まつなる的雑文~光輝く明日に向かえ

まつなる兄さんのよしなしごと、旅歩き、野球、寺社巡りを書きます。頼りなく豊かなこの国に、何を賭け、何を夢見よう?

第24回四国八十八所めぐり~第87番「長尾寺」

2019年02月16日 | 四国八十八ヶ所
志度寺から歩いて長尾寺に到着。境内に入るのに石段も何もなく、また外塀もないため境内までクルマでも入ることができる。

山門の脇には経幢(きょうどう)が2基、祠に収められて立っている。経幢とは経文を埋納する施設や供養の標識として立てられたもので、長尾寺のものは鎌倉時代後期に奉納された歴史的にも古いものだという。

山門をくぐる。山門に鐘がぶら下がる珍しい造りだが、やはり町中のためか撞くことはできない。

長尾寺は奈良時代、行基が聖観音像を安置したのが始まりとされている。また弘法大師が唐に渡る前に入唐求法の成功を祈願して7日の間護摩供養を行い、7日目の夜に護摩符を丘の上から人々に投げ与えたという伝説がある。これが現在も「会陽(えよう)」という行事で伝わっている。会陽と聞いてイメージするのは、岡山の西大寺の大会陽である。夜中、宝木をめぐってまわし姿の男たちが奪い合うというあの行事。一方長尾寺では本堂の上から餅を撒いたり、150キロの大鏡餅を持ち上げて歩いた距離を競い合う正月の風物詩となっている。

歴史としては幾度かの兵火で堂宇が失われ(おそらく、あの戦国大名の兵火にも遭ったのだろう)、慶長年間に生駒氏による復興、さらに江戸時代には高松松平氏の保護を受けたという。また、五来重の『四国遍路の寺』では、長尾寺はもともと志度寺の一つの支院で、それが独立したものだと推定している。

「七観音随一」といく額が掲げられる本堂、そして隣に並ぶ大師堂でお勤め。

本堂の脇には、「静御前剃髪塚」がある。静御前といえば源義経の側室。義経が兄頼朝と対立して落ちのびる際に別れ、捕えられて鎌倉に送られ、頼朝の前で「しずやしず~」の舞を舞ったことで知られている。その後の消息はよくわかっておらず諸国に伝説があるそうだが、ここ長尾寺では、静御前の母の磯御前が讃岐の生まれということで静御前も讃岐に渡り、長尾寺で出家得度したという。

こちらの境内でも梅の花が開いているが、梅ということでよく似合うのが天満宮。境内の一角に長尾天満宮の拝殿がある。天満宮といえば菅原道真だが、道真が讃岐の国司だった時に長尾寺の明印という僧と親交があったという。道真が九州に流される時、讃岐にも立ち寄り、明印と詩のやり取りをして別れを惜しんだ。そのことから後に天満宮が建てられたとある。

納経所で朱印をいただく。

これで残すは88番の大窪寺となったが、これは翌日の10日に向かうとして、この日の行程はこれで終了。

すぐ近くにあることでんの長尾駅に向かい、瓦町に戻ることにする。この長尾線は長尾寺への参拝路線として建設された歴史がある(その後、讃岐白鳥までの延伸も計画されていたことがある)。2両編成の列車に揺られて高松市街に戻るが、また翌日ここにやって来る・・・。
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