中日新聞の読者投稿欄に「大変だった『新聞少年』」というタイトルで、83歳の男性が投稿されていました。
中学生のとき、家庭の経済事情もあって現名古屋市緑区の自宅近くの新聞販売店で朝夕刊を配達した。
その十数年後に発表された山田太郎さんの曲「新聞少年」の歌詞にあるように、夜明けは眠たくて起きるのがつらかった。
徒歩で配達したが、人通りがほとんどない山道もあり特に冬場は暗がりゆえ怖かった。
古戦場に近い場所では亡霊が出てきそうで、墓地付近はいつも震えながら走った。
私は新聞の集金も担当した。
あるとき手渡した領収書控えよりも合計で千円足りないことがあった。
どうも釣り銭は渡したものの、肝心の札をもらい損ねたようだった。
千円といえば私の月給とほぼ同額で、勤め人の月給の十分の一ぐらいだった。
おかげで一カ月私はただ働きとなりわが家に大きな痛手を与えた。
中学校卒業にあたり新聞社から功績を認められて感謝状をもらった。
私は五人きょうだいの一番上とあって全日制高校への進学なんて考えられず、機械メーカーに就職して定時制高校や夜間の短大に通いながら航空機の設計業務に携わった。
六十歳の定年後も関連会社で同じ仕事を十五年間続けた。
理不尽さもあったが、新聞少年時代に働くことの意義や大変さを学んだ気がしている。
以上です。
投稿者さんにとって中学生の時された新聞配達の経験が、その後の人生に大きく影響されたようです。
配達だけでなく集金もされたので、集金では痛い目に遭われたようです。
私も新聞配達をした経験がありますが、集金はとても出来ませんでした。
新聞配達で何が辛いかといえば、雨や雪が降った時でした。
今のように雨の日はビニール・カバーをしないので、新聞が雨に濡れてしまったこともあります。
新聞が雨に濡れているというお客様のクレームに対して、おそらく販売店の店主さんが新しい新聞を持って行って差し替えられたと思います。
私には文句を言われませんでした。
一番びっくりしたのは、ビルの3階まで行く時にエレベーターを利用した時です。
途中で管理人さんがエレベーターの電源を切られてしまったので、エレベーター内に閉じ込められてしまったのです。
よく見るとエレベータ内に電話がありましたので、電話をかけたら守衛室の管理人さんが再度電源を入れてくれました。
これは今でも記憶に残った出来事です。
投稿者さんのように長い間新聞配達をしませんでしたが、もう新聞配達はこりごりの気持ちです。
Matt Monro - Love is a many splendored thing (慕情 / マット・モンロー)