まつなる的雑文~光輝く明日に向かえ

まつなる兄さんのよしなしごと、旅歩き、野球、寺社巡りを書きます。頼りなく豊かなこの国に、何を賭け、何を夢見よう?

第8回四国八十八所めぐり~第29番「国分寺」

2017年03月21日 | 四国八十八ヶ所
今回の出発地点である後免駅にて上着を取り、白衣を着る。天気がよくて暖かく感じる。事実、19日の高知の最高気温は20度まで上がったそうである。国分寺までは近くまで路線バスの便もあるが、出るのは1時間後。これは織り込み済みで、暖かいし、寺までは3キロほどだろうか。ここは歩いて行くことにして、県道をテクテクと歩く。

途中、「源希義の鞍掛けの岩」というのがある。初めて目にする名前である。検索したところでは、源希義(まれよし)とは平治の乱で敗れた源義朝の五男で、頼朝や義経とはそれぞれ異母兄弟に当たる人物とある。平治の乱当時3歳だったことで土佐に配流とされ、そのまま成人した。その後、伊豆で頼朝が挙兵したのに呼応して立ち上がろうとしたが、平氏の家人たちに追手を差し向けられ殺された。後に頼朝が武家政権を立てると、希義の子を取り立て、土佐に領地を与えた。それが後に室町~戦国時代に土佐七雄の一つとされる吉良氏となったという。

この辺りは「国分寺」という寺があるし、今回は行かなかったが土佐国衙跡もある。土佐という国の中心地であったところである。ただ今は周りは田園風景でそうした様子がうかがえないし、時代の移り変わりというのを感じる。どうしても、現代の土佐の中心地である高知のネオンが頭にちらついて・・・。

途中、第27番の大日寺からの遍路道が合流し、国分寺まで1.8キロとある。「へんろいし饅頭」を売る店や、ぶどう園などがある観光農園を通る。また所々には菜の花を見る。そこで渡るのは国分川。浦戸湾につながる川で、この水運というのが土佐の国衙と都を結ぶ役割を果たしていたのだろう。

橋を渡りきったところで、国分寺への徒歩の道は国分川の土手沿いとある。少し進むと東屋の中に地蔵像がある。「地蔵渡し」とあり、明治時代に国分川の橋が架けられるまでは人々は川のこの場所を歩いて渡っていたそうである。遍路道はここで土手を下りるとあり、あぜ道を行く。4枚目の写真で右手に川のように広がっているのは、田んぼに水を入れているところ。そしてその前方に鎮守の森のようなのが広がっており、これが国分寺である。

仁王門の前に立つ。ちょうど観光バスが1台到着して、20人ほどの団体が降りてくる。ちょうどその人たちに混じる形での参拝となる。3月、彼岸ともなれば遍路の団体も多くなる。ただ、国分寺までの間で「歩き」で来た感じの人は見かけなかった。3連休の中日となれば動く人も多いのではないかと思うのだが。

境内は小ぢんまりした感じで、本堂である金堂、そのすぐ隣に大師堂がある。先の団体さん、そして個人でクルマで来た人たちとそれぞれ般若心経のコーラスである。現在の国分寺は、奈良時代に建てられた国分寺の一部とされている。紀貫之の「土佐日記」にもこの国分寺は登場する。建造された当時は大規模な伽藍を備えていたのだろうが、それも時代の流れで衰退する。現在の金堂は長宗我部元親が再建したという。ここで出るか、長宗我部元親・・・。

これまで四国めぐりで回った寺の中で、「長宗我部元親の兵火で焼かれ、江戸時代に蜂須賀氏の手で再興」という記事を何回か書いた。長宗我部氏の四国平定の戦いの中で、特に阿波の札所の多くがその兵火に遭っている。これが立場が変わると、自分の元々の領地だったから当然なのだろうが再建された寺があるというのが面白い。改めて、土佐に来たのだと実感する。

大師堂の左手に「酒断地蔵尊」というのがある。元々は願いが一言だけ叶うという一言地蔵なのだが、ある女性が夫の断酒を願ったところそれが叶ったというので、いつしかその名がついたという。酒飲み県のイメージがある高知には珍しいと思うが、逆にそうした願いを持つ人も多いということだろうか。いずれにしてもちょっとどっきり、胸が痛む気がするので、そこそこに納経所に向かう。

納経所の手前には庭園が広がり、句碑も安置されている。また薬師如来を祀る光明殿もある。現在の本尊は千手観音であるが、奈良時代に国分寺が建造された時は薬師如来が本尊だったと言われている。

さてここから次の善楽寺を目指す。寺までの距離は7キロとある。少し離れた県道に出れば路線バスの便もあるが、せっかくなのでこのまま歩いて行くことにする。その理由は、国分寺と善楽寺の間にある歴史スポットに行ってみようということもある・・・・。
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