尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

「議員定数削減」より「政権交代」、実は国会議員が少ない日本ー維新考④

2024年10月15日 22時19分48秒 | 政治
 10月15日に衆議院選挙が公示され、27日投開票まで「わずか12日間」の選挙戦が始まった。まあ今秋に衆院選があるだろうことは予測されていたことだが、石破首相誕生から日々の動きが急すぎて、なかなか選挙気分が盛り上がらない。ところで今回の衆院選の「争点」は何だろうか。それは幾つも思い浮かぶわけだが、僕が考えるのではなくテレビで見た街頭インタビューでは、「物価高(経済対策)」「政治とカネ(自民党裏金問題)」と同じぐらい、「国会議員が多すぎる」という声が多かった。

 「問題を起こす議員が多すぎる」というのである。なるほどその通りと思う人も多いだろう。最近でも広瀬めぐみ参議院議員や堀井学衆議院議員が辞職した。「政治資金不記載」で辞めた議員もいるし、柿沢未途衆議院議員や宮澤博行衆議院議員などもいた。スキャンダルがあっても、離党しても解散まで議員を辞めなかった人もいる。今はもう皆忘れているだろうガーシー参議院議員なんて人もいたが、そういうスキャンダル議員のおおよそは自民党所属だった。

 「議員が多すぎる」なんて言う人は、きっと「維新」の支持者なんだろうなと僕は思っている。大阪では「維新」が主導して府議会定数が削減され、議員定数を減らすごとに「維新」が増大してきた。定数を減らせば、支持が多い政党しか当選しないから、結果的に「多数党が増え、少数党が減る」わけである。そんなことは政治に関わっている人には常識だから、「維新」の人々は「身を切る改革」とまさに自分も損をする覚悟のように見せて、実は独裁体制を作ってきたわけでる。
(大阪の定数削減)
 自民党議員がスキャンダルを起こし、そんな議員を税金で支えるのはおかしいと思う。そのため議員定数を減らすと、自民党議員も減るかも知れないが、議会全体に占める自民党議員の占有率は上昇する。これは「選挙」というものの仕組みから、どうしてもそうなるのである。選挙システムを変えても同じである。「小選挙区」はもともと比較第一党しか当選しないから、少数党は当選しにくい。「(いわゆる)中選挙区」(定数3~5程度の選挙区)でも、定数を減らせば最下位で当選したはずの議員が落選する。

 「比例代表」の場合は、比例という特徴から与野党ともに減らすことになる。例えば2022年参院選で「比例区」の定数50人が40人だったとしたら、「自民3、公明1」と与党は4人減になる。一方「れいわ新選組1、立憲民主2、維新2、国民民主1」と野党が6人減となるのである。さらにその際、自民党は19人が16人に減るだけだが、れいわ新選組は2人から1人、国民民主党は3人から2人と少数政党には厳しい結果となる。22年は参政党、社民党、NHK党などは40位以内だったので影響はないが、場合によっては少数党の場合「虎の子の1議席」を失うこともありうる。どういう選挙制度でも議員数を減らせば少数党が大きな影響を受けるのだ。
(G7各国の人口当たり議員数)
 日本の国会議員数は多いと思っている人が多いらしいが、それは全く間違った認識である。そのことは前にも書いたけれど(『日本の国会議員は多いのか?ー日本は人口比で少ない国である』)、大事なことだから何度も書いておきたい。例えば、今年選挙があって政権が交代したイギリス。人口は6868万人ほどであるが、下院定数は650人である。(人口10.5万人に一人の国会議員)。同じく今年選挙があったフランス(大統領制なので、議会の役割は限定的だが)では、人口6830万に対して、国民議会の定数は577人である。(人口11.8万人に一人の国会議員)。それに対して、日本は人口1億2,378万人に対して、衆議院の定数は465人。「人口26.6万人に一人の国会議員」である。つまり、英仏に比べて日本の国会議員数は圧倒的に少ない
(主要国の国会議員数と100万人当たりの議員数)
 恐らくこの「国会議員の少なさ」が、日本で「政治が遠い」というイメージの原因だと思う。数が多くなれば、中には問題を起こす人も出て来る。どんな組織でも同じである。その中で自民党議員に問題行動が多かったのは、単に「数が多い」からだけではない。数が多いということは、当選を続けるために無理を重ねてきた可能性がある。今後も支持を得るために、地方選挙で自派議員が当選出来るように違法な支援をする。また政治資金を出す側に取っても、野党議員ではなく権力側にいる与党議員に接近する必要がある。

 もちろん野党議員にも問題を起こす人はいる。だけど近年自民党議員に問題が多かったのは、2012年以来政権与党にあって、ついこの間までは自民党内の「主流派体制」がこの先しばらくはずっと続くと思われてきたからだ。どんな組織も権力を長く握っていれば腐敗する。中国共産党は日中戦争中は高い規律で知られていた。当時政権を握っていた国民党は外国からの援助を横流しするなど腐敗が多かったと言われる。しかし、中華人民共和国も建国以来75年、長くなれば内部に腐敗が生じてくる。

 中国共産党には今や多くのスキャンダルがあり、突然大臣クラスの政治家が急にいなくなる。そして、その理由も公表されない。国会議員の問題行動を無くすためには、「言論の自由」「報道の自由」がないとダメなのである。そして「議員を減らす」のではなく、時に「政権交代」があるような政治が必要だ。そうなれば、政治家が緊張感を持って活動するようになるだろう。
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大阪の公教育の現状はどうなっているかー維新考③

2024年10月14日 22時00分21秒 |  〃 (東京・大阪の教育)
 「維新」政治を考えるシリーズの続き。今までに書いたのは、『2025年大阪・関西万博は「失敗」するのか』と『「維新」的発想=「中間組織の排除」がもたらすもの』である。それまでにも何度か書いているが、最近になって「維新」に関する新書本が目に付いたので、読んでみたのである。3回目も同じく新書の紹介で、岩波新書8月新刊の高田一宏新自由主義と教育改革 大阪から問う』である。著者の高田一宏氏(1965~)は大阪大学大学院人間科学研究科教授とある。

 この本の構成を最初に紹介しておくと、まず「序 検証なき改革を検証するために」がある。その後は、以下の通り。
第1章 新自由主義的改革の潮流ー歴史を振り返る
第2章 大阪の教育改革を振り返るー政治主導による政策の転換
第3章 公正重視から卓越性重視へー学力政策はどう変わったか
第4章 格差の拡大と地域の分断 小・中学校の学校選択制
第5章 高校の淘汰と進路保証の危機ー入試制度企画と再編整備
第6章 改革は成果を上げたのかー新自由主義的教育改革の帰結
第7章 新自由主義的教育改革に対抗するために

 ちょっと面倒くさい紹介になったが、実際に読むのも結構面倒だった。データで検証することが目的の本なので、データが豊富。だけど、ある意味章の名前を見れば内容が理解出来る。犯人を知っていて読むミステリーみたいなものだ。しかし、それこそが目的の本で、そこに価値がある。(なお第1章は、20世紀の動向を知らない世代に貴重な内容が書かれていて大切だと思う。)

 著者は大阪大学で志水宏吉氏に影響を受け、ともに研究を進めたという。志水氏は一般的には知名度が低いだろうが、かつて『学力を育てる』(岩波新書、2005年)や『公立学校の底力』(ちくま新書、2008年)などの一般書を僕も読んだ。教育に関する立場もはっきりしていて、その事を知っていればこの本でも大阪で取り組まれてきた「人権教育」への評価が高いのもよく判る。
(府立高校の定員割れ)
 大阪で「維新」が権力を握って以来、教育に「競争」を導入する政策が進められてきた。学校を競わせ、教師を競わせ、それで「学力」を上げるというような発想だ。もう始まってから10数年、そろそろ「効果」が上がっても良さそうなものだ。もし「大阪方式」が大々的に効果を上げていたら、「維新」は大宣伝してるだろうし、全国から大阪の教育を視察に行くはずだ。しかし、そんな話は聞いたことがない。むしろ「大阪府立高校の定員割れ」が進んでいるというようなニュースが流れている。

 文科省が「全国学力テスト」を開始して以来、いつも同じような結果が出ている。小学校では秋田県、石川県、福井県など本州の日本海側にある県が上位にあることが多い。当初はそれらの地域を視察して、自地域で生かすような試みがなされたと思う。結局は人口の多い大都市部では、生徒数も多く家庭状況も格差が大きく、ただマネして単純に学力が上昇するものではなかった。背景事情を無視して、大阪では「3年続いて定員割れした高校は廃止する」という条例まで作られた。

 そんなことが決まりになったら、一度定員を割った高校は二度と浮上出来ないだろう。もうすぐ後輩が無くなりそうな高校では部活動も継続されないし、進路指導にも不安がある。(例年継続していた大学の「指定校推薦」や例年続いていた就職先が続くかどうか心配だろう。)行政が率先して「この高校は危ないですよ」と「お墨付き」を与えるんだから、生徒や親も進学をためらうだろう。そして実際そうなって、どんどん高校が少なくなっている。どこでも少子化により高校は「再編」されているのだが、大阪の場合は「受験市場による淘汰」なのである。
(公立高校3校「廃止」)
 特に最近は「私立高校の実質無償化」が行われている。(その事は前に『私立高校の「授業料無償化」問題①ー大阪府の場合』を書いた。)この政策により、以前は公立7割、私立3割という進路状況だったのが、今や私立が4割となり5割に迫っているという。それも当然だろう。なぜなら「条件が不平等」だからである。もし公私立を完全に「競争」させたいのなら、公立も私立も同じ受験日にしなければおかしい。しかし、全国的に同様だと思うが、私立高校の受験日が先でその後に公立高校の受験が行われる。これじゃ、学校の教育内容以前に「先に合格した方に入学する」人が多くなるのは当然だ。学費の心配はないのだから(学費以外の修学旅行費や通学費には違いがあるだろうが)、私立高校進学者が増加するわけである。
(大阪市は塾代補助)
 「維新」の教育政策はさらに「進化」している。大阪市では「塾代」への補助が開始されたのである。家庭も塾もかなり混乱したらしいが、やはり歓迎している人が多いという。月1万円だというが、ありがたいことはありがたいだろう。全国どこでも聞いたことがないし、その分は他に使う方が有効だという意見もあるだろう。しかし、このように「直接還元」が「維新」的発想なのである。それにしても「ポピュリズム」も極まれりと僕などは思ってしまう。当初は否定していたはずの「バラマキ」と何が違うのだろうか。
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「れいわ新選組」への疑念と疑問、「サタン」発言、沖縄1区問題、消費税…

2024年10月13日 22時25分26秒 | 政治
 「維新」を考えるシリーズが途中になっているが、その前に「れいわ新選組」について書いておきたい。基本的にはすべての党に指摘したいことがあるのだが、全部書いてる(時間的)余裕がない。特に「野党の選挙協力はなぜ出来ないのか」は重大な問題だが、その中で「れいわ新選組」は最近際だって「独自路線」を強調している。もちろん独自政党なんだから、どこに候補を立てようが自由である。それにしても…と思うことが多いので、ちょっと指摘しておきたいのである。

 「れいわ新選組」に関しては、 まずそのネーミングが理解出来ない。そのことは前にも書いているので、今回は一番最後に回したい。候補者擁立や公約以前に、どうも不可解に思ったのは9月30日の石破総裁発言に対する山本太郎代表の「コメント」だった。臨時国会は10月1日に召集予定だったので、石破氏は翌日に総理大臣に指名されることが確実だったものの、まだ岸田内閣は総辞職していなかった。その時点で石破氏は「10月9日に衆議院を解散し、27日に投開票を行う」と表明した。憲法7条による解散は憲法上認められるかという問題もあるが、それを認めるとしてもまだ内閣総理大臣ではない石破氏に「衆議院解散権」はなかった。そこで「憲法違反発言」だとする指摘もあるわけだが、いま問題にしたいのはそのことではない。

 山本代表のコメントは「自民党とは詐欺師であり統一教会であり裏金泥棒でありサタンだ」というものだった。およそ公党の代表者が発する言葉とは思えない。自民党が「詐欺師」であり「裏金泥棒」だというのは、(ちょっと品位には欠けるが)反対党による論評の範囲だとみなせる。「統一協会」だというのは理解出来ないが、「統一協会問題を直視していない」という意味に解することは可能。しかし、「サタン」だというのは理解不能だ。「サタン」(悪魔)はユダヤ教、キリスト教、イスラム教の教義に関わる用語であり、日本では一般的な批評用語(あるいは罵倒語)ではない。一神教を信仰していない人には意味がない。このような言葉遣いは、「れいわ新選組」が独自の世界観を持つ組織だということを意味するのかもしれない。

 もう一つ、最近の注目すべき出来事として「沖縄1区の擁立問題」がある。れいわ新選組は10月8日に沖縄1区に久保田みどりを擁立すると発表したが、3日後の11日に「沖縄1区について」という声明を発表して、久保田の立候補を取り下げた。沖縄県では2014年総選挙から続けて3回、野党に加えて翁長、玉城知事を支持する一部保守勢力が共闘する「オール沖縄」体制が続いてきた。2014年は4小選挙区で全勝したが、17年は沖縄4区、21年は沖縄3区、4区で自民党に敗北した。その中で1区では共産党の赤嶺政賢が3回連続して当選してきた。これは全国で唯一、共産党が小選挙区で獲得した議席である。
(沖縄1区に関する声明)
 声明によれば、れいわ新選組は沖縄4区の候補選出をめぐって「オール沖縄」への批判を強めていた。1区=共産、2区=社民、3区=立民(比例当選)は、現職がいるためその議員が継続するが、4区の場合はどうするか。結局前回敗れた立憲民主党金城徹の立候補が決定した。金城は71歳と高齢なので、若手や女性を擁立すべきだとの批判も強く、れいわ新選組は50歳の山川仁の立候補を決めた。僕も「オール沖縄」候補者が高齢男性ばかりだという批判はもっともだと思う。野党支持者が「オール沖縄」を神聖不可侵と考えるのもおかしい。だが、突然の1区擁立が共産党への打撃になるのも明らかで、疑問や反発が出て来るのも予想出来る。

 そういうことをすべて予想したうえでの立候補かと思ったら、3日後には早くも取り下げ。このブレはどうしたものなんだろう。その前日にれいわ新選組は衆院選の立候補者を発表した。比例東京ブロック単独で伊勢崎賢治など注目すべき候補もいる。その中で、埼玉5区で辻村ちひろ(男性)、千葉14区にミサオ・レッドウルフ(女性)の擁立が含まれていて注目された。前者は枝野幸男、後者は野田佳彦の選挙区である。どこに立てるも自由とは言いつつ、これでは「主敵は立憲民主党」と宣言しているようなものだ。自民党「裏金」議員の選挙区にも、有力対立候補がいない選挙区は存在する。自民党有力者にぶつけるのではなく、野党有力者に対抗馬を立てるのは「結果的に自民党を利するもの」だろう。そういう理解で良いのか、きちんと説明すべきだと思う。
(公約)
 公約については僕も共感する部分もあるが、全体的に「おいしすぎる」感が否めない。「消費税廃止」「季節ごとのインフレ給付金」「社会保険料減免」「子ども手当一律3万円」などなど。消費税を廃止した上で、こんなに給付出来るんだろうか。そんな心配(期待)をするまでもなく、れいわ新選組が全員当選しても過半数には遠く及ばず、投票しても給付金など貰えない。いろいろ自公政権の施策を見直して、廃止すべきものを廃止すればお金は出て来るというのかもしれない。だけど、そんなことは夢物語だろう。いつか勢力を増やして政権を獲得したとしても、その時は強大な反対党を意識せざるを得ないのだから。

 ともあれ、そんな遠い将来の夢を見るのはやめて、当面の衆院選をどうするか。いま自民党に批判が集まっているときに、少数勢力はどうするべきか。共産党のような歴史と思想性がある政党はともかく、「れいわ新選組」のような歴史が浅く地方議員も少ない党が、与党に対してではなく他野党に向かってケンカを売っていて良いのだろうか。もちろん立憲民主党側にも問題があるにしても。公約を見れば、明らかに「ポピュリズム政党」と呼ぶしかないと思う。それはもともと「党名」に「れいわ新選組」と名付けた段階で予想出来たことである。「れいわ」にも「新選組」にも、歴史的センスがあれば違和感を覚えると思う。

 「元号」には政治的、イデオロギー的背景があるし、さらに一党が独占して使用すべきものではない。ホームページを見ると「れいわと一緒に」日本を変えようと呼びかけている。これは「元号の政治的利用」だろう。「新選組」も歴史的にどう評価するか明らかにするべきだ。「維新」を主導した薩長勢力と対決したのが「新選組」だから、「維新」と「新選組」が21世紀に再び対決するのも当然か。それにしても歴史が逆行しているようなネーミングに驚いてしまう。
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日本被団協にノーベル平和賞ー「1人ひとりの力は微力だが、無力ではない」

2024年10月12日 22時31分14秒 | 社会(世の中の出来事)

 2024年のノーベル平和賞が「日本被団協」に贈られると発表された。これは世界的に「意外な授賞」と受け取られている。僕も被団協への授賞は「もうないもの」と思っていたので、テレビニュースの速報を見て驚いた。今年は中東情勢に関連して選ばれるのではないかと予測されていた。個人的には「国際刑事裁判所」(ICC)が受賞するのではないかと予想していた。ICCは現在プーチンにもネタニヤフにも逮捕状を発している。世界はいまICCを強力にサポートする必要があるからだ。
(記者会見する箕牧智之被団協代表委委員)
 「日本被団協」(日本原水爆被害者団体協議会)に関しては、2017年にICAN(核兵器廃絶国際キャンペーン)が受賞したときに、こう書いている。「僕はできれば「日本被団協」との共同授賞が良かったと思う。今年は事前にはイラン核合意関係の授賞が有力とされていた。いずれにせよ、北朝鮮の核開発やトランプ政権発足があり、核兵器をめぐる授賞になるだろうと僕も予想していた。日本の「ヒバクシャ運動」に授賞することは、「戦争認識」問題を呼び起こす可能性があり単独授賞は難しいかもしれないが、もう残された時間が少ないのでぜひ授賞して欲しかった。」(『ノーベル平和賞、サーロー節子さんの演説』)

 この間毎年のように被爆者運動を支えてきた人々が亡くなっている。例えば2000年から被団協代表委員を務めていた坪井直氏は、2021年に96歳で亡くなった。今回の決定を受けて記者会見を行った箕牧智之(みまき・としゆき)氏は、坪井氏の後を受けて広島県被団協理事長、日本被団協代表委員となったのである。「日本被団協」はもちろんノーベル平和賞を取る目的で活動している団体ではない。しかし、ノーベル平和賞受賞は自分たちのやって来たことに意義があったと認定されたことになる。もっと早く受賞したならば、さらに多くの「ヒバクシャ」の苦難が報われただろうと残念なのである。
(ノーベル平和賞を発表する委員長)
 日本の「ヒバクシャ運動」はどのような意味があるのだろうか。日本の原水禁運動は1954年の「第五福竜丸事件」(アメリカがビキニ環礁・エニウェトク環礁で行った水爆実験によって、静岡県焼津市のマグロ漁船第五福竜丸が被爆した事件)を受けて、国民的な平和運動として発足した。しかし、60年代初頭に「ソ連の核兵器をどう評価するか」をめぐって分裂する。その後は原水協(共産党系)、原水禁(社会党系)、核禁会議(自民党、民社党系)の3つに分かれて活動していた。被団協は1965年に「いかなる原水禁団体にも加盟しない」と決め原水協を脱退した。(広島県では被団協も分裂して2つあるとのことである。)

 それ以後は政党の立場を離れて、日本政府や国連などに核兵器廃絶や原爆被害への国家補償などを求めてきた。被団協はあらゆる国の核兵器に反対し、「被爆者」の声を世界に届けることで、国際世論に大きな影響を与えてきた。アメリカや中国などでは、「原爆が戦争を終わらせた」「日本の侵略戦争の結果」という歴史観が根強い。そのことが先の引用で「戦争認識問題を呼び起こす可能性」と書いた理由である。だが、現時点ではそういう問題は後景に退いたのではないか。

 それはウクライナ戦争ガザ戦争が世界に衝撃を与えたからである。第二次世界大戦で最も大きな被害を受けた「ソ連」と「ユダヤ人」は、かつての悲劇を逆の立場で繰り返している。ドイツ軍が破壊し尽くしたウクライナに、今度は東からロシアが侵略している。ナチスによってジェノサイドの悲劇を受けたユダヤ人が戦後に建国したイスラエルは、今ではパレスチナ人に無慈悲な攻撃を繰り返している。どこに「歴史の教訓」があるんだろうか。そのような時に、「自分たちを最後のヒバクシャに」と訴えてきた戦後日本の被爆者運動の倫理性を振り返ることは大きな意義がある。

 「原爆を落としたアメリカに報復しよう」とか、「二度と核兵器の被害を受けないため日本も核武装しよう」などとは、被爆者は考えなかったのである。恐らくロシア人やユダヤ人にも、自国の現状を深く恥じている人が多くいるだろう。同じように日本でも、「核兵器の抑止力」を声高に語りながら「唯一の被爆国」と称して広島で首脳会議を行うような自国のあり方に深く恥じている人がいる。もっとも世界どこの国でも、そういう人が大きな勢力にはなっていない。
(記者会見に同席した高校生平和大使)
 そんな時に思い出すのは、記者会見でも同席していた「高校生平和大使」の活動だ。東京ではほとんど取り組まれていないが、1998年に長崎県に始まったという。署名活動を行い国連に提出するなどの活動を若い世代が行ってきた。この取り組みをノーベル平和賞に推薦する動きもあるらしい。「ヒバクシャ」はやがて一人もいなくなる。世界から核兵器をなくすために、どうやって引き継いで行くべきか。日本人の大きな課題だ。そのヒントになるのが、この高校生平和大使じゃないだろうか。その運動のスローガンが「1人ひとりの力は微力だが、無力ではない」だという。衆議院選挙が直近に控える今、すべての人が噛みしめるべき言葉だ。

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アイダ・ルピノ、忘れられた女性監督の「発見」

2024年10月11日 22時20分26秒 |  〃 (世界の映画監督)
 シネマヴェーラ渋谷で「カメラの両側で アイダ・ルピノ レトロスペクティブ」という特集上映を行っている。(10月18日まで。)これは驚きと発見に満ちた、非常に素晴らしい企画だと思う。アイダ・ルピノ(Ida Lupino、1918~1995)と言われても、知らない人がほとんどだろう。僕は昔の映画(40年代、50年代ぐらいの白黒映画のことだが)を見るのが好きで、その中でアメリカの昔の女優にそんな人がいたな程度の知識はあった。しかし、監督をしていたことは近年まで全く知らなかった。多くの人も同様だろう。

 「#MeToo運動」以後、世界的に映画史における女性の活躍が見直されてきた。例えばシャンタル・アケルマン監督の『ジャンヌ・ディエルマン ブリュッセル1080、コメルス河畔通り23番』(1975)が日本でも公開され、映画史の見直しが進んでいる。しかし、アケルマンはヌーヴェルヴァーグ以後の作家性の強い女性監督である。それ以前の、映画が「撮影所システム」で作られていた時代には、女性監督はほとんどいなかったと思われてきた。しかし、現実には多くの国で少数ながら注目すべき映画を作った女性監督が存在した。日本では田中絹代が監督としても注目されているが、ハリウッドでは女優アイダ・ルピノが映画監督としても活躍していたのである。

 アイダ・ルピノはロンドンの芸能一家に生まれ、10代のうちからイギリスの舞台や映画で活躍した。当時から主役以上に「娼婦」など「汚れ役」を得意にしていたようである。1933年に出演した映画でパラマウント映画に注目され、ハリウッドに渡ることになった。そして多くの役を演じるが、当時の大女優ベティ・デイヴィスが拒否した役も引き受けて、自分でも「安手のベティ・デイヴィス」と言っている。ワーナー映画に移った後は脚本や演技に異議を唱えることが多く、トラブルメーカーとして契約が更新されずフリーとなった。その間に製作現場を観察し、「作る側」への関心を強めた。そして、夫のコリアー・ヤングを社長として「低予算で問題志向の映画を製作、監督、脚本する」ために、The Filmakers Inc.という会社を設立したのである。

 初監督作品は事実上『望まれざる者』(Not Wanted、1949)だった。クレジット上はエルマー・クリフトン監督になっているが、撮影直後に心臓発作を起こしアイダ・ルピノがほぼ監督を務めた。脚本にはルピノが関わっているので、内容的にも完全にルピノ映画である。冒頭で若い女性が乳母車から赤ちゃんを連れ出す。すぐに母親が気付いて、彼女は「誘拐」として逮捕される。この女性に何があったのかと映画は探っていく。彼女は地方都市で無理解な両親のもとで暮らしていた。たまたま知り合ったピアニストと恋に落ちるが、彼は別の都市に移る。追っていくが彼は一人を望んで彼女を拒否する。その時には妊娠していたが、女は男に告げることが出来ない。「未婚の母」はどうなるんだろうか。時代に先駆けたテーマにチャレンジしている。
(『望まれざる者』)
 監督にクレジットされた最初の作品は『恐れずに』(Never Fear、1950)である。前途有望な女性ダンサーがいて、一緒に踊る恋人もいる。そんな彼女が突然病に倒れる。当時世界に多かったポリオに罹ったのである。足に障害が残り、彼女はダンサーとしての未来を失う。リハビリが始まるが、絶望し彼との仲も悪化する。そんなリハビリの様子を、患者仲間とともにじっくり追って行く。前作もそうだが、ラストはハリウッド的結末に至る。まだ社会の冷徹さをとことん見つめる映画を作れる時代じゃなかった。しかし、こんなにリハビリを正面から描いた映画は他にあるだろうか。医者や看護師が出て来る映画は多いが、この映画は理学療法士作業療法士もきちんと描かれる。プールで歩くリハビリもある。前作でも「未婚の母の家」という施設が出て来る。1950年当時の日本では考えられない。こういう国と戦争をしてたのかと思ってしまう。
(『恐れずに』)
 続く『暴行』(Outrage、1950)ではさらに深刻なテーマにチャレンジしている。それは「レイプ」とその後の「セカンドレイプ」である。夜の街で男に襲われた主人公は、心ない噂に追いつめられ婚約を解消して街をから逃げ出す。彼女に果たして再生する日は来るのだろうか。75分という短い映画だが、今もなお犯罪被害者に起こりうる悲劇を描くのである。しかも、光と影の陰影の中に、印象的な映像を作り出している。まさに時代に先駆けた映画であり、2020年に米国議会図書館の保存映画リストに登録された。「未婚の母」「性被害」など当時は描きにくかったテーマに果敢に挑んでいるのである。
(『暴行』)
 全部詳しく書くと大変なので、後は簡単に。『強く、速く、美しい』(Hard, Fast and Beautiful、1951)はテニスに秀でた娘が有力者に見出され、全米チャンピオンになりウィンブルドンに出場する。母親は自分の結婚生活に幻滅し、娘の人生を通して成功を求めるが、娘は婚約者との落ち着いた生活を求める。「母と娘の衝突」というこれも時代に先駆けたテーマ。『ヒッチハイカー』(The Hitch-Hiker、1953)はたまたま車に乗せたヒッチハイカーが殺人犯だった…という「都市伝説」的恐怖映画。純粋の「フィルム・ノワール」で、これは女性のテーマではないが、いろんな映画を作る必要があったんだろう。低予算のB級犯罪映画だが、この種の映画の傑作になっている。『二重結婚者』(The Bigamist、1953)は妻が仕事に夢中で、孤独な夫に恋人が出来る。仕事と結婚、不妊など現代的テーマで「重婚」を描く。脚本を書いたのは夫のコリアー・ヤングで、彼はルピノが妊娠中に離婚してジョーン・フォンテーンと結婚したという。その体験を反映した映画。
(『ヒッチハイカー』)
 その後、1955年に会社はつぶれてしまい、ルピノは主にテレビで活動するようになる。しかし、コロンビア映画がベストセラーの映画化のため、アイダ・ルピノと契約し、『青春がいっぱい』(The Trouble with Angels、1966)が作られた。ペンシルベニアのカトリック修道院が経営する女子高の物語である。そこにトラブルだらけの二人が入学してきて、ドタバタ騒ぎがいっぱい。その様を見事に描くコメディで、ヒットして続編が2作作られた。まあ雇われ監督で、特にテーマ性があるわけじゃないが、アメリカ映画によくあるような定番「学園もの」ながら楽しく見られる。
(『青春がいっぱい』)
 他に共同監督もあるし、女優で出た映画も面白い。僕も全部見るのは大変で、あまり見てないけど。アイダ・ルピノ監督の映画は、低予算のB級映画として作られている。そして、大手映画会社の埋め草作品として上映されたわけである。経済的には大変だったろうが、自分の会社を持ったためにテーマ性のある作品が製作出来た。それでもハリウッド映画には厳格なコードがあり、70年代以後のように完全に自分の理想を追求することは不可能だった。そんな中で作られた商業映画に、これほど先駆的な作品を作った女性監督がいたというのは大きな発見だ。
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映画『ベイビーわるきゅーれ ナイスデイス』、ますます面白い3作目

2024年10月10日 22時18分20秒 | 映画 (新作日本映画)
 阪元裕吾監督・脚本の『ベイビーわるきゅーれ ナイスデイズ』が公開中。今まで書いてないが、同名の長編シリーズ映画の第3作である。高石あかり伊澤彩織の若い女性2人が何と殺し屋をやってる奇想天外な設定である。まだ28歳の阪元裕吾(1996~)が作っていて、第1作『ベイビーわるきゅーれ』(2021)、第2作『ベイビーわるきゅーれ 2ベイビー』(2023)に続く第3作。前2作は小さな上映から始まって評判になったが、まだ自分たちで楽しく作ってます感が強かった。第3作は池松壮亮前田敦子をゲストに迎えるまでになり、娯楽アクション映画として見逃せない出来映えになっている。

 杉本ちさと高石あかり、2002~)と深川まひろ伊澤彩織、1994~)は、シリーズ当初は卒業間近の女子高生だった。しかし、社会に適合できない二人は「殺し屋」という裏の顔を持っていた。「殺し屋協会」に所属して、依頼に応じてプロの手腕で殺しを行う。しかし、この2人は社会性に乏しく、公共料金の振込みとかそういうことが出来ないのである。高石あかりの方が8歳も年下だが、映画では伊澤彩織の方が年下でコミュニケーション障害という設定になっている。だから「ちさと」が対外的に対応するが、伊澤彩織は本業がスタントなので「まひろ」が最終盤にアクションを披露することが多い。
(右=高石、左=伊澤)
 今回は初の「出張」で、宮崎にやってくる。「依頼案件」はさっさと片付けて、宮崎牛を食べたいな。いけない、「まひろ」はちょうど二十歳になるのに、「ちさと」はお祝いを忘れてた。なんてノンビリムードが一変するのが、「依頼」をこなすために宮崎県庁舎に行った時だった。この県庁舎が効果的で、ちょうど日曜で人がいないことになっている。ターゲットを探していくと、別人が殺そうとしていた。それが協会に所属せずフリーで活動する殺し屋、冬村かえで池松壮亮)だった。いつもジャマになる冬村は協会から抹殺指令が出て、協会に所属する地元の入鹿みなみ前田敦子)と七瀬大谷主水)も加わる。みなみはいちいち2人に突っかかり、険悪ムードの中4人はターゲットと冬村を探し回る。
(冬村かえで=池松壮亮)
 この宮崎という設定で、シーガイアなども効果的に出て来る。宮崎県庁舎本館は1932年建設で、国の登録有形文化財に指定されている。観光地としても知られているらしい。あらすじを細かく書く必要はないだろう。ただ冬村は今までで一番の強敵で、4人で当たっているのになかなか倒せない。最後はまひろと一騎打ちになるが、見事なアクションにしびれる。「ちさと」「まひろ」コンビがボソボソとガールズトークするのも、ますます磨きが掛かってきた。ただ単に面白く見られる映画だが、たまにはこういうのも見ないと。人気俳優が客演するだけのシリーズに育って、今後の展開も楽しみだ。
(宮崎県庁舎本館)
 最近公開されたアメリカ映画『ヒットマン』はニセ殺し屋映画だが、その中に日活映画『拳銃(コルト)は俺のパスポート』(1967)が引用されていてビックリした。同年には『殺しの烙印』(鈴木清順監督)も作られている。日本は伝説的「殺し屋映画」を作ってきた伝統がある。「殺し屋ランキング」とか「殺し屋協会」とか奇想天外な設定が出来るのは、日本には銃が少ないからだろう。日本は世界的に「殺人事件発生率」が非常に低い社会だが、だからこそあり得ない設定を楽しむファンタジーが可能なんだろう。今後もこのシリーズがますますハチャメチャに発展していくことを期待したい。
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アルベルト・フジモリ、高木剛、園部逸夫、縫田曄子他、2024年9月の訃報③

2024年10月09日 22時33分31秒 | 追悼
 政治関係の物故者を内外まとめて。一応「追悼」というカテゴリーになるが、追悼する気持ちではない人も含まれる。まずは元ペルー大統領のアルベルト・フジモリが9月11日に死去、86歳。現地では「フヒモリ」という発音になる。熊本から移民した両親のもとに首都リマで生まれ、大使館に「藤森謙也」と届け出たため日本の戸籍がある。(2007年の参院選で国民新党から立候補したことがある。そのことは『アルベルト・フジモリはなぜ立候補できたのか』に書いた。)1957年にラ・モリーナ国立農科大学大学院農業工学専攻を首席で卒業。そのまま同大学で教員となり、1984年には総長となった。1990年の大統領選に「変革90」を結成して立候補し、当初は本命視されていなかったが、決選投票で後のノーベル文学賞作家マリオ・バルガス=リョサを破って当選した。(なお実は日本生まれで幼児として移民したという説もある。それが事実だと憲法の規定で大統領になれない。)
(アルベルト・フジモリ)
 大統領時代(1990~2000、3選)の業績は、今なお評価が二分されている。当時のペルーはハイパーインフレと「極左ゲリラ」のテロで治安が悪化していた。フジモリは強権を振るって経済も治安も安定に向かったため、その強権を評価する人も多い。一方で議会と憲法を停止し、軍による治安回復を図ったやり方を「独裁」と批判する人もいる。30年以上経ってもペルー国内で評価は定着していない。日本では保守派を中心に「日系人大統領」というだけで高く評価した人がいて、人権無視の強権的手法が軽視されている。テロ対策や貧困対策に一定の成果があったのは間違いないが、憲法規定を無視して3選したのは問題だ。さらに2000年にブルネイでのAPEC首脳会議のため出国したまま、東京からファックスで大統領を辞任したのは非難されて当然だ。その後ペルーに戻り、2010年に禁錮25年の判決が確定した。(2023年12月に高齢のため釈放。)

 労働組合の中央組織「連合」の第5代会長(2005~2009)、高木剛(たかぎ・つよし)が9月2日死去、80歳。旭化成労組書記長から、1988年に上部組織ゼンセン同盟書記長、1996年に会長。日本の労働運動の中で、旧民社党系(旧「同盟」)のリーダー的存在で、94年には連合副会長となった。2003年の会長選では笹森清に敗れ、2005年は急きょ立候補した鴨桃代に323票対107票で勝った。対立候補が立ったのも「闘わない労働組合」への批判が根強かったことを物語る。民主党の小沢一郎代表(当時)と関係を深め、2007年参院選、09年衆院選で民主党を支援した。外務省に出向しタイ大使館一等書記官を務めたこともある。
(高木剛)
 元参議院議員(4期)、東海大学総長の松前達郎が9月8日死去、97歳。東海大学創立者松前重義の長男として生まれ、東北大学で工学博士となった。1963年に東海大教授、72年に学校法人東海大学副学長、91年から死ぬまで東海大学総長を務めた。その間、1977年に社会党から参議院議員に当選、その後民主党に移り、2001年まで務めた。日本学生野球協会会長など多くのスポーツ関係の役職も務めていた。結構有名人だったと思うが、高齢になりすぎて忘れられたか小さな訃報だった。
(松前達郎)
 元最高裁裁判官の園部逸夫(そのべ・いつお)が9月13日死去、95歳。89年から99年に最高裁裁判官を務めた。直近の前職は成蹊大学教授で、専門は行政法。しかし、それ以前に裁判官経験が長かった。1970年に京都大学助教授から東京地裁裁判官に転じたが、司法試験を経ずに裁判官になった珍しいケースである。退官後の2004年に小泉内閣で「皇室典範に関する有識者会議座長代理」に就任、皇室典範の女系・女帝容認の報告書を作成した。2012年には野田内閣で、『女性宮家』検討担当内閣官房参与に就任した。その内容の評価はともかく、退官後に「女性皇族問題」に関わったことで今後も議論される人だろう。
(園部逸夫)
 NHKで女性初の解説委員となり、その後東京都民生局長になった縫田曄子(ぬいだ・ようこ)が9月9日死去、102歳。1971年に美濃部都知事の要請に応えて東京都初の女性局長となった(75年まで)。77年に国立婦人会館初代館長、86年から93年まで市川房枝記念会理事長を務めた。その間、いちいち書かないが政府や民間の各種審議会などに参加している。このように戦後女性史の重要人物だが、この人も長寿のため知らない人が多くなったんだろう。小さな訃報に驚いた。
(縫田曄子)
 ここでどう書くべきか難しいが、レバノンのシーア派組織ヒズボラの最高指導者ナスララ師(ハサン・ナスララ)が、9月27日にイスラエル軍の爆撃で死亡した。1992年にヒズボラの第3代書記長となり、以後30年以上イスラエルと対峙してきた。イスラエルがレバノンを空爆するのは「主権侵害」だが、ヒズボラも事実上レバノン南部で「国家内国家」として存在していた。レバノン人の抵抗組織ではなく、イランの指示によって動く組織だったのも間違いない。イスラエルはハマスが支配したガザ地区に続き、ヒズボラ支配地区を徹底的に制圧するため地上侵攻を行っている。しかし、よくまあヒズボラ最高幹部の居場所をピンポイントで爆撃できたのか、イスラエルの諜報能力はすさまじいものがある。
(ナスララ)
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山藤章二、細江英公、渡辺武信、赤澤史朗他ー2024年9月の訃報③

2024年10月08日 21時52分05秒 | 追悼
 2024年9月の訃報、日本の文化関係にしぼって。イラストレーターの山藤章二が9月30日死去、87歳。何と言っても「週刊朝日」に1976年から2021年まで2260回連載した「ブラック・アングル」である。風刺とブラックユーモアを利かしたイラストが評判となり、「週刊朝日を後ろから開かせる男」と呼ばれた。ホントに傑作が多く、僕も同時代に見て爆笑したものだ。83年に菊池寛賞。「週刊朝日」も2023年5月で終わってしまった。傑作の数々は検索すればいっぱい出て来るので、ここには載せない。
(山藤章二)
 写真家の細江英公が9月16日死去、91歳。1963年に三島由紀夫をモデルに使った『薔薇刑』を発表して注目された。70年には舞踏家土方巽を秋田の農村で撮影した『鎌鼬』(かまいたち)で芸術選奨文部大臣賞。リアリズム写真とは違う芸術表現としての写真を追求した。2010年に文化功労者。ちゃんと見たことはないが、特に三島の姿など一度見たら忘れがたい写真だ。
(細江英公)(『薔薇刑』)
 詩人、建築家、映画評論家の渡辺武信が8日死去、86歳。1964年に鈴木志郞康、天沢退二郎などと詩誌「凶区」を創刊して活躍した。僕にとってはキネマ旬報に延々と連載した『日活アクションの華麗な世界』(1980ー81)の著者として忘れられない。日活アクションとは、50年代末から60年代前半にかけ石原裕次郎、小林旭、浅丘ルリ子らが出演して作られた娯楽映画群(プログラム・ピクチャー)である。それらの映画は、「自己の誇り」のためにアイデンティティを賭けて闘う映画だったと分析した。僕にとって非常に大きな影響を与えられた本である。
(渡辺武信)
 日本近現代史専攻の歴史学者、立命館大学名誉教授の赤澤史朗が9月20日死去、76歳。この訃報には驚いた。若い頃に赤澤氏らの思想史研究会に参加していた思い出があるからだ。早稲田大学大学院の博士課程で学び、1988年から立命館大学法学部助教授、教授となった。一般に知られた著作としては、『靖国神社 「殉国」と「平和」をめぐる戦後史』(岩波現代文庫)がある。他に『近代日本の思想動員と宗教統制』『戦没者合祀と靖国神社』など。
(赤澤史朗)
 考古学者、歴史民俗学博物館教授の松木武彦が9月21日死去、62歳。大学時代にアーチェリー部に所属していたことをきっかけに、古代の弓を研究した。そこから戦争と平和の考古学研究に領域を広げ、さらに過去の遺物を通して当時の人々の心に迫る「認知考古学」で知られた。『列島創世記 旧石器・縄文・弥生・古墳時代』(2008)でサントリー学芸賞。『人はなぜ戦うのか 考古学からみた戦争』(2001)、『古墳とはなにか 認知考古学からみる古代』(2011)、『縄文とケルト 辺境の比較考古学』(2017)など一般向け著作も多かった。現職中の死去は残念すぎる。
(松木武彦)  
 作家の宇能鴻一郎が8月28日に死去、90歳。1962年に『鯨神』で芥川賞を受けたが、70年代に官能小説の第一人者となった。最近になって昔の異色小説が再評価されて、詳しくは『姫君を喰う話』(新潮文庫)を読んだときに書いたので参照。
(宇能鴻一郎)
 合唱指揮者の田中信昭が9月12日死去、96歳。東京混声合唱団の創設を主導し、多くの新作の初演して「独自の合唱文化を構築」したと出ている。全国のプロ、アマの合唱団の指導に積極的に取り組んだ。2016年に文化功労者。8月31日にも東混公演で指揮をしていたというが、僕はこの人の名前も知らなかった。
(田中信昭)
 歌謡グループ「敏いとうとハッピー&ブルー」のリーダー、敏いとうが9月10日死去、84歳。本名は伊藤敏。71年に結成し、「わたし祈ってます」が大ヒットした。「星降る街角」「よせばいいのに」などで「ムード歌謡の帝王」と呼ばれた。
 (敏いとう)
 文芸評論家、慶応大名誉教授の福田和也が9月20日死去、63歳。『日本の家郷』やエッセー『悪女の美食術』などが評価された。保守派の論客として知られ、『日本クーデター計画』などひんしゅくを買うような本をあえて出している。また『作家の値打ち』(2000)では100人の作家を点数で評価して話題となった。江藤淳の影響を受け、追悼・回想記『江藤淳という人』(2000)を書いた。ネット以前の「保守論壇誌」時代の文化人だったかも。
(福田和也)
 ノンフィクション作家の佐々淳子が9月1日死去、56歳。 災害現場や死をテーマにした作品で知られる。『エンジェルフライト 国際霊柩送還士』で2012年開高健ノンフィクション賞。また東日本大震災で被災した製紙工場を描く『紙つなげ! 彼らが本の紙を造っている 再生・日本製紙石巻工場』、週末期がん患者を追った『エンド・オブ・ライフ』などの著書がある。2022年末に脳腫瘍が見つかり闘病していた。僕は全然知らなかった人。
(佐々淳子)
 映画スクリプターの白鳥あかねが14日死去、92歳。1955年から日活のスクリプター(記録)として多くの作品に関わった。後にシナリオも書くようになり、日活ロマンポルノなどを手掛けた。著書に『スクリプターはストリッパーではありません』がある。僕は何度かトークを聞いたことがある。作家、エッセイスト、ポプリ研究家の熊井明子が9月21日死去、84歳。『シェイクスピアの香り』などで山本安英賞。ポプリブームの立役者で、ポプリ、猫、シェークスピア関係の本の多数の著書がある。映画監督の故熊井啓氏の夫人。
(白鳥あかね)(熊井明子)
・元共同テレビ会長の岡田太郎が3日死去、94歳。フジテレビでドラマ製作に関わった。吉永小百合の夫。
・音楽プロデューサーの川添象郎(かわぞえ・しょうろう)が8日死去。「ヘアー」の日本公演やYMOの世界進出に尽力した。
・洋画家で芸術院会員の中山忠彦が24日死去、89歳。
・書評家の茶木則雄が死去、67歳。27日に公表されたが死亡日は未発表。ミステリー専門書店「ブックスサカイ深夜プラス1」の店長をつとめ、その後フリーライターとしてミステリーなどの書評で活躍した。
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マギー・スミス、クリス・クリストファーソン、セルジオ・メンデス他ー2024年9月の訃報①

2024年10月07日 20時13分05秒 | 追悼
 2024年9月の訃報特集。3回になる予定。まず政治関係を除く、外国の文化、スポーツ関係から。イギリスの俳優マギー・スミスが9月27日死去、89歳。マスコミでは晩年の『ハリー・ポッター』シリーズや『ダウントン・アビー』が大きく扱われていた。もちろんその通りだけど、元々はイギリスの舞台俳優で50年代から近年までシェークスピアなど数多く演じてきた。映画も早くから出ていたが、『オセロ』(1965)で米アカデミー賞助演女優賞にノミネートされて注目された。その後、数多くの映画に出演し、『ミス・ブロディの青春』(1969)でアカデミー賞主演女優賞、『カリフォルニア・スイート』(1978)で助演女優賞。『天使にラブソングを』(1992)が世界的にヒットしたが、僕の一番の思い出は『眺めのいい部屋』(1986)。
 (マギー・スミス)
 アメリカのシンガーソングライター、俳優のクリス・クリストファーソンが9月28日死去、88歳。オックスフォード留学、陸軍士官学校の経歴を捨てて、カントリー歌手になる夢に賭けてナッシュヴィルに向い、コロンビア・レコードの清掃夫をしながら歌手をめざした。ジャニス・ジョプリンが歌って全米1位となった「ミー・アンド・ボビー・マギー」を作った人である。60年代末から俳優としても活躍し、特にサム・ペキンパー監督の『ビリー・ザ・キッドの生涯』『ガルシアの首』『コンボイ』で活躍した。バーブラ・ストライサンドと共演した『スター誕生』でゴールデングローブ賞を受賞。『アリスの恋』『午後の曳航』(三島由紀夫原作をアメリカで映画化)などでも重要な役を演じた。21世紀にも出演しているが、やはり70年代の印象が圧倒的。生涯で3回結婚し、2回目(73~80)の相手は歌手のリタ・クーリッジだった。
 (クリス・クリストファーソン)
 ブラジルの音楽家で、ボサノバ『マシュ・ケ・ナダ』が世界的にヒットしたセルジオ・メンデスが9月5日死去、83歳。もともとクラシックを学んだが、やがて当時人気だったボサノバに移行した。1965年からはアメリカで活動し、1966年に「セルジオ・メンデス&ブラジル'66」のファーストアルバムを発表。その中の『マシュ・ケ・ナダ』がシングルカットされ大ヒットした。確かにこれは若い頃にラジオでよく掛かっていた。何となく知ってる人が多いだろう。ちなみに「マシュ・ケ・ナダ」とは当時のサンパウロのすラングで「まさか」「なんてこった」というような意味だという。70年の大阪万博公園他、数多くの来日公演がある。
(セルジオ・メンデス)(「マシュ・ケ・ナダ」)
 「ジャクソン5」のメンバーで、次兄にあたるティト・ジャクソンが15日死去、70歳。つまり、マイケル・ジャクソンの兄になる。グループではギタリストとコーラスを担当した。アメリカの俳優ジェームズ・アール・ジョーンズが9日死去、93歳。『スター・ウォーズ』シリーズのダース・ベイダーや『ライオン・キング』のムファサの声優をやった人である。しかし、本当は舞台やテレビで活躍し、トニー賞3回、エミー賞2回の受賞歴がある俳優だった。映画では『ボクサー』(1970)で、黒人初のヘビー級チャンピオンになりながら白人女性と恋愛して排斥されるボクサーを演じてアカデミー賞主演男優賞にノミネートされた。
(ティト・ジャクソン)(ジェームズ・アール・ジョーンズ)
 アメリカのミステリー作家、ネルソン・デミルが17日死去、81歳。日本では報道されなかったが、かつてずいぶん翻訳されて読まれていた。長い作品が多く、文庫本だと2冊になることが多かった。『誓約』『チャーム・スクール』『将軍の娘』『ゴールド・コースト』『王者のゲーム』など、全部上下本。最初の3冊は「このミス」入選作で、僕も読んだはずだけど全然覚えてない。
(ネルソン・デミル)
 スポーツではアメリカの元プロ野球選手、監督のピート・ローズが30日死去、83歳。この人は良くも悪くも「伝説の人」だった。MLB最多安打(4256本)、最多出場試合(3562試合)、年間200本安打10回などの最高記録を持ち、大リーグ史上最高の選手と目された。しかし、引退後に監督をしていた1989年に野球賭博への関与が発覚し、球界を永久追放になった。完全にギャンブル依存で毎晩のように賭けていたというが、自チーム勝利に賭けていたという。90年には脱税で服役したこともある。記録の偉大さから何度も復権の動きがあったが、結局認められなかった。サッカー元イタリア代表サルバトーレ・スキラッチが18日死去、59歳。90年ワールドカップ・イタリア大会で得点王、最優秀選手に輝いた。94~97年には磐田でプレーした。
(ピート・ローズ)(スキラッチ)
・ドイツの現代美術家レベッカ・ホルンが6日死去、80歳。羽や角などで身体を拡張したパフォーマンスで知られた。2010年に世界文化賞。
・フランスの映画撮影監督のピエール=ウィリアム・グレンが24日死去、80歳。トリュフォー監督の『アメリカの夜』『トリュフォーの思春期』などを撮影した。ジョージ・ロイ・ヒル監督の『リトル・ロマンス』などアメリカ映画でも活躍した。
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映画『ぼくが生きてる、ふたつの世界』『ぼくのお日さま』

2024年10月05日 22時11分38秒 | 映画 (新作日本映画)
 最近見た日本映画2作を紹介。『ぼくが生きてる、ふたつの世界』と『ぼくのお日さま』。どっちも題名に「ぼく」が付いてるのは偶然だけど、映画の中身を表わすとも言える。どちらもなかなか良かったが、少し淡彩の佳作。株主優待券を残しても仕方ないから、頑張って2本続けて見てきた。『ぼくが生きてる、ふたつの世界』は、吉沢亮が「コーダ」、つまり「Children of Deaf Adults」、耳の聞こえない親に生まれたこどもを演じている。それが見どころだが、もう一つ僕にとっては呉美保(オ・ミポ)監督)9年ぶりの復帰作ということも大きい。
(『ぼくが生きてる、ふたつの世界』)
 冒頭で父親が漁船に塗装をしている無音の映像が、音が入る世界に変わるのが印象的。これが「ふたつの世界」なのである。続いて、一族郎党が集まって子どものお祝いをしている。祖父(でんでん)がうるさいが、今どきこんなに集まって飲み食いする地域があるのか。母親(忍足亜希子=おしたり・あきこ)と父親(今井彰人)は、二人とも耳が聞こえない。それは事前にそういう話だと知っていたが、両親役の二人はともに「ろう者」の俳優である。子どもが泣いていても親は気づけない。そんな様子を丹念に映しながら、子どもはどんどん大きくなる。場所は宮城県の石巻、時代は20世紀末から21世紀頃と次第にわかってくる。
(父と子は釣りに行く)
 子どものうちは自然に手話を覚えて、周囲にも教えて得意になる。だが次第に「授業参観には来ないで」と言うようになって、中学生になると進路相談に乗れない親を疎ましく思い出す。何で自分だけ「親が違う」んだろうか。そうして、高校を卒業後に東京へ出る道を選ぶ。パチンコ屋で働きながら、やがて採用された編集の仕事。ろう者とのつながりも出来て、「コーダ」という言葉も知る。この映画は五十嵐大という人のエッセイ『ろうの両親から生まれたぼくが聴こえる世界と聴こえない世界を行き来して考えた30のこと』が原作になっている。そのことは知らずに見たのだが、親への反発から親との和解、運命の受容への歩みを自然に描いている。そこには「コーダ」の悩みもあるが、普遍的な青春でもある。そこが感動的。
(大人になった大と母親)
 監督の呉美保(1977~)は『そこにみにて光輝く』(2014)、『きみはいい子』(2015)で注目された。9年ぶりの長編映画だが、出産を経て映画界に復帰したことが嬉しい。前作を見て、いずれ再び映画を作ることをずっと期待していたので。一方『ぼくのお日さま』の監督は、若手の奥山大史(1996~)。『僕はイエス様が嫌い』(2019)でサンセバスチャン映画祭で最優秀新人監督賞を受けた。北海道を舞台に、フィギュアスケートのコーチをしている荒川(池松壮亮)と二人の教え子を描く。さくら(中西希亜良)、タクヤ(越山敬達)のスケートシーンが長いが、当然二人ともフィギュアスケートをやってる。
(『ぼくのお日さま』)
 吃音のタクヤは運動も苦手。アイスホッケーのチームに入っているが、失点を繰り返すゴールキーパー。そんな彼がさくらのフィギュアスケートを見て、憧れるようになる。その様子を見た荒川がタクヤも誘って、二人でアイスダンスをしてはどうかと提案する。タクヤがどんどん上手になるのが、ちょっと不自然だと思うけど、そういう子どもたちの様子を描く映画かと思うと実は違った。その事を書くと、見たときに面白くないので止めておく。そうか、そういう映画だったのかと、美しい映像に魅惑されていたらシビアな現実に突如触れることになる。
(さくらとタクヤ)
 自然光を生かした撮影が素晴らしいが、監督の奥山が脚本、撮影、編集を兼ねている。さくらや荒川の視線をとらえた映像を見て、観客の心の中にドラマが生まれる。そのようなタイプの映画で、ここに書けないのが残念。見ている間は「どこか小さな町」のように感じられるが、札幌周辺のあちこちで撮影してつないでいる。かつて有力な選手だった荒川がなぜ小さな町でコーチをしているのか。それは全く説明されないが、人間は奥が深い。池松壮亮はもちろんフィギュアスケートが出来ないから、相当練習したという。もちろんジャンプなんかしてみせないが、スケート自体はそこそこ不自然さなくやっている。
(カンヌ映画祭で。右端=奥山監督)
 雪に覆われた風景が多いが、夏の映像もある。時間をかけて撮影したことが効果を上げている。海を見下ろす町のシーンは明らかに小樽。小樽を舞台にした忘れがたい映画がまた一本現れた。
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映画『西湖畔に生きる』、グー・シャオガン監督の山水画映画第2弾

2024年10月03日 22時01分11秒 |  〃  (新作外国映画)
 中国映画『西湖畔(せいこはん)に生きる』が公開された。2021年に公開された『春江水暖』で高く評価されたグー・シャオガン監督の「山水画映画」第2弾である。前作は「川」を見つめ、川の流れの中に人生を象徴させた映画だった。映像が素晴らしく、監督は「山水画」の絵巻物のような画面を目指したと言っていた。今回は「湖」を中心に、山や茶畑を圧倒的な映像で描き出している。特に冒頭のドローン撮影やラストの鍾乳洞シーンは驚くばかりの見事さ。だが今回は人間社会の醜い面を直視した点が前作と違う。

 舞台は浙江省の省都、杭州(ハンチョウ)とその西にある西湖である。西にある湖は「西湖」と呼ばれやすいが(富士五湖にもある)、中国で「西湖」といえば世界文化遺産にも登録されたここを指す。西湖の風光明媚な景観は昔から日本にも大きな影響を与えてきた。杭州は2023年にアジア大会が開催されたばかりで、人口は1千万を超える大都市に発展している。最近公開された『熱烈』というダンス映画も杭州を舞台にしていて、いま中国でも熱い町なのか。映画で西湖の向こうに広がる大ビル群は印象的だ。
(杭州)(西湖)
 そんなキレイな場所で撮影した映画だが、人間関係の設定は悲劇的。西湖近辺は最高峰の中国茶・龍井茶の生産地で知られるそうだが、そこに茶の摘み取りをして暮らす母・タイホア(苔花)と息子・ムーリエン(目蓮)がいた。父は昔出稼ぎに行ったまま行方不明で、死んだとも失踪したともいう。そんな母が茶畑を追われ、いつの間にか怪しい「シェア経済」にハマっていく。息子は「違法なマルチだ」と何度も説くのだが、母は初めて生きていく実感が得られたと全く聞かない。その商売は体に効く「足裏シート」を周囲に紹介すると、階級が上がっていくというものらしい。足裏シートって、こういうの中国でもあるんだ。
(母タイホア)
 母タイホアを演じるジアン・チンチン(蒋勤勤)は圧倒的迫力。僕は知らなかったが、中国では多くのテレビドラマに出て有名だという。2023年のアジア・フィルム・アワード主演女優賞を受賞した。(ちなみに主演男優賞は役所広司だった。)足裏シートを売る「バタフライ社」に出会って、タイホアは全く印象が変わる。それまでの地味な扮装から一転して、髪型も化粧も一新したときの演技は衝撃的である。だが、それは「違法ビジネス」である。そういう風に宣伝されているが、それを知らなくても一目瞭然だろう。何故なら日本でも似たような事件がかつていっぱい起こったからだ。システムも疑問だが、西湖に浮かぶ船上で行われる「研修」という名の洗脳も凄い。日本でも似たような違法ビジネスや新興宗教が思い出されて来る。

 何とか母を救い出したい息子ムーリエン(ウー・レイ)は、母に従ったフリをして会社に潜入する。そして警察に密告するのだが、母には全く通じない。このような母子のありようは、どうしても安倍元首相銃撃犯を思い出させる。世界共通の構造的な問題なのだろう。ところで、これは「目蓮救母」という仏教の説話に基づくという。それは知らなかった。シャカの弟子目蓮は、亡母が餓鬼道に落ちていることを知り、何とか助けたいと思う。そしてシャカに相談したところ、自分の力を母だけでなく同じ苦しみを持つすべての人を救う気持ちを持つように諭されたという。そうして結局母は救われたという説話が基になっていた。
(グー・シャオガン監督)
 グー・シャオガン(顧暁剛)監督(1988~)は、東京国際映画祭で黒澤明賞を受賞した。杭州生まれ、杭州在住で映画を作っている。この「山水画」を映画で再現するというのが新味だが、今回は社会批判も含まれている。世界中どこにも「マルチ商法」は存在するが、社会の転換期、混乱期に現れやすい。この映画はフィクションだが、こういう設定が成り立つところに中国社会の現在も映し出されているんだと思う。
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鑁阿(ばんな)寺と足利学校ー「100名城」足利氏宅跡を見に行く

2024年10月02日 22時24分12秒 | 東京関東散歩
 少し涼しくなってきたので、どこかへ出掛けたい。栃木県足利市鑁阿(ばんな)寺足利学校に行ってみようと思った。どっちも30年ぐらい前に行ってるのだが、その後に鑁阿寺が国宝に指定された。また、「日本100名城」にも選定された。えっ、単にお寺としか思わなかったけど、鑁阿寺はお城だったの? そう思うと、ここは「足利氏宅跡」として国史跡になっていた。

 ここは京都で将軍になる前、鎌倉時代に作られた中世武士の館だったのだ。だから寺の周囲は濠で囲まれ土塁が築かれている。そこに足利氏によって寺が建てられ、1234年には足利氏の氏寺になった。鑁阿(ばんな)は足利氏2代目義兼の出家後の法名。(足利尊氏は8代目。)「鑁阿」はサンスクリット語を漢字にあてただけで、「大日如来」のことを指す。
    (鑁阿寺本堂=国宝)
 国宝指定の本堂は1199年に持仏堂が作られた。その後火災で焼失していたものを、足利義兼によって1299年に建立された。15世紀初頭に全面的に改築されている。「密教寺院における禅宗様仏堂の初期の例として、また関東地方における禅宗様の古例として貴重」と寺のホームページに出ている。100名城スタンプは本堂を登ったところにある。関東地方の国宝建造物は数少なく、昔は日光と鎌倉(円覚寺舎利殿)と東村山の正福寺地蔵堂しかなかった。その後、埼玉県の歓喜院聖天堂、迎賓館、富岡製糸場も指定されている。京都・奈良などと比べると、歴史が浅いなあと思う。鑁阿寺は2013年に指定された。

 本堂以外に、重要文化財指定建造物が二つあって、それが一切経堂鐘楼一切経堂は美しさでは一番かなと思う。現存のものは、1407年に関東管領足利満兼により再建されたものとある。普段は外部のみ見学だが、内部を公開する日もあるらしい。鐘楼はホームページに出てないのでよく判らない。県や市指定文化財の建造物は他にもあるが、長くなるから省略。
(本堂) (一切経堂)(鐘楼)
 今回は「100名城」として行ったので、やはり周囲を見ないと。その濠や土塁は確かに言われてみれば、これはただのお寺ではない。奈良や京都の寺に行って、こういう風に囲まれている所はないだろう。しかし、中世武士の館と言われても何の痕跡もなく、今では普通のお寺として見る人が多いはず。お城という感じは受けないが、そこにこそ「100名城」選定の意義がある。中世の山城、武士の館からアイヌのチャシ遺跡群や吉野ヶ里遺跡も選ばれていて、「城」への意識を大きく拡大していた。
   (濠と土塁に囲まれて)
 本堂前には大銀杏があって、それもみどころ。境内は緑に覆われ、紅葉すると見事だろう。門も正面の楼門だけでなく、西門、東門が残っている。多くの寺は四方から自由に入れると思うが(見学無料の場合)、そこは武士の館で濠があって入れない。入る時には門を通る必要がある。濠には鴨が多数泳いでいて、大きな鯉もいた。
 (境内)(大銀杏)(西門)
 鑁阿寺の前に足利学校に行った。建物は国宝じゃないが、収蔵物には国宝がある。中に入るには有料だが、いろいろ見られて歴史好きには面白い。「日本最古の学校」をうたい、近世の藩校などと一緒に「日本遺産」になっている。「めざせ!世界遺産」だそうである。正確な創建年代は不明だが、室町時代の上杉憲実(関東管領)が再興につとめて「庠主(しょうしゅ)」(学長)制度を設けた。関東を中心に全国から学徒が集まり、ザビエルが「最も有名な坂東の大学」と紹介したことで知られる。戦国時代に「軍師」と呼ばれた人も、多くはここで学んだことが明らかになっている。
   
 上杉氏が滅びると後北条氏が保護し、その滅亡で危機に陥ると徳川家康に接近して存続できた。もともと寺だったところで仏像もあるが、孔子堂も作られ江戸時代には儒教の古書が保管された場所として尊重されたという。つまり学校というより、図書館として続いたわけである。その後紆余曲折あったが、1921年に国史跡に指定され保存されるようになった。1990年には建物と庭園が復元され、歴史ムードを感じられる場所になっている。
   
 方丈(ほうじょう)は学生が講義を受けたり行事などに使われた場所だが、復元施設。中に入れるので、上がってみるとここで勉強するのかと面白い。漢字テストが置いてあったが、やらなかった。その奥に「庫裏」(くり)、つまり台所がある。そこら辺が足利学校の中心で、有料チケットを買わないと入れない。
(庭)(歩道橋から) (訪れた人々)
 図書館の入口に「今までに訪れた人々」が書かれていて、古くは林羅山から渡辺崋山、吉田松陰、高杉晋作、近代になると渋沢栄一、大隈重信、乃木希典、東郷平八郎など多彩な顔ぶれが来ていたことが判る。学びに来たと言うよりは、まあ観光みたいな人が多いと思うが。車で行って太平記館の駐車場(無料)に停めた。そこは太平記の解説施設じゃなくて、単にお土産所だった。足利名物の「古印最中」などを買って帰ってきた。他に行きたいところもあったが、行きに渋滞にハマったのでさっさと帰宅。
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石破政権波高し、「お友達内閣」に波乱の予感

2024年10月01日 22時07分47秒 | 政治
 10月1日に臨時国会が開かれた。それに先立ち岸田文雄内閣総辞職して、国会で行われた内閣総理大臣指名選挙で、石破茂自民党総裁が第102代総理大臣に選ばれた。石破首相は直ちに組閣に着手し、石破茂内閣が発足した。しかし今回は閣僚、党役員の顔ぶれは日曜日には報道されていた。翌月曜日(9月30日)朝刊に掲載されている閣僚名簿は実際のものと全く同じである。

 総裁選立候補者は内閣には林芳正(官房長官留任)、加藤勝信(財務相)しか入っていない。僕は以前書いたように(「石破首相」の可能性はあるかー2024自民党総裁選はどうなるか?)、この自民党の危機に当たって石破茂が総裁に選ばれる可能性は高くなってきたと思っていた。ただ、総裁選当日に書いたように、高市早苗は経済閣僚に起用されるだろうと思っていた。まあはっきり言えば財務相である。幹事長を任せるわけにはいかないだろう(総選挙を控えて、選挙全体に大きな影響力を持つ役職を「裏金」議員に支持された高市に任せると批判される)が、選挙を前にして「市場向け」の顔がいると思ったのである。
(異例の人事と報道)
 もちろん石破と高市では、めざす基本政策は相当に違うんだろう。しかし、当面来年の参院選までは、衆院選、予算編成、外交日程、通常国会、万博、政治資金規正法再改正と、これだけでも大変である。本格的な石破政権は来年参院選後の内閣改造の後になるはずだ。自民党議員が選挙で落ちてしまっては全員にとって困るはずだから、それまでは「自民党オールスター内閣」が作られると見込んだのである。しかし、現実には高市、小林鷹之は提示ポストを拒否したと伝えられる。僕は小林は若手代表格で選挙遊説の顔として入閣すると踏んでいた。ところが組閣名簿を見ると、若手抜てきも女性抜てきも全くなかったのである。

 ちょっと総裁選各候補の推薦人から誰が閣僚になったのかを見てみたい。林芳正(本人のみ)、小泉進次郎(三原じゅん子)、上川陽子(牧原秀樹)、加藤勝信(本人と阿部俊子)、河野太郎(武藤容治、浅尾慶一郎)、石破茂(赤沢亮正、伊東良孝、岩屋毅、小里泰弘、平将明、村上誠一郎)、高市早苗、小林鷹之、茂木敏充はゼロである。
(石破内閣の顔ぶれ)
 これは非常に偏った顔ぶれである。高市の推薦人は「裏金議員」が多いから難しい。小林の推薦人は「若手」ばかりで、今回は若手が一人もいないので結果的に誰もいなかった。茂木の場合は完全に非主流と処遇されたということだろう。石破政権は、事実上石破を間に挟んだ「岸田=菅」の前、元首相の「ブリッジ共闘」の様相を呈していて、岸田が忌避した茂木は外され、菅内閣の官房長官だった(同じ派閥の)加藤が登用されたのである。しかし、本気で石破を支える人材が(長く非主流を通してきた石破には)ほとんどいなくて、結果的に石破推薦人ばかりが登用された。まあ、安倍内閣時代に不遇だった人が多いのだが。

 今回「総選挙」の日程も10月27日と考えられる最短となった。総裁選中に「熟議」と発言したのにブレた印象を与えていて、野党は一斉に批判している。恐らく石破自身も予想より早いと思ってるはずだが、選挙日程も閣僚人事も思うようにならなかったんだと思う。僅差の勝利で、まだ抜てきするだけの力がなかった。自民党では当選5回以上、つまり民主党政権以前から議員をしていた人が「入閣待機組」とされる。今回初入閣の衆院議員11名は全員当選5回か6回。2012年以後に初当選の、つまり与党しか知らない議員が「若手」となるが、今回は誰もいない。しかも牧原法相は枝野幸男の選挙区で、一度も小選挙区で当選したことがない。小里農水相も立憲民主党議員(野間健)に敗れて比例復活だった。選挙に強くない「待機組」入閣を優先させたのである。

 これは石破の望んだことではなく、今回決選投票で石破支持に回った各陣営の推薦を断れなかったのだろう。その結果、言葉では「適材適所」と言うだろうが、実際には政策に通じていない大臣も生まれたはずだ。だから、予算委員会を開いて各大臣も追求される事態は避けないとならない。何かスキャンダルが明らかになったりすれば、解散出来ないままズルズル行って麻生内閣の二の舞になっては大変。2009年の政権交代が今も深いトラウマとなっているのである。それこそ、早期解散の理由だろう。石破首相が言ってきたことと違うが、党内基盤がないため押し切られたのである。

 高市は結局総務会長の提示を断ったとされる。2012年の時は、安倍総裁、石破幹事長という人事だった。党を二分した選挙後は、「敗れた側は幹事長」という思いもあるんだろう。だが本心では「一兵卒」に戻りたい思いもあったと思う。1月1日の能登半島地震を受けて、高市は「万博を延期すべきだ」と首相に進言した。それは僕もそう思うのだが、高市は万博を所管するわけではない。首相は結局受け入れなかったのだが、高市は首相とのやり取りを勝手に自分のYouTubeチャンネルに載せた。「閣内対立」と言われてもいいなどと言っていたと思う。岸田前首相は政策や推薦人問題以上に、この問題に怒っていて反高市に回ったという話もある。

 高市とすれば大臣を引き受けても、どこかで訣別するべき関係である。安倍首相時代の石破と同じだが、今や主流、非主流が逆転した。そこで石破側も完全に手切れする気になったのか、何と総務大臣に村上誠一郎を起用した。高市は歴代最長の総務大臣経験者で、そのポストに安倍元首相を鋭く批判した村上を起用する。これは高市には絶対に許せないことだろう。「一兵卒で支える」とか言ってるが、これはどうも病に伏す天智天皇の枕元で「病気平癒を祈るため出家する」として吉野に出奔した大海人皇子を思い出させる。何か「大乱の予感」がするのだが。衆院選で自民党が減った場合、1979年の「40日抗争」のように首班指名で大もめすることがあるかもしれない。
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