団塊世代おじさんの日常生活

夏 日本で二番目に気温が高く、陶器と虎渓山と修道院で知られる多治見市の出身です。

なぜ体調が治ったばかりのお嫁さんが、泣いて謝らなければいけないのか理解しがたいです。

2020-02-29 03:48:06 | 日記
 中日新聞の「くらしの作文」に「母在りて」というタイトルで、62歳の女性が投稿されていました。



 私の胸ですやすや眠る孫娘の顔を見ていたら、亡き母のことが思い出され、涙がこぼれそうになりました。

 私が生まれ育ったのは小さな島で、子どものころのトイレは家の外にありました。
かめがいっぱいになると、二つのおけにくみ出し棒で担ぎ、
畑へ運ぶのが母の仕事でした。
畑へ続く坂道を、バランスを取りながら運ぶのは、大変な作業だったと思います。

 島外へ嫁ぐ私の荷造りを母としていた時
「あのとき、あんたを置いて出て行かんでよかったわ」と母が笑いました。

 私が2歳のころ、母は体調を崩し島外の病院に入院したそうです。
やっと退院できたその日に、
しゅうとから「便所がいっぱいだから、すぐくみ出してくれ」と言われ、
「今日だけは勘弁してください」と泣いて謝ったそうです。

 そんな生活の中で疲弊しきった母は、わずかな荷物を風呂敷にまとめ、
家を出る決心をしました。

 置き手紙を書き、最後に一目だけと私の寝顔をのぞいた瞬間、
涙があふれその場に座り込んで、動けなくなったといいます。
初めて聞く話に、涙がこぼれ落ちました。

 母がつないでくれた人生を幸せに歩んでこられ、
孫とも巡り合うこともできました。
感謝の思いは尽きることがありません。


 以上です。

>私が2歳のころ、母は体調を崩し島外の病院に入院したそうです。
やっと退院できたその日に、
しゅうとから「便所がいっぱいだから、すぐくみ出してくれ」と言われ、
「今日だけは勘弁してください」と泣いて謝ったそうです。 

 泣けます。
昔のしゅうとは、思いやりというものがないんでしょうか?
お嫁さんを奴隷と思っていたんでしょうか?
こんな扱いが許された時代だったんでしょうね。

 なぜ体調が治ったばかりのお嫁さんが、泣いて謝らなければいけないのか理解しがたいです。
しゅうとが、お嫁さんの体調が戻るまでやればいいのに。
それが人間でしょ。
腹が立つ!






いのちの歌
コメント (10)
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