山の車道を上がって到着した岩間寺。木々が色づくのを見ることができる。そういえば今年は紅葉をまだ見ていなかったなと思う。まずは仏足石と観音像を見る。前回はこの仏足石の部分がすっぽりと雪で覆われていたのだが、今回はそれをきちんと拝む。また、この奥に鐘があったので撞いてみる。鐘があったことも前は気づかなかったな・・・。やはり一度目と二度目では気づかなかったことがあることに気づかされる。
岩間寺は山門はなく、参道の両側で銅像の仁王像が出迎えてくれる。そして小ぢんまりした境内に入る。目に入ったのはイチョウの葉のじゅうたん。正面にある大イチョウは樹齢450年という。その下の祠の屋根にもイチョウの葉が積もっている。12月、冬というよりは晩秋の趣である。境内の一角には地元の農産物を売る屋台も出ている。
ということで本堂に上がり、お勤めの準備をする。するとそこにやって来たのは巡礼用の白衣を着た男女二人連れ。菅笠も背中にかけているが出で立ちそのものは身軽である。そこはクルマで来たということにしても、西国の札所で白衣姿を見るのは珍しい。そのお二人、私が外陣でお勤めをするのを待っている様子である。四国めぐりをしている人のブログだったか何だったかで、「般若心経を前の人にかぶせるのはマナー違反」というのがあったのだが、まさかそれを実践しているとか?
同じく本堂内で先達用の納経帳に朱印をいただく。西国2巡目ではカラーの本尊御影をいただいており、朱印300円、御影200円、そして入山料と合わせてちょうど1000円である。朱印をいただいた後で、「中に入っても構いませんから、どうどゆっくりお参りを」と言われたその顔に見覚えがある。こちらの住職(いや、確か岩間寺の住職は醍醐寺の住職が兼ねていて、醍醐寺から管理のための僧侶を派遣しているのではないか・・・岩間寺檀信徒のホームページによれば)である。前に来た時はその檀信徒のホームページのイメージでかなり強欲そうな表情に見えたのだが、今こうして接すると物腰も柔らかそうな感じである。一体あのホームページ(最近更新されていない)に書かれていることって何だったのかと思う。
朱印をいただき、内陣にも入る。その間に巡礼二人連れのお勤めが始まったのだが、その声を聞いて驚く。「仏前勤行集」というのがあり、そこに般若心経を初めとしていくつか唱える文言や真言があるのだが、それぞれに前置きの文がある。そこまで一つ一つ唱えている。これまで見た中でここまで経本をきちんと読んでいる人を見たのは初めてである。
本堂の横に池がある。その昔、松尾芭蕉が「古池やかわず飛び込む水の音」の句を詠んだのがこの池であるという言い伝えがある。この季節に蛙はいないが、水が流れる音と観音経の声が静かな境内に響き合って聞こえる。
岩間寺は巨木にゆかりのある寺で、先の大イチョウもそうだし、本堂前の夫婦桂、そして本尊の胎内仏がこの木から彫られたという伝説がある桂谷大樹もある。こうした自然とよく溶け込んでいる岩間寺、往復の道はハードであるが、なかなか素朴な風情のあるところだなと、2回目にして改めて感じる。
帰りは途中の奥宮神社まで山道を歩く。上醍醐まで続く山道と分岐して15分ほど歩くと神社の境内に出る。奥宮神社というと岩間寺の奥の院のように思われるが、創建されたのは意外にも昭和45年と新しい。京都と滋賀の境目にある岩間山を古来からの神のご加護で守ろうということからである。
この境内からは瀬田川から近江平野、さらには琵琶湖まで眺めることができる。前回は雪も降るくらいだったから何も見えなかったのだが、今回は近江八幡あたりまで見ることができる。やはり天気のいい時に来るのがよい。
さてここから下りである。上りは上りで体力を使う感じだったが、下りになると足に来るのがわかる。実は今回迷ったのだが、四国に持って行っている金剛杖を持って来なかった。岩間寺の山道、そして立木山寺の800段の石段があるとわかっていたが、岩間寺は前回杖なしで来たし、800段の石段も他の札所で経験済みで何とかなると思い、結局持たなかったのである。歩幅を縮めて少しずつ歩くため、この後、中千町のバス停までの時間は上りとさほど変わらなかった。
次は立木山寺に移動する。バス停で時間を見ると、10数分後で11時29分発の新浜行きというのがある。このバス停には30分に1本の割合で便があるのだが、そのほとんどが新浜行きである。ただし、この新浜というのは立木山寺最寄りの立木観音前の手前である。結局はそこで降りて、石山駅から本線の系統を走る後続の便を待つか、いっそのこと立木山寺まで瀬田川沿いに歩くかである。とりあえずバスに乗る。
10分ほど走ると、「次は南郷洗堰です」という放送が入る。それを聞いて降車ボタンを押す。同じ後続のバスを待つなら、このまま新浜というところに行くよりは、瀬田川沿いの歴史スポットである南郷洗堰を少し見ようというところである。名前は聞いたことがあるが実物を見たことがなかった。
南郷洗堰は1905年に竣工した治水設備。琵琶湖と、琵琶湖から流れ出る瀬田川流域の水害の軽減を目的として造られたものである。明治時代は琵琶湖とその下流にもさまざまな手が加えられ、南郷洗堰の建造、宇治川と巨椋池の分離、そして新淀川の建設というのは当時として大型プロジェクトだったとされている。現在はその水門は100mほど下流の瀬田川洗堰にその役割を譲り、端のほうだけ遺構として残されている。
水害を防ぐということで南郷洗堰の果たした役割は大きいのだが、これで一つ思い出したことがある。近江八幡の長命寺に行った際に水郷めぐりの舟に乗ったのだが、その船頭の話では、この洗堰で川の流れが一度寸断されたことで、琵琶湖の生態系が変わったとある。その例として挙げられたのがウナギで、昔は琵琶湖でも天然のウナギが獲れたのだそうである。それが洗堰で下流、あるいは海から稚魚が遡上するということがなくなったという。どうしても川の上流から下流ということを考えてしまうが、自然界では「逆の流れ」というのもあるのだないうところである。
南郷洗堰は石山駅から立木観音前を経由して大石まで行く系統のバス停で、本数は15分に1本と多い。やって来たバスに乗り、南郷、そして先ほどのバスの終点の新浜を過ぎる。新浜はコンビニはある以外は普通の住宅地だし、その先は道路の幅も狭くなり歩道も消えた。交通量も多いし、とても歩けたものではなかった。
こちらも10分ほどで立木観音前に到着。観音前というから立木山寺はすぐ目の前にあるのだが、それは800段の石段の上である。こちらは初めて訪れるところで、果たしてどうなるだろうか・・・。
岩間寺は山門はなく、参道の両側で銅像の仁王像が出迎えてくれる。そして小ぢんまりした境内に入る。目に入ったのはイチョウの葉のじゅうたん。正面にある大イチョウは樹齢450年という。その下の祠の屋根にもイチョウの葉が積もっている。12月、冬というよりは晩秋の趣である。境内の一角には地元の農産物を売る屋台も出ている。
ということで本堂に上がり、お勤めの準備をする。するとそこにやって来たのは巡礼用の白衣を着た男女二人連れ。菅笠も背中にかけているが出で立ちそのものは身軽である。そこはクルマで来たということにしても、西国の札所で白衣姿を見るのは珍しい。そのお二人、私が外陣でお勤めをするのを待っている様子である。四国めぐりをしている人のブログだったか何だったかで、「般若心経を前の人にかぶせるのはマナー違反」というのがあったのだが、まさかそれを実践しているとか?
同じく本堂内で先達用の納経帳に朱印をいただく。西国2巡目ではカラーの本尊御影をいただいており、朱印300円、御影200円、そして入山料と合わせてちょうど1000円である。朱印をいただいた後で、「中に入っても構いませんから、どうどゆっくりお参りを」と言われたその顔に見覚えがある。こちらの住職(いや、確か岩間寺の住職は醍醐寺の住職が兼ねていて、醍醐寺から管理のための僧侶を派遣しているのではないか・・・岩間寺檀信徒のホームページによれば)である。前に来た時はその檀信徒のホームページのイメージでかなり強欲そうな表情に見えたのだが、今こうして接すると物腰も柔らかそうな感じである。一体あのホームページ(最近更新されていない)に書かれていることって何だったのかと思う。
朱印をいただき、内陣にも入る。その間に巡礼二人連れのお勤めが始まったのだが、その声を聞いて驚く。「仏前勤行集」というのがあり、そこに般若心経を初めとしていくつか唱える文言や真言があるのだが、それぞれに前置きの文がある。そこまで一つ一つ唱えている。これまで見た中でここまで経本をきちんと読んでいる人を見たのは初めてである。
本堂の横に池がある。その昔、松尾芭蕉が「古池やかわず飛び込む水の音」の句を詠んだのがこの池であるという言い伝えがある。この季節に蛙はいないが、水が流れる音と観音経の声が静かな境内に響き合って聞こえる。
岩間寺は巨木にゆかりのある寺で、先の大イチョウもそうだし、本堂前の夫婦桂、そして本尊の胎内仏がこの木から彫られたという伝説がある桂谷大樹もある。こうした自然とよく溶け込んでいる岩間寺、往復の道はハードであるが、なかなか素朴な風情のあるところだなと、2回目にして改めて感じる。
帰りは途中の奥宮神社まで山道を歩く。上醍醐まで続く山道と分岐して15分ほど歩くと神社の境内に出る。奥宮神社というと岩間寺の奥の院のように思われるが、創建されたのは意外にも昭和45年と新しい。京都と滋賀の境目にある岩間山を古来からの神のご加護で守ろうということからである。
この境内からは瀬田川から近江平野、さらには琵琶湖まで眺めることができる。前回は雪も降るくらいだったから何も見えなかったのだが、今回は近江八幡あたりまで見ることができる。やはり天気のいい時に来るのがよい。
さてここから下りである。上りは上りで体力を使う感じだったが、下りになると足に来るのがわかる。実は今回迷ったのだが、四国に持って行っている金剛杖を持って来なかった。岩間寺の山道、そして立木山寺の800段の石段があるとわかっていたが、岩間寺は前回杖なしで来たし、800段の石段も他の札所で経験済みで何とかなると思い、結局持たなかったのである。歩幅を縮めて少しずつ歩くため、この後、中千町のバス停までの時間は上りとさほど変わらなかった。
次は立木山寺に移動する。バス停で時間を見ると、10数分後で11時29分発の新浜行きというのがある。このバス停には30分に1本の割合で便があるのだが、そのほとんどが新浜行きである。ただし、この新浜というのは立木山寺最寄りの立木観音前の手前である。結局はそこで降りて、石山駅から本線の系統を走る後続の便を待つか、いっそのこと立木山寺まで瀬田川沿いに歩くかである。とりあえずバスに乗る。
10分ほど走ると、「次は南郷洗堰です」という放送が入る。それを聞いて降車ボタンを押す。同じ後続のバスを待つなら、このまま新浜というところに行くよりは、瀬田川沿いの歴史スポットである南郷洗堰を少し見ようというところである。名前は聞いたことがあるが実物を見たことがなかった。
南郷洗堰は1905年に竣工した治水設備。琵琶湖と、琵琶湖から流れ出る瀬田川流域の水害の軽減を目的として造られたものである。明治時代は琵琶湖とその下流にもさまざまな手が加えられ、南郷洗堰の建造、宇治川と巨椋池の分離、そして新淀川の建設というのは当時として大型プロジェクトだったとされている。現在はその水門は100mほど下流の瀬田川洗堰にその役割を譲り、端のほうだけ遺構として残されている。
水害を防ぐということで南郷洗堰の果たした役割は大きいのだが、これで一つ思い出したことがある。近江八幡の長命寺に行った際に水郷めぐりの舟に乗ったのだが、その船頭の話では、この洗堰で川の流れが一度寸断されたことで、琵琶湖の生態系が変わったとある。その例として挙げられたのがウナギで、昔は琵琶湖でも天然のウナギが獲れたのだそうである。それが洗堰で下流、あるいは海から稚魚が遡上するということがなくなったという。どうしても川の上流から下流ということを考えてしまうが、自然界では「逆の流れ」というのもあるのだないうところである。
南郷洗堰は石山駅から立木観音前を経由して大石まで行く系統のバス停で、本数は15分に1本と多い。やって来たバスに乗り、南郷、そして先ほどのバスの終点の新浜を過ぎる。新浜はコンビニはある以外は普通の住宅地だし、その先は道路の幅も狭くなり歩道も消えた。交通量も多いし、とても歩けたものではなかった。
こちらも10分ほどで立木観音前に到着。観音前というから立木山寺はすぐ目の前にあるのだが、それは800段の石段の上である。こちらは初めて訪れるところで、果たしてどうなるだろうか・・・。