音楽の喜び フルートとともに

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愛すべき野獣

2024-05-26 21:01:00 | バロック
土曜日の朝は梅田ドルチェ楽器で伊藤公一先生のマスタークラスでした。
スケールとアルペジオだけで45分。
レガートに吹いているつもりでも、先生の耳からすれば、まだまだ。
奥が深いです。
草津の音楽祭に出演されるそうです。
ぜひ、聴きたいなあ。

子育てサロンの手作りのヒントはないかとダイソーに行ったけれど、手作りの目新しいものはなく、推し活グッズコーナーなどが目を引きました。

ユザワヤにも行ってみたけれど、今度は手がかる刺繍などが人気らしい。
推し活人形の手作りとか…。

サロンの短い時間の中では到底無理。
デコパージュや、プラ版のアクセサリー、レジンも、あんまり流行らないみたい。どうしたものか?

考えながら何も買わずにブラブラ。
阪急三番街の端がフードコートになっていて、いろいろなお店が出ていました。

仙台牛たん麦とろで
ランチを食べて帰りました。
安いので助かります。
「味が薄いので、濃いのがお好きな方はおつけ下さい。」と言われて、とろろにお醤油を刺しました。(しないと何もかかってない。)

他の小鉢は私にはまあまあ塩味が強かったです。
矢場とんが出来ていたのでお土産に串カツ5本買いました。


名古屋からあちこち進出しているみたいですが、私の通るルートでは初めて。
夜、夫と次男と、韓国の石の板で焼き肉。端っこで矢場とんヒレかつ串も焼いて食べました。

久しぶりの赤味噌たれで美味しかったです。

ゲオルグ フリードリヒ ヘンデル(1685-1759年)神聖ローマ帝国ブランデンブルグ選帝侯領ハレ生まれ、グレート・ブリテン王国イングランドロンドン没

ヘンデルは床屋兼医師の父のもとに生まれました。
父は彼を法律家にしたいと考えていました。
ヘンデルは父の目を盗んで、屋根裏部屋でクラヴィコードを弾いていたそうです。

隠れて練習しているところを両親に見つかる幼少期のヘンデル(19世紀の想像図)

1697年父が亡くなり、経済的支援も無くしハレ大学で法律を学びます。同時にハレ大聖堂のオルガニストとしての1年契約を結びます。
1703年どちらも辞め、ハンブルクへ出てヴァイオリニストとして採用されます。
1704年借金の取り立てを、避けるために逃げたヴァイセンフェルスに代わってオペラを作曲すると20回も演奏される大成功を収めます。

1704年のリブレット「アルミーラ」

1706-1710年にはフェルディナンド大公の誘いを受けイタリアに行っています。
スカルラッティ、コレッリに会っています。
ここでオペラ「アグリッピーナ」を発表すると人気になり27回も演奏されています。

1710年ハノーファー選定公の宮廷楽長になります。

1710年25歳のヘンデル
しかし、ロンドンに渡りオペラを上演した所、大成功し、一度はハノーファーに帰りますが、またロンドンに出掛け帰りませんでした。
そうこうする内にハノーファー公が1714年イギリス王ジョージ一世
ジョージ1世の肖像画、ゴドフリー・ネラー作、1714年頃
として即位します。

王の随行員として「王宮の花火の音楽」を上演したりしています。

テムズ川上のジョージ1世とヘンデル(19世紀の想像図)

ロンドンは投機熱が高まっていて、ヘンデルは「王室音楽アカデミー」の中心人物として、ヨーロッパ大陸に渡り、歌手と契約したり、プロデューサーのような仕事をしながらオベラを上演しています。

ウィリアム・ホガースによるカリカチュア(1724年)。左がヘイマーケット国王劇場でヘンデルのオペラとハイデッガーの仮面舞踏会(ほかにアイザック・フォークスの奇術ショーの看板も見える)、右がリンカーンズ・イン・フィールズ劇場でジョン・リッチ一座のハーレクイン劇『フォースタス博士』に行列ができている。手前ではドライデンシェイクスピアの本が紙屑として売られています。

アカデミーでは
シルバーチケットを貴族たちは購入し、21年間オペラをフリーパスで聴くことができたそうです。
結局9年後、1728年破綻します。

しかしヘンデルはすぐに「アカデミー」を建て直し、イタリアの歌手と契約し直しオペラを上演します。

「貴族オペラ」が設立されヘンデルと競合します。
1734年「貴族オペラ」が倒産するまでその関係は続きます。
その年ヘンデルは脳卒中を起こし、半身不随になりますが、アーへンで温泉治療を行い、奇跡的に復活します。

その後後世に残る名作を多産しています。
しかし、当時はオペラブームが去っていて大流行することはありませんでした。
そんな中オラトリオ「メサイア」

「メサイア」自筆稿、第2部最終曲「ハレルヤ」の終わりの部分。1741年9月6日
をダブリンで発表すると起死回生の大人気になります。
ロンドンではあまり流行りませんでしたが…。

1749年には「王宮の花火の音楽」
アーヘンの和約を祝賀する1749年の花火大会
を、上演。
1950年に孤児養育院礼拝堂で慈善演奏会として『メサイア』を上演。
収益を全額寄付しました。この慈善活動はヘンデルが死ぬまでの間の恒例行事となりました。

その夏、ドイツ訪問の道中で馬車が転覆し負傷します。 

その後ロンドンに戻りますが、1751年2月に左眼の視力の衰えが顕著となり、左目失明者となります。間もなく右眼の視力も悪化します。

そのような中で『イェフタ』を完成させますが、1752年頃には完全に失明したため作曲活動はできなくなりました。
その後も演奏活動だけは続けていました。

1758年の夏にタンブリッジ・ウェルズで眼科医のジョン・テイラーによる手術を受けましたが、失敗。
1759年4月74歳で亡くなりました。

ヘンデルは浮き沈みはありますが、音楽だけでなくビジネスとして音楽興行を成功させることにも長けていました。
亡くなった後、現在の貨幣価値で2億円以上の蓄財があり、高額絵画や調度が残されていたそうです。


『愛すべき野獣』(1754年)
ヘンデルを風刺したジョーゼフ・グーピーのカリカチュア[。
ヘンデルは大食漢で、音楽に関してはしばしば激しい感情をあらわにしました。一方でユーモアもあり、寄付を積極的に行い、多くの社会層に友人を持っていました。
1日に6回も食事をしていた時もあり、「この愛すべき野獣」は紛れもなく「豚」〜〜〜。

1735年作曲のオペラ「アルチーナ」
アルチーナは魔法の島に住む魔女です。
魔力で男を誘惑して島で暮らさせますが、自分が飽きると男たちを獣の姿に変えてしまいます。 

島に住む動物たちは、皆もとアルチーナの恋人です。

アルチーナの現在の恋人はルッジェーロ。
ルッジェーロには婚約者がいましたが、今はアルチーナの魔力のとりこです。

その婚約者ブラダマンテは男装し、
ルッジェーロの家庭教師で賢者のメリッソと共に、ルッジェーロ救出のために魔法の島に乗り込みます。

メリッソの力でアルチーナの魔力から解放されたルッジェーロは、
ブラダマンテへの愛を思い出し、
彼らと共に島を逃げ出します。

今まで自分から男を捨てるばかりだったアルチーナは、
初めて自分が捨てられる立場になります。
肝心の魔力も、本気で愛してしまったルッジェーロには効かず、
恋人の心を取り戻すことはできません。

アルチーナは悲嘆にくれ、「Ah! mio cor」(ああ!我が心よ)を歌います。

ああ! 我が心よ、
お前はだまされたのだ
星よ、神々よ、愛の神よ!
裏切り者! こんなにもあなたを愛しているのに、
私を一人、涙の中に残してゆくの?
ああ神よ、置き去りにされるのですか、
ああ神よ、なぜ?




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2 コメント

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メサイア (takan32)
2024-05-26 22:15:55
久米さんへ、私のブログにいいね!をありがとうございます。
私、去年、メサイアを聞きに行きました。
とてもよかったです。
返信する
Unknown (m-fluteangel16)
2024-05-27 15:17:18
@takan32 さん、ありがとうございます😊
メサイア昨年聴きに行かれたのですね!
いいですよね〜!ハレルヤをみんなと歌うのもいいですね!
返信する

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