まつなる的雑文~光輝く明日に向かえ

まつなる兄さんのよしなしごと、旅歩き、野球、寺社巡りを書きます。頼りなく豊かなこの国に、何を賭け、何を夢見よう?

第8回四国八十八所めぐり~第30番「善楽寺」(および土佐神社)

2017年03月25日 | 四国八十八ヶ所
岡豊城から50分ほどの歩きで次の善楽寺に到着。といってもまず目に入るのは神社の鳥居。「土佐国一ノ宮」とされる土佐神社である。善楽寺は元々神仏習合の時代は土佐神社の塔頭寺院だったが、その後いろいろあって現在に至っている、それは後で書くとして、まずは土佐神社に参拝する。

土佐神社の創建は雄略天皇の頃とされており、雄略天皇によってこの地に流された一言主神を祭神としている、日本書紀、風土記にもその名が登場する。また主要な社殿は長宗我部元親が造営したという。ここでも元親が出てくるのかというところだが、長宗我部氏のライバルだった本山氏が岡豊城を攻めた時の兵火で社殿が焼失したものを、四国平定を機に再建したものである。また江戸時代の土佐藩主山内氏も神社を手厚く保護したという。それが現在に続いている。

そうした戦国時代の建物で、国の重要文化財にも指定されている社殿で手を合わせ、境内を一巡する。ちょうど社殿の後ろにはご神木の大杉があったり、土佐大神が鎮座地を定めるために投げたとされる礫石がある。また、杉の木をくり抜いて、茅の輪めぐりのように回るのもある。

再び鳥居を出て、道を挟んだ善楽寺に向かう。道を挟むといっても実質は神社と同じ敷地にあるといってもいい。土佐神社のお参りがメインで、そのついでにこちらにも行ってみようかという感じのものである。そうした位置づけなので山門や仁王像があるわけではなく、新しい石柱に「四国三十番」の文字があり、立派な十一面観音像が出迎える。その向こうに本堂、手前に大師堂があるが、コンパクトなものである。

この善楽寺には明治の神仏分離、廃仏毀釈の歴史がある。土佐神社には元々神宮寺と観音院という塔頭寺院があり、江戸時代の遍路は土佐神社にお参りして、30番札所として神宮寺で朱印を受けていた。それが神仏分離により、神宮寺と観音院は廃寺となり、本尊の阿弥陀如来と弘法大師像は国分寺に移された。その後、明治8年に高知市内に別にある安楽寺が再興され、廃寺となった神宮寺の30番を継承した。一方、昭和5年に観音院が善楽寺として再興され、こちらも30番を復活させる。つまりは30番が二つ存在する形となり、その正統性について長く論争が起きていたという。決着したのは平成に入ってからで、平成6年に善楽寺を30番札所、そして安楽寺を30番の奥の院という扱いとすることになった。まあ、長い歴史を見れば土佐神社の脇に札所があるのが自然な形であろう。ただ一方で、神仏分離という異常事態に手を差し伸べた安楽寺の「男気」(?)というのも感じてみたいと思い、高知駅から歩いて行ける範囲にあるということで、次の高知市内編の時にでも訪れようと思う。

さてその善楽寺、昭和のコンクリート造りの本堂と木造の大師堂が仲良く並んでおり、白衣姿の人も多い。団体というよりは個人でのお参りが多いようだ。ただこの人たちは善楽寺だけ訪ねて、土佐神社には訪れないまま後にしているようである。どうしても「寺」と「神社」を厳格に分けてしまうところがあるのは致し方ないか。帰ってから改めて納経帳を見ると、中央の文字は阿弥陀如来とあるが、左下には「土佐一宮」と書かれていて、印章も「土佐一宮善楽寺」とある。これが歴史を語っているように見えた。

時刻は15時半を回ったところで、この日は、というより今回の八十八所めぐりはこれで終了。善楽寺を後にする道は土佐神社の参道で、最後に楼門に出る。

これから高知駅に出るが、神社の前からバス便があり、本数も多いのだが、ここはあえて鉄道に乗ろうと、15分ほど歩いて土佐一宮駅に出る。この駅名、「とさいちのみや」と思っていたが、正しくは「とさいっく」。簡易駅舎だけの無人駅だが、車両区が近くにあるためか、回送列車も行き交う。ここで16時01分着の高知行きに乗り込み、2駅で高知に到着。

前回のごめん・なはり線シリーズの時には、高知駅到着から帰りの高速バスまで時間がなかったので、駅の高架下で早い夕食としたのだが、今回は時間が結構ある。ということは・・・?
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