
曼殊院の勅使門から左手にぐるりと回り、北通用門から境内に入る。通用門の受付にて拝観料を支払う際に一緒に納経帳を預ける。番号札をもらって帰りに引き取る方式である。


門跡寺院は一般の寺の本堂に入るというよりは、屋敷にお邪魔するような感覚である。この先建物の中は撮影禁止とある。まずは庫裏から大玄関に向かう。天皇・皇后両陛下のお成りの時の写真パネルがあちらこちらに飾られている。
曼殊院は、伝教大師最澄が比叡山上に開いた小さな坊が由来とされていて、12世紀に現在の北山に本拠地を構え、その後いったん洛中に移った後、17世紀半ばに今の地に建てられた。北山にあった時は北野天満宮の別当寺でもあった。後に皇族が住職を務めるようになり、現在の地に寺を移したのは良尚法親王である。天台座主として仏教への深い帰依があったのはもちろんだが、和歌や書道、華道など風流の道にも造形が深い人物だったそうだ。そのため、庭園や茶室にも意匠を凝らしている。

元々は宸殿を本堂として本尊阿弥陀如来を祀っていたが、明治になって京都に病院を建てるに当たって寄付された。現在は大書院が本堂とされているが、宸殿を再建しようという動きがあり、寄付の呼びかけがあちこちにある。その予定地を廊下から見ることができる。


そして大書院から小書院への回廊を通るところで庭園を見る。桂離宮をはじめ数々の庭園の設計に携わった小堀遠州の作と言われている。





来る前の期待どおり、庭園は雪に覆われていた。これにはうなる。「京の冬の旅よの~」と勝手に感心する。雪が降り続いていたら少し厄介なのだろうが、夜から朝にかけて降り、それが止んだ後の昼間という絶妙の時間帯のことである。
で、近畿三十六不動ということだが、先ほど大玄関の一室に木像の不動明王像が祀られていた。期間限定の公開ということでそれはそれでありがたいものだが、近畿三十六不動としての本尊はこれではない。「黄不動」というものだ。
「黄不動」は、滋賀の三井寺の秘仏とされる不動明王の画像である。赤不動、青不動とともに三不動の一つとされていて、曼殊院には三井寺の黄不動の模写が伝えられている。ただこの模写も歴史的・文化的な価値があるということで現在は国立京都博物館で保存されている。曼殊院の大書院の一室に掛けられた黄不動の画像は、模写の模写の複製というくらいのものだが、黄不動の力強さがよく現れている。ここで聖不動経を含めたお勤めである。
他には藤原行成の筆による古今和歌集や、織田信長、武田信玄らの書状など、さまざまなものがガラスケースに収められている。

拝観は順路に沿って建物を回る形で、上の台所というのも通る。ここでは高貴な来客のための調理を受け持ったそうで、かつてのメニューを記した紙の写しがいろいろ貼られている。上客へのもてなしのために膳の数は多いが、やはり門跡寺院、肉や魚の一品はない。豆腐やひりょうず(がんもどき)がメインの一品どある。

谷崎潤一郎が寄贈した鐘というのがある。鐘といっても鐘堂にあるような大きなものではなく、法要の準備や開始の合図をするためのものである。谷崎の作品に『少将滋幹の母』というのがある。私もここを訪ねた後に電子書籍で読んだのだが、その中に、登場人物の一人が女性の死体を見る「不浄観」を行じる場面がある。死体が腐敗し、白骨化し、土にかえるまでの姿を心中に感じることで、煩悩や欲望を取り除く修法なのだという。谷崎は作品を書くにあたり曼殊院の門主から天台宗の教学を学び、そのお礼として鐘を寄贈したそうだ。
最後に着くのが孔雀の間。ここには本尊の阿弥陀如来が厨子に安置されて祀られている。長野の善光寺の出先という。


これで曼殊院のお参りはおしまい。最後は庫裏に戻って「屋敷」を出る。納経帳を受け取って境内を後にする。
さて次の札所だが、高野山との間では次の二択である。
1、2、3.東山(聖護院、青蓮院、智積院)
4、5、6.湖西(葛川明王院)
ここで出たのは「1」。鴨川の東に並ぶ門跡寺院を回ることになる。これで、私なりの近畿三十六不動めぐりの満願までのルートが固まることになった。
曼殊院から一乗寺駅まで続く道は曼殊院道と呼ばれる。一乗寺と言えば今ならラーメン激戦区だろうが、歴史的には剣豪の伝説の地とされている。宮本武蔵と吉岡一門による「一乗寺の決闘」である。

一乗寺はかつて近江から京に通じる要衝にあった寺院で、街道には旅人の目印として松の木が植えられている。ちょうど角には松の木があり、「宮本 吉岡 決闘之地」という石碑がある。なぜか同じ場所には「大楠公戦陣蹟」というのもある。

その下り松にて、「宮本武蔵 悟りの地 八大神社」の案内板を見る。宮本武蔵は吉岡一門との決闘の前にこの神社に立ち寄って、ある「悟り」を得たと伝えられている。少し坂を上がり、庭園である詩仙堂に隣接して神社の鳥居がある。


一乗寺の決闘は宮本武蔵の決闘の中でも有名で、宮本武蔵を主人公にした映画やドラマでも名場面として描かれている。その中で中村錦之助(後の萬屋錦之介)版の映画ポスターやシーンの切り抜きが飾られている。




境内には宮本武蔵の像、そして決闘当時の下り松の古木がガラスケースに入れられて保存されている。こちらが八大神社のご神木であるかのようだ。

像の横には『宮本武蔵』を著した吉川英治の随筆の一節が刻まれた石碑がある。それによれば、宮本武蔵は吉岡一門の決闘の前に八大神社に立ち寄り、勝利を祈願しようとした。しかしその時に何かを悟り、そのまま鈴を鳴らすこともなく、祈ることもなく決闘の場所に駆けていったという。
武蔵は後に『五輪書』に「我れ神仏を尊んで神仏を恃まず」と記しているが、それが彼が得た悟りの内容である。神仏は敬うとしてもすがるものではない。やはり最後に頼るべきものは自分の力、意志の強さだ・・・というところか。
さまざまな札所を回っている中でこうした文句に出会い、自分も「恃む」ところがなかったかと気づかされるのも皮肉なものである。
そういえばある人から「神社はお願いごとをする場所ではない。目標を誓う場所である」と聞かされたことがある。「神様に何とかしてもらおう」ということではなく、「自分が頑張るから見守っていてください」と誓う場所だという。仏にしても同じようなものだろう。

これからの札所めぐりでも、そうしたことを心の中に持って手を合わせようと思ったのであった・・・。