横浜山手の県立神奈川近代文学館で表記の展覧会が開催されている。萩原井泉水(おぎわらせいせんすい)は、五七五の定形、季語にとらわれない、自由律俳句を提唱したことで有名だが、ぼくは、井泉水のことをよく知らなかったので、この展覧会はいい勉強になった。
ご遺族が約1万点に及ぶ資料を文学館に寄贈され、今回、その一部が展示されている。1911年(明治44年)に、井泉水が私財をなげうって機関紙”層雲”が創刊され、今年は、その100年目に当たるのだ。同じ頃、”白樺”や”青鞜”も創刊されているから、文学界は湧きたつような時代にあったのだろう。三つの機関紙が並べて展示されていた。
”層雲”を通じて、尾崎放哉(おざき ほうさい)や種田山頭火が育った。彼らのコーナーもある。二人とも裕福な家庭に生まれている。放哉は東大法科を卒業し、生命保険会社の重役までなるが、大正12年の関東大震災を機に職を放り出し、寺院に入り、句三昧の生活に入る。山頭火は大地主の子だったが、家業が傾き、大学を止める。関東大震災後、元妻のいる熊本に行ったが、荒れた生活がつづき、市電の辛島町電停前(ワイフに聞いた)で電車を止めようとした(自殺未遂)事件を起こし、禅寺の和尚に助けられ、ここで得度した。両人とも関東大震災を機に、俳句に本格的にのめりこんだのが面白い。(東北大震災でも、これをきっかけに新たな道をと思う人物がきっといるだろう)。大酒呑も共通点で、全国を放浪し、名句をつくった。そのいくつかの句が、手紙や書籍と共に展示されている。
いれ物がない両手でうける
咳をしても一人
墓のうらに廻る (放哉)
分入っても 分入っても 青い山
まっすぐな道でさみしい
どこで死んでもよいと 山の水を飲む (山頭火)
井泉水は、芭蕉好きであることを知った。芭蕉研究家としても有名だそうである。子規により、芭蕉が軽んじられた時代が続いたが、彼が再評価した。”芭蕉さま”、”奥の細道ノート”などの著書が展示されていた。井泉水は書画も得意とし、芭蕉の”嵯峨日記”をモチーフに、京都の寺院や風景を描いた書画はほのぼのとした感じでとても良かった。一方、滑稽味ばかりが評価されていた一茶も正当に評価した。”創作おらが春”の著書もそこにあった。芭蕉も一茶も自由律俳句と共鳴するところがあったのだろう。
石川啄木も井泉水に助けられている。無名時代の啄木の詩を”層雲”に載せてあげ、通常は稿料なしだが、5円を出した。啄木の井泉水宛ての年賀状があった。その年に亡くなったそうだ。井泉水は北鎌倉の禅居院(建長寺塔頭)に滞在したこともある。横浜根岸にもいた。昭和51年、92歳でなくなった。
(横浜根岸にて)
空を歩む ろうろうと 月ひとり (井泉水)
(絶句)
美しき骨壺 牡丹 化けられている (井泉水)
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”層雲”は現在も発刊されている。井泉水の放哉、山頭火らを評したエッセイ。
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文学館前の、芸亭(うんてい)の桜は、開花まであと一息だった。
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追加:井泉水が滞在した禅居院。鎌倉街道を挟んで建長寺の向いにある。今日、撮ってきました(汗)。
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