」ブームは、インチキもあれば体制補完のための利用もあったと思う。でも21世紀になって「新自由主義」や「新冷戦」の厳しい時代を生きる世代にも引き継ぎたいと思うのである。この映画はそういう意味があるから若い世代に見て欲しいのである。
(ポール・サルツマン)
 よく知られていることだが、最初にインドに惹かれたのはジョージ・ハリスンだった。そして他の3人も呼んだのである。アシュラム(僧院)があったのは、リシケシュという場所である。どこだか知らなかったけど、インド北部、ガンジス上流の人口10万ほどの観光地。ガンジス河畔だけど、ここまではかなりの急流。サルツマンは時代の流れでインドに憧れ、恋人もいたのにインドへ行ってしまう。恋人からは別れの手紙が来て、失恋の痛みからリシケシュを訪れた。
(リシケシュ)
 そこにはビートルズがいると言われてしばらくは入れないが、やがて真剣さが認められた。他にビーチ・ボーイズのマイク・ラヴ、歌手ドノヴァン、女優ミア・ファローなどもいた。次第に親しくなっていったのは、サルツマンに邪念がなかったからだろう。世界的有名人と親しくなって利用してやろうなどという気が全くなかったのである。自分の失恋が優先だったんだろう。ジョン・レノンは「愛が素晴らしいのは、必ずセカンド・チャンスがあることだ」という言葉を彼に贈った。まさに60年代の神話である。たった8日間のことだったけれど、サルツマンだけが写真を残せたのである。
(マハリシ・マヘーシュ・ヨーギー)
 映画内でマハリシと呼ばれているマハリシ・マヘーシュ・ヨーギー(1918~2008)はどういう人だろうか。カーストがバラモン出身ではなく、自分の出身地で活躍出来ず、インド各地で修行し知名度を高めていった。50年代末期にアメリカへ進出し、世界的に知られるようになり、ヒッピーの3大グルとされたのだという。他の二人はグルジェフとクリシュナムルティである。しかし、商業的な成功も求めているし、瞑想の科学化を進めるなど危ない部分も多い。

 実際にビートルズの中でもジョージ・ハリスン以外はマハリシから離れた。マハリシがミア・ファローを誘惑したとされる件をきっかけに、ジョン・レノンはマハリシに幻滅して「セクシー・セディ」という曲を作ったという。その辺は僕は詳しくなく、ウィキペディアの記述で知っただけだけど、その件は映画には出て来ない。まあ、サルツマンが撮った写真の時点では、まさに天国的というか「涅槃」というべきか、至福の瞬間が記録されている。帰国したサルツマンはカナダで映画、テレビの監督、プロデューサーとなった。製作総指揮をデヴィッド・リンチ、ナレーションをモーガン・フリーマンが務めている。
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ちくま新書『氏名の誕生』、常識を覆す日本人の名前の歴史

2022年10月05日 21時02分46秒 |  〃 (歴史・地理)
 尾脇秀和氏名の誕生』(ちくま新書、2021)を読んだ。2021年5月に出た本だが、何だか難しそうで今まで読まなかった。読んでみたら難しくはなかったけど、何しろ内容が複雑で細かすぎて困ってしまう。現実の歴史が複雑なのでやむを得ないのだが。一般的には読みにくい本だと思うけど、この本を読んで常識的に考えていた「名前の歴史」への思い込みが覆された。尾脇秀和氏(1983~)は佛教大学大学院博士課程修了後、現在は神戸大学経済経営研究所研究員と出ている。

 一般的な「常識」とは、日本人には「」と「」があるというものだろう。「姓」は親から受け継ぐもので、「名」は子どもが生まれた時に親が付ける。「名」は後に自分で変えることも不可能ではないが、「姓」の方は結婚に伴って変わることはあるが、自分で好きなものに変更は出来ない。もちろん芸名やペンネームは別である。スポーツ選手や芸能人には「イチロー」とか「夏帆」など(または小雪とか奈緒とか…)名前だけで活動してる人もいるが、そういう人でも本来「姓」は持っている。

 そのような名前の構造は大昔からのものである。それは教科書に出てくる人名が「藤原道長」とか「織田信長」などと記載されていることで判る。これは普通に考えれば、現在「姓名」と言ってるものに近い。中には「雪舟」や「良寛」、あるいは「世阿弥」のように名前だけの人もいるが、これは俗名ではない。また女性は「紫式部」「清少納言」のように本名が判らない人もいるが、「北条政子」「日野富子」の例もあるから原則的には姓名がある。

 一方、江戸時代には百姓町人は姓を持たなかった。明治になって「四民平等」になって、「身分に関わらず名字を名乗れる」ようになった。もっとも一番上の天皇家になると、姓はなくて名前だけになる。つまり、皇族、僧、女性及び被支配階級には姓がないか判らない場合があるが、支配階級である貴族や武士(武士もまあ貴族だけど)は皆姓名を持っていた。そして近代になって、全国民が姓を持つようになったのである。これが僕が何となく思っていた「常識」というものである。
(尾脇秀和氏)
 昔から僕には疑問があった。つまり「大岡越前守忠相」(おおおか・えちぜんのかみ・ただすけ)と言うときの、「越前守」とは何だろうか。あるいは忠臣蔵に出て来る浅野内匠頭長矩(あさの・たくみのかみ・ながのり)とか「吉良上野介義央」(きら・こうずけのすけ・よしなかorよしひさ)の「内匠頭」「上野介」とは何か。「上野」(こうずけ)は昔の国名で、今の群馬県である。(「毛野」の地域の中で、都に近い方が「上野」、遠い方が「下野」(しもつけ)である。両方合わせて呼ぶときは「両毛」と言う。)「」は「守」に次ぐナンバー2という意味だから、上野介というのは今で言えば群馬県副知事になる。

 吉良義央は群馬県に何か関係があるのか。もちろん何も関係ない。吉良氏の領地は三河(愛知県)であって、上野ではない。では正式に朝廷から任官されているのか。あるいは江戸時代は朝廷の権威が失墜していたから、幕府が任命していたのか。それとも武士たちそれぞれがカッコいい名前を付けたくて、芸名みたいに勝手に名乗っているのだろうか。というような疑問を持っていたのである。これはやはり朝廷から「正式な任命」があったのである。もっとも朝廷が勝手には出来ない。幕府が取りまとめて、朝廷はそれに基づき、定員を無視して任命するのだという。しかし、もちろん武士の側は手数料というか、それなりの謝礼をしなければならない。これが下級貴族の貴重な収入になる。

 そして驚くべきは、武士の世界の常識では「大岡越前守」というのが「名前」だと認識されていた。「忠相」というのは、「名乗」(なのり)と呼ばれて、サイン(花押)の上に書き足すときしか使わなかった。一応皆名乗を持っているはずだが、中には本人が忘れてしまうぐらい使われなかったんだという。こうして、何か偉そうな昔の官名を名前に使う武士の流儀が下々にも影響していく。○○左衛門とか、○兵衛とか、本来は天皇直属の近衛兵を意味する官名が庶民の名前に使われるようになるのである。
(大岡越前守忠相)
 もっとも朝廷から正式に任命された官名を持つのは、大名や旗本などの上層武士に限られる。陪臣(大名の家臣)が持てるものではない。だから、そういう人は格好良さを求めて、「守」のない国名だけ名乗ったりする。幕末の禁門の変を主導した長州藩家老に「福原越後」「国司信濃」という人がいるが、こういう場合は勝手に付けてるんだろう。かくして、名前は漢字を組み合わせて格好を付けるという意識が確立した。市川團十郎は10男ではないし、岡本綺堂の捕物帳の主人公半七も7男ではない。

 ここまでで長くなっているが、もうちょっと。実は大問題があって、武士の常識は朝廷の常識ではない。それは当然だろう。越前守を任命するに当たっては、越前守以外の名を持つ人物が申請する必要がある。というか、そもそも「姓」以前の「本姓」がある。例えば徳川氏は「源氏」である。吉良氏はもともとは足利氏から出ていて本姓は源氏になる。「源義央」が「上野介」に任命された。そして、このような朝廷流が本来の方式であるとする「復古思想」が幕末に優勢になっていき、ついには王政復古となる。しかし、ここでまたまた混乱が起こってくるのである。朝廷流を押し通そうと思っても、無位無冠の下級武士がのし上がって、名前の呼び方が大混乱になるのである。

 本書に大隈重信の場合が出ている。「大隈」(苗字)「八太郎」(通称)「菅原」(姓)「朝臣」(尸)「重信」(実名・名乗)となる。「尸」は「し」で、「かばね」のこと。これでは複雑すぎるので、結局何段階かを経て「姓」「尸」は廃止し、苗字の後に通称か名乗を付けることに統一した。西郷隆盛の「隆盛」は名乗を取り、後藤象二郎の「象二郎」は通称を取った。

 そして、この方式を全国民に強制することになった。それは陸軍卿山県有朋の「徴兵事務の都合」という主張によるものだった。農民は以前からムラ共同体の中で「苗字」があった例が多いが、町人の中には長屋の住人に赤穂義士の姓を割り振ったなんてケースもあったと出ている。それは1875年(明治8年)2月13日の「苗字強制令」によるのである。
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ナンニ・モレッティ監督『3つの鍵』『親愛なる日記』

2022年10月03日 22時21分13秒 |  〃  (新作外国映画)
 イタリアの巨匠ナンニ・モレッティ監督(1953~)の新作『3つの鍵』(2021)が公開された。同時に旧作『親愛なる日記』(1994)のレストア版も限定上映されている。どうも旧作の方が素晴らしいような気がするが、それはともかくイタリア映画は大好きだから紹介しておきたい。ナンニ・モレッティ監督は若くしてヴェネツィア、ベルリンで受賞しながら日本での紹介が遅れた。私的な思い入れの強い作風が敬遠されたのだろう。その後、カンヌ映画祭で『親愛なる日記』が監督賞、『息子の部屋』(2001)がパルムドールを獲得。この映画は子どもを亡くした家族を描いて、心に沁みる傑作だった。

 この監督は自作のオリジナル脚本が多いんだけど、今回はエシュコル・ネヴォという人の『三階』という本が原作である。調べてみると、原作者はイスラエルの作家で、舞台はテルアビブになっている。同じアパートに住んでいる人々を描いていることは共通らしいが、原作はそれぞれ独立した短編だという。監督による脚本は舞台をローマに移し、3つのエピソードを組み合わせて一つの物語にしている。アパートと書いたが、かなりの高級住宅街の集合住宅である。その真ん前である夜、交通事故が起きて死者が出る。
(裁判官夫妻)
 その事故を起こした犯人は3階の住人、裁判官夫妻の息子だった。親子関係は破綻していて、事故に直面することが出来ない。同じ時に、2階に住むある女性が出産のため病院に行こうとしている。夫が長期出張中で一人なのである。車は1階に突っ込んでしまい、1階の家族は幼い娘を時々預かって貰う隣家に避難させる。この3家族に起きる出来事をモザイク状に描き出していくが、各家族のストーリーはここでは細かく書かない。映画を見ていると人間は愚かな生き物で、それぞれ「愚行の代償」を払わないといけないことを痛切に感じる。
(1階の親子)
 その愚行ぶりは『LOVE LIFE』のレベルではない。登場人物はやり過ぎ的な行動が多いが、それはイタリアだからか、それとも原作に由来するのか。はたまた日本人がおとなしすぎるのかもしれない。この映画の特徴は、ある時点で最初の物語が終わり、画面には「5年後」と出る。さらにもう一回5年後になるので、時系列としては10年にわたる物語になる。中には亡くなったり行方知れずになる人もあるし、子どもたちは成長する。長いスパンで物語ることによって、時間と共に人間が変わることも示す。そこが「現在」しか描かれない『LOVE LIFE』と違う。どんな物語も、5年後、10年後にはまた違った人間模様があるのである。

 人間を厳しく見つめる『3つの鍵』に対して、私的なエッセイ映画の体裁で作られた『親愛なる日記』は観客に親密な感情を呼び起こす「個人映画」である。3部に分かれていて、第1部「ヴェスパに乗って」ではイタリア製のスクーターに乗ってローマの街をめぐる。繁栄する中心部や過去の遺跡ではなく、人々の住む街をめぐる。それが素晴らしく魅力的。パゾリーニが殺害された現場を見に行く感動的なシーンがある。もちろん自分で乗って出掛ける自作自演の映画である。

 第2部「島めぐり」ではローマの喧噪を逃れて南部の島々をめぐる。どこへ行っても観光客が多く次々と島を移るが、風景が'美しい。次の「医者めぐり」は謎のかゆみを発症して医者をめぐり歩く。なんだか奇病らしく、病名がなかなかはっきりしない。東洋医学へも通う。かつて見たことがないタイプの映画で、こんな映画があったんだと感心した。上映が限られていて見るのは大変だと思うけど、イタリアが好きな人には絶対に見逃せない。感動というか、むしろ親密感を呼び起こすタイプの映画である。
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深田晃司監督の傑作映画『LOVE LIFE』

2022年10月02日 21時02分57秒 | 映画 (新作日本映画)
 最近は古い映画ばかり見ていて、新作を見ているヒマがない。特に今年は日本映画の新作をあまり見てないんだけど、見たけれど書かなくてもいい映画も多かった。しかし、ヴェネツィア映画祭のコンペに出品された深田晃司監督の新作『LOVE LIFE』をやっと見たら、これは傑作だった。ヴェネツィアで無冠に終わったので、なんだか期待外れだろうと思っている人がいるかもしれない。でも、この映画ほど現代日本で生きる苦悩をじっくり考えさせる作品も少ないと思う。

 深田晃司(1980~)は濱口竜介監督と並んで、日本の新世代を代表する映画監督だ。濱口監督は『ドライブ・マイ・カー』で世界的に高い評価を得たが、僕はむしろ深田監督作品の方が好きかもしれない。『ほとりの朔子』『淵に立つ』『よこがお』『本気のしるし 劇場版』など、皆僕には心の奥深くに刺さってくるような映画だった。『本気のしるし』はメーテレ(名古屋テレビ放送)が製作したテレビドラマの再編集版で、珍しく原作(漫画)があった。『LOVE LIFE』もメーテレが出資しているが、今度はオリジナル脚本である。脚本の完成度が非常に高いと僕は思った。
(妙子と二郎、子どもの敬太)
 この映画に僕は深く心揺さぶられたが、その理由を説明するためにはストーリーを細かく書く必要がある。それはいわゆる「ネタバレ」ということになるが、ここでは避けたい。この映画は何の情報もなく、ただ初めて見るという方が絶対に面白いだろうから。映画は(というか「物語」全般は)、世界のある瞬間を切り取って成立している。すべてを描くわけにはいかない。ある幸せそうな夫婦が出て来て、母親は息子とオセロをしている。父親は部屋の飾り付けをしている。これは何だろうと思う。子どものお誕生日会かなと思うと、実は違っていた。それどころか、この3人の関係はちょっと普通とは違っていた。そういう人間関係に気を取られていると、映画はある時点で突然ガラッと様相を変えてしまう。
(ホームレス支援をする妙子)
 まあ、それでももう少し情報を書かないと、これ以上進めない。映画館のサイトに書かれている紹介をコピーする。「妙子木村文乃)が暮らす部屋からは、集合住宅の中央にある広場が一望できる。向かいの棟には、再婚した夫・二郎永山絢斗)の両親が住んでいる。小さな問題を抱えつつも、愛する夫と愛する息子・敬太とのかけがえのない幸せな日々。しかし、結婚して1年が経とうとするある日、夫婦を悲しい出来事が襲う。哀しみに打ち沈む妙子の前に一人の男が現れる。失踪した前夫であり敬太の父親でもあるパク砂田アトム)だった。再会を機に、ろう者であるパクの身の周りの世話をするようになる妙子。一方、二郎は以前付き合っていた山崎山崎紘菜)と会っていた。哀しみの先で、妙子はどんな「愛」を選択するのか、どんな「人生」を選択するのか……。」
(パクと妙子)
 夫の父(田口トモロヲ)が出て来て「部長」と呼ばれている。僕はてっきり民間企業の偉い人かと思ったら、実は市役所の元職員だった。二郎も同じ市役所の福祉職員で、妙子の身分はよく判らないけど、やはり市役所で福祉の仕事をしている。二郎は同僚の山崎と付き合っていたが、別れて子連れの妙子と結婚した。妙子は今もホームレスの支援、見回りなどをしているが、これはヴォランティアだろう。前夫のパクは父が韓国人、母が日本人で、韓国に生まれた「ろう者」である。なかなかそういう人と結婚するのは大変だと思う。仕事を見ても、同情心の篤い人だったからなんだろうなと判る気もする。韓国手話が出て来る(もっとも手話の違いは僕には判らない)点で、『ドライブ・マイ・カー』と共通点がある。
(ヴェネツィア映画祭で。監督、砂田、木村)
 この映画は矢野顕子の1991年に発表された同名アルバムにインスパイアされているという。矢野顕子は名前を知ってるぐらいなので、作品との関係はよく判らない。でも映画のような物語ではないだろう。ストーリー的にかなり無理があると思うが、物語というのは一種の「思考実験」である。ある設定に人間を投げ込んで、その対応を見て行く。その結果、「人間というものは哀しいものだ」「人はみな身勝手なものだ」などと僕は思ったけれど、「人間はそう簡単にダメになったりはしないものだ」という感慨も持った。この映画を見て、それぞれの人が何を思うかは違っているだろうが、何事か心揺さぶられると思う。

 主演の木村文乃(きむら・ふみの)がとても良かった。『くちびるに歌を』で五島列島の中学の音楽教師をしていた人。産休に入ることになって、代替教員に天才ピアニストだった新垣結衣を連れてくる。新垣結衣に気を取られて、木村文乃を忘れていたけどすごく良い。夫の永山絢斗(ながやま・けんと)も悪くはないけど、パク役で実際にろうの役者だという砂田アトムが圧倒的。有力な助演賞候補だろう。また二郎の母役の神野三鈴(かんの・みすず)は舞台で見ることが多い女優だが、細かな感情の表現が素晴らしい。撮影、音楽なども素晴らしい。

 それにしても、人間は何やってるんだろうという愚なる言行を繰り返すものだと思った。映画の間は他人事のように見ているけど、よく思い出してみると自分の人生だって同じではないか。でも、同時に人間は「許し合える」のかな、「やり直せる」のかなとも思った。違うかもしれない。この映画の感想ばかりは人それぞれで構わないだろう。でも映画的な完成度はとても高い。
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『殺しへのライン』(アンソニー・ホロヴィッツ)を読む

2022年10月01日 22時24分00秒 | 〃 (ミステリー)
 アンソニー・ホロヴィッツのホーソーン&ホロヴィッツ シリーズ第3作『殺しへのライン』(A Line to Kill、山田蘭訳、創元推理文庫、2021)をさっそく読んだ。ホロヴィッツはここ4年ほど毎年1作ずつ翻訳されて、すべて大評判になってきた。ここでもその都度書いてきたが、このシリーズの方だけ紹介すると『メインテーマは殺人』、『その裁きは死』である。元刑事ホーソーンの名推理を描くシリーズだが、作者が作中に出て来るなど独創的なミステリーになっている。特に第1作は傑作だった。

 エンタメシリーズとして、この作品から読んでも可能になっているけど、登場人物には前からの経緯もあるから順番に読む方が面白いだろう。今回はもうすぐ第1作『メインテーマは殺人』が刊行される直前で、すでに第2作『その裁きは死』の事件も解決した後という時間設定である。宣伝のため、文芸フェスティバルに参加してはどうかということになる。探偵役のダニエル・ホーソーンは何しろヘンクツで、個人的なことはほとんど明かさない。だから文芸フェスなんか嫌がるかと思うと、場所がチャンネル諸島オルダニー島だと聞いて参加に前向きになる。
 (チャンネル諸島、後の地図の赤いところがオルダニー島)
 チャンネル諸島は上に掲載した地図にあるように、英仏海峡のほぼフランス寄りにある島々である。英国王室の私領という不思議な存在で、イギリスが外交・防衛を担うけれど独自の憲法があって行政は別になっているという。一番大きなジャージー島は人口10万を超えていて、「ジャージ」「ジャージー牛」の語源。オルダニー島なんてところは知らないし、いかにも的な地図が載ってるから、きっと架空かと思ったら実在していた。チャンネル諸島の中では北東に離れた人口2400人の小さな島である。チャンネル諸島は第二次大戦中にドイツに占領され、オルダニー島には強制収容所が作られている。そのことは小説の中にも出て来る。
(オルダニー島)
 さて肝心の文芸フェスだが、今回が初開催ということで、主催者のジュディス・マシスンは張り切っているが参加者はパッとしない。児童文学者のアン・クリアリーは前にホロヴィッツも会ったことがあるが、他にはテレビで評判の料理人マーク・ベラミーとその助手キャスリン・ハリス、本が売れている盲目の霊能者エリザベス・ラヴェルとその夫シド、フランスの朗読詩人マイーサ・ラマルなどが参加している。ホロヴィッツは何しろ紹介するべき本が未刊行とあっては知名度も今ひとつ。

 一方、島側では後援者である大金持ちのチャールズ・ル・メジュラーは、オンラインゲーム会社で大もうけして、島に「眺望館」という大邸宅を作った。今は彼も関わって、ノルマンディー半島から島を通ってイギリスに通じるケーブル設置計画があり、島を二分する争いになっている。ル・メジュラーは料理人マーク・ベラミーと同じ学校で、過去に因縁があったらしい。一方、彼の財務顧問をしているのがデレク・アボットという人物で、これがまたホーソーンと過去の因縁があったのである。どうやらホーソーンはアボットがオルダニー島にいることを知っていて、この文芸フェスに参加したかったらしい。
(オルダニー島の強制収容所跡)
 しばらくは文芸フェスの様子が順を追って描かれる。そしてル・メジュラーは彼の大邸宅に関係者を集めて、マーク・ベラミーが料理を担当する大パーティを開くことになった。ル・メジュラーの妻、ヘレン・ル・メジュラーも島に帰ってきた。ミステリーなんだから殺人事件が起こるんだろうけど、いつ起こるんだという感じで進んで行き、450頁中の150頁ほどになって事件が起きる。島にはすぐ動ける警官がその時はいなくて、ガーンジー島から派遣されてくるが、ホーソーンも捜査への協力を依頼される。

 ホロヴィッツは作中でミステリーでは意外な犯人が多いものだなどと言いながら、今回だけは違うかもしれない。それだと作品にまとめるのは苦労するなどとつぶやいている。英国本土から遠く、一種観光小説的な興趣で進んで行く。そのためスラスラ読んでしまうのだが、もちろん奸智にたけた作者だけに何も起こってないはずの文芸フェスの間にも様々な伏線が散りばめられている。

 それが最後の最後になって、電撃的に真相が明かされて、自分は何を読んでいたんだろうと思う。まあ作りすぎ的な感じも否めないのだが、いかにもホロヴィッツ的なミステリーだ。読んで傑作だと思ったけど、どうにもホーソーンという謎がますます大きくなってくる。イギリスではすでに次回作“The Twist of a Knife” が発表されている由。来年の翻訳刊行が待ち遠しい。
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