先週だったか、朝日新聞に旧石器時代の研究の現状を紹介する記事があった。以前、ゴッドハンド(神の手)の異名を馳せた人による、ねつ造事件もあったし、黒曜石の石器が、自然のものか人工的に作成したのか判別がむづかしいこともあり、現在は、旧石器の発見には慎重な対応がとられているらしい。
日本の旧石器時代の遺跡を、最初に発見したのは、在野の考古学者であった相沢忠洋さんで、岩宿遺跡(群馬県)と呼ばれている。それ以降、旧石器時代研究が大きく進展した大発見であった。
ぼくは考古学フアンでもあったから、若い時に、相沢忠洋の自伝的エッセイ”岩宿の発見”を読み、今も大事に本箱に残してある。今回の新聞記事を機に、改めて、読んでみて、新たな発見があった。旧石器時代の専門的なことではない。ミーハー的発見なのだ(大汗)。
相沢さんは、鎌倉で育ったことを知ったのだ。はじめて読んだ頃は鎌倉に縁がなかったので気にも留めていなかったのだろう。読み始めて、はじめのころに、こんな記述があった。要約すると、昭和8年、8歳のころ、六人家族で横浜の大岡から、浄明寺(地名)に移り、その後、衣張山の麓に家を建てた。叔父さんは、北鎌倉の明月院の奥や、東慶寺の奥に庵を建てて住み、叔母さんは材木座の山裾に住んでいたとのことだ。
そして相沢さんは第二尋常小学校に通い、父母の離婚を機に二階堂の杉本寺に預けられた。その間、妹の死もあった。1年ほど、お寺で過ごし、北鎌倉の叔母さんの家に引っ越した。そこから、学校へは、横須賀線で鎌倉まで出て、八幡さまを抜けて、杉本寺の近くの小学校まで歩いて通ったのだ。そして、昭和12年に鎌倉を離れる。彼にとっては、鎌倉はむしろ悲しい少年時代の思い出の地だった。それでも、遺跡の多い、鎌倉に住んだことで、考古学に興味をもったという。
鎌倉以外にお住まいの方は、関心がないだろうが、ぼくにとっては、そうではない。相沢さんが学校まで歩いた道は、現在のぼくが、よく歩いている道なのだ。北鎌倉は一番の散歩道だし、今、女子大の公開講座に通っている二階堂校舎は、杉本寺の手前にあり、第二小学校もそのすぐ近くなのだ。おまけに、ぼくは相沢さんが学校に通った同じコースを歩いて、二階堂校舎に行っているのだ。えへん(いばることはない;汗)。
で、ぼくは先日、平家物語受講のときに浄妙寺(浄明寺にある)に寄って、そして彼が預けられた杉本寺にも寄って、帰りには、第二小学校の横を通り、鎌倉宮から八幡さまへ、そして鎌倉駅へと歩き、相沢さん関連の、お寺や小学校に寄り、彼の子供時代の面影を追ってみたのだった。
浄妙寺境内
杉本寺
第二小学校
八幡宮の蓮池
。。。
こうした少年時代を終え、納豆行商人をしながら、昭和21年に、赤城山の関東ローム層から黒曜石の打製石器をみつけ、世紀の大発見となったのだった。専門の学校を出ていないので、考古学者に鑑定してもらい、間違いないことが確認され、その後の発掘調査により、岩宿遺跡の存在が明らかになった。牧野富太郎博士もそうだけど、大学など行かなくても、素質と志で、大きな仕事ができるのだ。現在の学界にもいろいろな人が参入できる道を開いてほしいものだ。特定の分野に素質のある人はいくらでもいるはずだ。たとえば、医学だってそうだ。勉強が嫌いで医学部に入れない人でも、手先が器用な人を、高度な技術を必要とする脳外科医に採用するのもいいことだ。勉強が出来ることが、医師としての能力があるとは限らない。もっといえば、まったく関係ないことだ。余計なことを言ってしまった
そのうち、赤城山麓を訪ねてみよう。あそび好き(大汗)。