昨日の中日新聞の「中日春秋」に、下記の記事が載っていました。
元ビートルズのポール・マッカートニーさんが老人ホームを訪問したときの話だそうだ。
一人のおばあさんがピアノでビートルズの曲を弾いた
弾き終えるとこんなことを言った。「マッカートニーさん。失礼ながら、自分には歌詞の書き直しが必要です」。
曲は「ホエン・アイム・シックスティー・フォー」(私が六十四歳になったら)。
その年齢になっても君は僕を必要としてくれるかな。
老後のおだやかな暮らしを想像した曲である
おばあさんにしてみれば、高齢者扱いするには六十四歳は若すぎるということなのだろう。
ポールが歌詞を書いたのは二十四歳ごろ。青春期の目には六十四歳はかなりの高齢者に見えてしまったらしい
敬老の日である。
厚生労働省によると全国の百歳以上の高齢者は十五日時点で約九万人。五十二年連続の最多更新だそうだ
統計開始の一九六三年はわずかに百五十三人だったが、今では国立競技場にも入りきらない人数である。
六十四歳があの曲の歌詞にある、庭の手入れや暖炉のそばでの編み物には似合わない年齢になっているのも当然のことか
高齢化社会には深刻な側面も確かにある。
ひどい話、敬老という言葉を敬老の日以外であまり聞かない時代だが、人が長生きできる時代を前向きにとらえ、長生きの人をことほぐ気持ちを忘れたくない。
それは生命を大切にする話なのだから。
以上です。
64歳って、私も振り返って見ますと若いですね。
まだまだ元気でした。
ポール・マッカートニーが24歳の時に作った曲なので、64歳なんて年寄りだと思ったでしょうね。
ご自分も64歳になった時、まだまだ若いと自覚されたのでは。😁
この歌詞は、下記のようです。
何年も時が経ち
僕が年をとって、髪が薄くなっても
君はバレンタインのプレゼントや
誕生日のお祝い、ワインなんかを贈ってくれるかい?
僕が年をとって、髪が薄くなっても
君はバレンタインのプレゼントや
誕生日のお祝い、ワインなんかを贈ってくれるかい?
もし夜中の3時近くになっても僕が帰らなかったら
君はドアの鍵を締めるかな?
僕を必要としてくれるかい? 僕を元気づけてくれるかい?
僕が64歳になっても
君はドアの鍵を締めるかな?
僕を必要としてくれるかい? 僕を元気づけてくれるかい?
僕が64歳になっても
君だって年をとるのさ
君が例の言葉を言ってくれれば
僕はずっとそばにいるよ
君が例の言葉を言ってくれれば
僕はずっとそばにいるよ
僕は役に立つよ、電球が切れたって
フューズを直してあげられる
君は暖炉のそばで、セーターを編んでてくれればいい
日曜の朝には、ドライブに出かけよう
フューズを直してあげられる
君は暖炉のそばで、セーターを編んでてくれればいい
日曜の朝には、ドライブに出かけよう
庭の手入れをしたり、雑草を抜いたり
これ以上の事ってある?
僕を必要としてくれるかい? 僕を満たしてくれるかい?
僕が64歳になっても
これ以上の事ってある?
僕を必要としてくれるかい? 僕を満たしてくれるかい?
僕が64歳になっても
毎年夏には、ワイト島のコテージを借りよう
そんなに高くなければね。
コツコツお金を貯めよう
君の膝の上には、孫たちがいるんだ
ヴェラにチャック、そしてデイヴ
そんなに高くなければね。
コツコツお金を貯めよう
君の膝の上には、孫たちがいるんだ
ヴェラにチャック、そしてデイヴ
ハガキに書いて、僕に教えてよ
君がどう思っているか。
君の想いを、正確に書いて欲しいんだ
それから結びの言葉には、寂しくてげっそりしてる、ってね
君がどう思っているか。
君の想いを、正確に書いて欲しいんだ
それから結びの言葉には、寂しくてげっそりしてる、ってね
返事をちょうだい、この用紙に書いて
“永遠に僕のもの"だって
僕を必要としてくれるかい? 僕を満たしてくれるかい?
僕が64歳になっても
“永遠に僕のもの"だって
僕を必要としてくれるかい? 僕を満たしてくれるかい?
僕が64歳になっても
以上です。
When I'm Sixty Four (Remastered 2009)