W杯で”凱旋帰国”した岡ちゃんが逗子に住んでいることを知り、途中まで書いて未完の、逗子に関連する記事のことを思い出し、今、つづきを書いている(汗)。
先日、鎌倉女子大公開講座の麻原美子先生の”平家物語”巻十二が終わり、あとは、付属巻ともいうべき、建礼門院の灌頂巻を残すだけとなった。平家が滅び、六代御前が逗子の田越で処刑されて、平家の血が途絶える。この巻十二で完了する語り本もある。その六代御前のお墓が、逗子海岸にそそぐ田越川の河口近くにある。何度かお参りしているが、巻十二読了を機に、訪ねてみた。
逗子駅から、田越川沿いに15分も歩くと、”六代御前最後之故址”と刻まれた大きな石碑に辿り着く。昭和29年に建てられたものである。裏面には”六代御前法要勤修の趣旨”とあり次のような文面が刻まれている。附近の住民が、夜毎に平家公達の処刑の夢を見て、きっとこれは、六代及平家の供養を絶った祟りではないかと、おののき、逗子佛教会の協力を得て、当刑場の露と消えた平家一門の大法要を行なった、とある。
六代御前についてあまりご存じない方のために、簡単に紹介しておく。平正盛から数えて平家直系の六代目に当たるので子供の頃から”六代(ろくだい)”と呼ばれている。清盛の曾孫に当たる。平家滅亡後、文治元年12月、六代12歳のとき、北条時政によって捕らえられ、鎌倉へ連行される。その間、文覚上人の助命嘆願の頼朝の返事を待っていたが、もうこれまでと、駿河の国、千本の松原で処刑寸前のところ、お許しの早馬が到着する。あわやというところだった。その後、六代は剃髪して妙覚と号した。そして27歳まで生き伸びたが、文覚の幕府反逆の企てを理由に隠岐国に流罪に処され、六代も捕らえられ、鎌倉に護送される。そして逗子の田越川にて処刑される。
その石碑から、山側に少し歩くと、六代御前のお墓がある。巨大な欅に守られるように、六代御前は静かに眠っている。もう、近所の方々の夢の中には現れてきていないだろう。
次回は、建礼門院(平徳子)の灌頂巻に入る。来週、京都に行く予定だが、建礼門院が先帝の菩提を弔っていた、大原の寂光院にも寄ってみようかなとも思っている。
先日、鎌倉女子大公開講座の麻原美子先生の”平家物語”巻十二が終わり、あとは、付属巻ともいうべき、建礼門院の灌頂巻を残すだけとなった。平家が滅び、六代御前が逗子の田越で処刑されて、平家の血が途絶える。この巻十二で完了する語り本もある。その六代御前のお墓が、逗子海岸にそそぐ田越川の河口近くにある。何度かお参りしているが、巻十二読了を機に、訪ねてみた。
逗子駅から、田越川沿いに15分も歩くと、”六代御前最後之故址”と刻まれた大きな石碑に辿り着く。昭和29年に建てられたものである。裏面には”六代御前法要勤修の趣旨”とあり次のような文面が刻まれている。附近の住民が、夜毎に平家公達の処刑の夢を見て、きっとこれは、六代及平家の供養を絶った祟りではないかと、おののき、逗子佛教会の協力を得て、当刑場の露と消えた平家一門の大法要を行なった、とある。
六代御前についてあまりご存じない方のために、簡単に紹介しておく。平正盛から数えて平家直系の六代目に当たるので子供の頃から”六代(ろくだい)”と呼ばれている。清盛の曾孫に当たる。平家滅亡後、文治元年12月、六代12歳のとき、北条時政によって捕らえられ、鎌倉へ連行される。その間、文覚上人の助命嘆願の頼朝の返事を待っていたが、もうこれまでと、駿河の国、千本の松原で処刑寸前のところ、お許しの早馬が到着する。あわやというところだった。その後、六代は剃髪して妙覚と号した。そして27歳まで生き伸びたが、文覚の幕府反逆の企てを理由に隠岐国に流罪に処され、六代も捕らえられ、鎌倉に護送される。そして逗子の田越川にて処刑される。
その石碑から、山側に少し歩くと、六代御前のお墓がある。巨大な欅に守られるように、六代御前は静かに眠っている。もう、近所の方々の夢の中には現れてきていないだろう。
次回は、建礼門院(平徳子)の灌頂巻に入る。来週、京都に行く予定だが、建礼門院が先帝の菩提を弔っていた、大原の寂光院にも寄ってみようかなとも思っている。