まつなる的雑文~光輝く明日に向かえ

まつなる兄さんのよしなしごと、旅歩き、野球、寺社巡りを書きます。頼りなく豊かなこの国に、何を賭け、何を夢見よう?

第9回四国八十八所めぐり~第35番「清滝寺」

2017年05月14日 | 四国八十八ヶ所
種間寺から歩くこと2時間ほどで、35番の清滝寺の山門に到着した。この山門の天井には竜が描かれている。江戸末期~大正時代にこの地域の画家として活躍した久保南窓の手によるものである。土佐市の有形文化財として登録されている。

この山門をくぐると最後の階段である。これを登りきると本堂が見えてくるが、その前にクルマの行き来が結構ある。本堂前の境内が駐車場になっており、警備員が次々とクルマを捌いている。本堂の前までクルマが乗りつけるというのは、ここまでの札所ではなかったのではないかと思う。バスで上がるのは厳しいところで、札所めぐりツアーの団体はどうやってここまで来るのかなと思う。

本堂の前で目に飛び込んできたのが、1985年(昭和60年)春の選抜高校野球で優勝した伊野商業の記念碑。その年の春といえば、大阪・PL学園の桑田・清原の「KKコンビ」が3年生である。そのPLを準決勝で破ったのが甲子園初出場の伊野商業で、決勝では帝京を破って初優勝した。エースは、後に西武~ダイエーでも活躍した渡辺智男。眼鏡をかけたのび太くんみたいな地方の公立高校生が清原を押さえ込んだのも面白いが、社会人を経て後にライオンズでチームメートになったのも何かのご縁だろう。清滝寺からすれば地元ということになるが、こうした記念碑が建てられたというのは、日頃からつながりがあるのだろうか。説明文によれば、記念碑の礎に甲子園の土も埋められているという。

その伊野商業の記念碑の向こうにはまず高さ15mの薬師如来像が立つ。その足元に入ることができて、ちょっとした戒壇めぐりになっている。こういうところでも結構暗くなるものである。なお、こちらは本堂と大師堂が一つの建物でつながっているように見える。昔の神社などに見られる造りかなと思ったが、中央は護摩堂である。

清滝寺は奈良時代に行基が薬師如来像を安置したのが開創とされており、その後弘法大師がこの地で修行して、満願の日に金剛杖で地面を突くと清水が湧き出たという。清滝寺という寺の名前はそこからついたとされている。ちなみにその時に湧き出たとされる滝は本堂の右手にある。

清滝寺は弘法大師が現在の形として開いたところだが、その後、平城天皇の皇子である高岳親王も弘法大師に弟子入りし、この地でも修行を行った。先ほど歩いてきたのは土佐市だが、合併前は高岡町であり、その「高岡」の地名も、「高岳」親王に由来するともされている。

本堂、大師堂でのお勤めを終えて、納経所に向かう。本坊の前からは土佐市街が一望できる。先ほど山の下から見えていたのはこの本坊かもしれない。こちらの納経所では、係の人が受付のところで納経帳を預かると、一度後ろにある事務机に下がり、そこで墨書と押印を行ってまた前に出てくる。丁寧といえば丁寧な対応である。

さてこれで午前中の2ヶ所を回り終え、また長い距離を歩いてきたので少し休憩する。次は36番、横浪半島の先にある青龍寺である。当初の計画では、青龍寺は窪川にある37番の岩本寺と組み合わせることと考えていた。今回の八十八所めぐりはこの清滝寺でおしまいにして、後は高知市街に戻って市内観光とか、あるいはひろめ市場での昼飲みとか、過ごし方はいくらでもある。

・・・ただ、時刻が11時というところで、「いくら何でも切り上げるのは早すぎるのではないか」という思いもあった。高知市街の観光は、これまでにも訪れたことがあるし(高知城の横に新しくできた歴史博物館はまだだが)、また行こうと思えば行ける。ならばそれよりも、夕方までの時間をかけてもいいから、初めて訪れる青龍寺を今回で片づけておいたほうが、今後の展開も変わるのかなという気がしてきた。

歩くならば13キロという道のりである。またバスで行く方法もあり、高岡営業所から出ている「ドラゴンバス」の立ち寄り便で「竜」というバス停からは歩きとなる。ただこのバスは1日4本しかない。高岡営業所を13時すぎに出る便に乗れば行けるが、逆に竜のバス停での折り返しが3時間ある。現在の時刻が11時を回ったところで、高岡が13時すぎというのは余裕で間に合う。逆に待ち時間をどう過ごすかである。また、バスで行けるのはありがたいが、到着した竜のバス停で3時間の待ち時間というのもちょっとしんどいかな。

・・・そこで結論を出したのは、「青龍寺まで歩く」というもの。竜バス停の最終は16時半前。いくら何でもそれには間に合うだろう。それも一つの理由ではあるが、先ほどの急な坂道を歩いて上る人の姿も見かけたし、その人たちはこの先青龍寺まで歩くのだろう。そうした人たちに刺激を受けたというところはある・・・。
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第9回四国八十八所めぐり~土佐市・清滝寺へ

2017年05月13日 | 四国八十八ヶ所
34番の種間寺から35番の清滝寺を歩いて目指す。まずは田園地帯をのんびりと行く。こどもの日らしく鯉のぼりも上がる。そんな中、他県ナンバーのクルマが何台も追い越していく。クルマでの巡拝者だろう。一方で歩きは・・・となると、おそらく道中のどこかにはいるのだろうが、その姿は見えない。歩きで回る人の金剛杖か菅笠にGPS機能をつけて、どこに分布しているか見られる機能があると面白いかと思う。

春野というところは温暖なところなのか、ビニールハウスの野菜栽培が目立つ。また最近の景色として太陽光パネルもよく目にする。

途中にこうした眼鏡橋もある。涼月橋というもので、当初は木造のものだったのが明治に石造で架けられたものという。さらにしばらく歩くと材木屋の作業場の前にベンチが出ており、休憩とする。

国道56号線の土佐市バイパスに差し掛かったところで仁淀川の土手に上がる。そして橋を渡る。ここが高知市と土佐市の境で、私の四国八十八所めぐりも次の段落に入ったかなと思う。これから目指す清滝寺は、前方遠くに見える山の中にあるという。しばらくは土佐市の中心部に近いところのようで、バイパス沿いにはさまざまな店舗が並ぶ。

そんな中でこのようなバス停に出会う。読みは「ひがししば」だそうだが、やはりあの某家電会社の名前を口にする。前回南国市で「株式会社オリックス」というのに出くわしたようなシリーズである。ちなみに家電会社の関係先などは見当たらないようで。

バイパスを結構歩いた後で、モスバーガーを過ぎたところで歩き遍路のシールが右を示す。ここから清滝寺に向けての終盤戦だろう。住宅地に入ると、前方に一人の年配の男性が立ち姿で私のほうをじっと見ている。そして、「お兄さんちょっとだけよろしいか」と声をかけてくる。

「清滝寺はこの先に見える山の中。道はわかりますかな?」と訊かれて初めてと答えると、道順を教えてくれる。「さっきも男性が一人歩いて行ったからわかるじゃろう」とはアバウトだが。そして、「歩きの方には四つ葉のクローバーを差し上げているのでよかったら」とお接待である。プレスして栞みたいにしており、ちょっとした心遣いがうれしい。納札をお礼に渡して先に進む。

また田んぼの畦道に出ると、前方遠くに果たして白衣姿が見える。その人を目標にこの先歩く。前方の山の中腹にお堂のような建物が見える。あれが清滝寺だろう。少しずつ近くなるにつれて、道は狭くなり上り勾配となる。寺までは八丁坂というのを上る(一丁はおよそ108m)。またしても土佐の札所に多い「直前での山登り」である。ここは沿道にある四国札所の本尊像に励まされつつ、金剛杖を突いて力を入れる。

そしてたどり着いた山門。車道は少し離れたところを通っていて、歩きでなければここにはたどり着けないようである。最後は上りが少ししんどかったが、何とか10キロを通過・・・。
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第9回四国八十八所めぐり~第34番「種間寺」

2017年05月12日 | 四国八十八ヶ所
5月5日、大型連休はまだ続くが、今回の四国行きは最終日である。この日一日を高知で過ごした後、前回も利用した高知駅22時30分発の夜行バスで大阪に戻る予定である。あくまで朝の時点ではそうだったのだが・・・。

次に目指す第34番の種間寺は、先の雪蹊寺からだと歩いて6キロあまり西のところにある。ただ、再び雪蹊寺まで行って歩くのではなく、直接種間寺を目指す。公共交通機関だと、とさでん交通バスの春野庁舎前から1キロほどのところにあると言う。バスは高知駅からだとJAはるの行きで45分ほどだが、休日は1日7本。そこで始発便の6時55分発に乗ることにする。その次だと2時間後である。

春野というとかつては西武ライオンズのキャンプ地として名前を耳にする。球場は、これから向かう春野庁舎からは離れているが、一度オリックス・バファローズのオープン戦で訪ねたことがある。確かその日は南米のチリかどこかで大きな地震があり、津波の注意報が高知にも発令され、帰りのクルマも海岸に近づかないよう呼びかけがあったと思う。東日本大震災よりも以前のことで、津波というものへの意識も低かったように思う。

さて高知駅前のバス停から乗ったのは私一人。先客もなく走っていく。はりまや橋から2日前に観戦した高知球場の近くを通り、郊外に出る。鷲尾山のトンネルを抜けると旧春野町である。現在は高知市に合併している。南ヶ丘という新しい感じの住宅街をぐるり一周するが、この辺りの家ともなると、駐車場が2台は当たり前、3台分という家もある。これも地方郊外の姿である。こうしてバスは通っているが、普段は果たしてどのくらいの利用があるのだろうか。

バスは春野の昔からの集落や田園地帯を抜けて、春野庁舎前に到着した。目の前にあるのは旧建物で、庁舎そのものはすぐ上に移転している。ともかくここで笈摺を羽織り、金剛杖をカバーから出して巡拝モードに切り替える。この日目指すのはこれからの種間寺と、次の35番の清滝寺である。その次の36番の青龍寺となると、行くかどうしようか迷っている。離れているが37番の岩本寺との組み合わせにしようとも思う。清滝寺まで行った後に高知市街に戻り、今回訪れていないスポットにも行きたいという思いもある。

春野庁舎に隣接する公園の一角に銅像がある。野中兼山。江戸時代初期の儒学者であり、土佐藩の家老でもあった。春野の出身というわけではなく、町を流れる仁淀川の水運事業や土木事業に力を尽くしたことの顕彰である。題字は、当時の高知県知事・橋本大二郎氏によるものである。

そのまま直進し、庭に何やら動物の像が並ぶ家の角を曲がると種間寺は近い。田園地帯の中にある落ち着いた感じの札所である。朝8時、そこそこの数の白衣、笈摺姿を見かける。

種間寺は弘法大師の開創とされている。本尊の薬師如来はもともと百済の仏師が航海安全を願って本尾山に祀ったのが起こりである。それを弘法大師がお堂を建てて薬師如来を移し、唐から持ち帰った五穀の種をまいたのが、種間寺の名前になったそうだ。そういうのは五穀豊穣とか安産祈願につながるのかな。境内には木製の立派な「さわり大黒」というのもある。

続いて大師堂にもお参りして、境内を改めて見渡す。檀信徒の方が奉納した弘法大師像があるかと思うと、「達観を 地でゆく種間寺 ご住職」と書かれた句碑がある。その主はあの徳光和夫さん。BSの番組で四国八十八所を回った時のもので、放送当時は見ていないので知らないが、この寺の住職によほど感銘した(泣いた?)出来事があったのだろうし、種間寺も徳光さんの思いに応えたのだろう。こういうことは納経所で朱印をいただく時に訊けばよいのだが、順番待ちもあるし、なかなかそうした声がかけづらい。

種間寺を終えて次は35番の清滝寺に向かう。仁淀川を越えた土佐市にある札所だが、先ほどバスを降りた春野庁舎前に戻っても行くことはできない。バスで行くならはりまや橋まで戻り、高岡行き、宇佐行きといった便を捕まえなければならないが、それも現実的ではない。・・・となると、10キロの道のりとなるが、歩いていくことに。寺を出るのが8時半として、まあ11時には着くだろうからこれで午前中が終了ということで・・・。
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第9回四国八十八所めぐり~結局高知で飲みたいだけやん

2017年05月11日 | 四国八十八ヶ所
4日は安楽寺(30番奥の院)、竹林寺、禅師峰寺、そして雪蹊寺と回り、長浜のバス停から高知駅まで戻る。駅の物産センターで土産物の購入と発送を行い、早い時間にホテルに戻る。大浴場はまだ開いていないために部屋のシャワーを使い、少し横になる。

そして17時前に帯屋町のアーケードに向かう。この日もひろめ市場ではなく、一軒家の居酒屋を目指す。前夜の「一本釣り」もよかったが、今度はより大衆的な雰囲気の酒場を目指す。休日だからサラリーマンの姿は見えないにしても、平日なら地元のサラリーマンで賑わいそうなところ。

その名も「赤のれん」。1階の「元祖」、2階の「本店」があり、1階はカウンターのみ、2階はテーブルと座席という造りである。創業68年とあるから高知でも古くからやっているほうだろう。

私が口開けの客のようで、土佐弁の店主が明るく迎えてくれる。「県外?この時期ならご旅行ですな」から始まり、大阪のどの辺からと訊かれて藤井寺と答えると、「近鉄『バッファローズ』やね」と。野球好きなようで、6月には甲子園に阪神と日本ハムの交流戦に行き、ついでに大阪の食文化を偵察?するとか。「うちら、こういう時でもなけりゃ大谷君を見れんきに」と言うが、その大谷、現在治療中だが交流戦には出られるだろうか。

連休は市場が休みのため魚の種類は少ないそうだが、カツオのたたきはできるとのことで塩たたきで注文する。粗塩をかけたりつけたりというより、自然な感じで塩味を馴染ませている感じで、また一味違う。

この店が大衆的なのは、売れ筋が3本300円の焼き鳥とか、串カツの5本盛りとか、その他の普通の居酒屋にある単価の安い一品料理が多いこと。その中に「ベトコン」というのがあり、これは何かいなと注文する。豚のタンを焼いたもので、店主曰く、東南アジア風の香辛料で味つけしたからこの名がついたとか。それにしても「ベトコン」って、時代をうかがわせるような名前である。

マニー・ラミレスの話もする。「まあ、お客も増えたし、給料分は働いたんとちゃうの?」と、ちょっと突き放した感じ。高知でもこういう人は結構いるのかな。「高知のホテルのスイートルームいうたらあそこかなと思うけんど、そこまでびっくりするもんとちゃうよ」(マニー・ラミレスは高知市内のホテルのスイートルームを宿舎としており、合宿住まいの他の選手たちとの格差も言われている)

そんな中、次の客が入ってきた。店主がどこから来たのかを訊くと「岐阜」と答える(後の会話で出たのは大垣)。バイクの旅行者で四国は初めてという。前夜は四国カルストのキャンプ場で一夜を明かし、今日は桂浜のキャンプ場に泊まるという。高知市内なら何か名物が食べられるかと、桂浜にバイクを停めてわざわざバスで市街地まで来たという。結構なワイルドさに店主も私もびっくり。

そこへもう一人入ってくる。「大阪、岐阜と来たから次は静岡あたりかな?」と店主が楽しげに「どちらから?」と訊くと、尾張の一宮という答え。おまけにバイクで来たというから、大垣のライダーと意気投合。

そこに地元の常連さんも入ってきて、地元ネタを含めて盛り上がる。変則的だが、高知の酒飲み県らしい風情を楽しむことができた。私も、四国が初めての大垣のライダーにちょっとエラソーなことを言ってしまったかと思う。「お兄さん四国詳しいッスネ」と言うのを真に受けて。

ただそれも一時のことで、「次呼ばれてんねん」という地元客、尾張一宮のライダーに続いて、私も席を立つ。最後に残った大垣のライダーに、桂浜への祭終バスに間に合うかなと声をかけたが、あの後ちゃんと帰ったのかな・・・?

・・・何だか単なる居酒屋レポートになったが、こうした店に出会うことができるのもマイペースの四国八十八所めぐりならではと思った。

この後の私はホテルに戻り、ただその夜はブログの更新もなくいつしか眠っていた。翌日の5日は今回の最終日。札所をどのように回るか、そして夜をどうするか。さまざまな動きのある一日を前にまずは眠ることに・・・・。
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第9回四国八十八所めぐり~第33番「雪蹊寺」

2017年05月10日 | 四国八十八ヶ所
禅師峰寺から歩きと渡し船で雪蹊寺に到着した。長浜地区の中心に近いところで、周りには住宅や商店も並ぶ。また門前には新しい感じの旅館があり、歩きで回る人の 利用も多いだろう。

「三十三番」と書かれた石柱を見る。直接関係ないのだが、西国三十三所の「33」を連想する。四国でも、あれに相当する数の札所を回ったのだなと感じる。四国の場合は極端な山登りがあるかと思うと札所が固まっているエリアもあり、エリア全体が広く、札所間の平均距離が長い西国のほうが時間がかかったかなという思いがある。まあ、西国の場合は行き先をくじ引きとサイコロで決めるという遊びもあったので、一概に比較はできないが。

ここは仁王のいる山門もなく、そのまま入る。正面奥の本堂は平成16年の改修とあってなお新しい感じである。薬師如来が本尊ということで、まずはお勤め。

雪蹊寺は弘法大師の開創で、当初は「高福寺」という名であったとされている。その後、鎌倉時代に運慶や湛慶がこの寺に滞在して本尊の薬師如来像を彫ったことで「慶運寺」と名乗った頃もあったが、いつしか廃寺となった。

それを再興したのが長宗我部元親である。この戦国大名、八十八所めぐりのあらゆるところに出てくる。阿波の国では多くの寺院を兵火で焼いた一方で、土佐ではあちこちの寺の再興に関係している。まあ、元親は八十八所を意識して戦をしたわけでなく、本拠地土佐をいかにして盛り立てるか、そして周りの国をどう攻めるかに終始しただけだと思う。なお元親はこの寺の再興に当たり、自身が信仰していた臨済宗の高僧を招いた。そして元親の死後、元親の法号から寺の名前を現在の「雪蹊寺」と改め、長宗我部氏の菩提寺とした。その名残で、弘法大師の真言宗がほとんど(というよりも弘法大師その人への信仰が大きい)の四国八十八所にあって、2つしかない臨済宗の寺として今も多くの人がお参りする。

ただ土佐の札所は、阿波が「長宗我部元親の兵火」と「蜂須賀氏による再興、保護」がセットなのと同じように、「長宗我部元親による再興」か「土佐山内家による保護」とセットで、「廃仏毀釈」がついて回るのが多い。長宗我部氏ゆかりの雪蹊寺もそうで、廃寺になった後でできたのが隣接する秦神社である。こちらは長宗我部氏を祭神としているが、訪れる人の姿もない。

本堂、大師堂でのお勤めを終えて納経所で朱印をいただく。さらに、境内の出店をのぞく。さすがに柑橘類や野菜を買っても持ち帰れない中で、「これでおしまい」というクジラのジャーキーを買う。寺の境内で生臭もの・・・となるが、いいだろう。

さてこの後をどうするか。時刻は14時。次の34番種間寺へは6キロの道のりである。歩けば1時間少しか。また、長浜から桂浜に向かうこともできる。やはり高知を代表する観光地でもある。または、高知市街地に戻り、市街地の観光スポットを回る、何ならこの時間からでも「ひろめ市場」に陣取ることもできるだろう。

・・いかようにも選択できたが、結局選んだのは高知駅までバスで戻ること。だからと言って城や博物館、果てはひろめ市場に行くから・・・というよりは、ホテルに戻って少し休もうという理由である。高知城や、歴史博物館、さらには県立文学館で企画展中の司馬遼太郎の顔も浮かぶが、ここは一休み・・・。
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第9回四国八十八所めぐり~これも遍路道?の渡し船に乗る

2017年05月09日 | 四国八十八ヶ所
5月4日の記事の続き。

32番の禅師峰寺のお参りを終え、独特の波状の紋が描かれている境内の岩を見て、山門を後にする。帰りは車道を歩いて下りようということで駐車場に出る。こちらでは本尊十一面観音の石像が巡拝者たちを出迎えてくれている。その中を次々とクルマが上がってくる。やはりこの時季は四国めぐりに適しているのか、クルマならなおのこと余計に札所の数を稼げるなと思う。時刻は11時を回っているが、朝に竹林寺で見かけた人たちはこの時間だともう次の雪蹊寺に向かっているか、いやあるいはもう通過しているかもしれない。

その雪蹊寺、クルマなら禅師峰寺の麓を走る県道14号線を走り、浦戸大橋を渡れば短時間で行くことができる。何なら、浦戸大橋を渡った後で方向は違うが桂浜に立ち寄ることも可能である。一方公共交通機関なら、峰寺通のバス停からはりまや橋まで出て、桂浜方面の便に乗り換えて長浜下車となる。ただ先の記事に書いたように、峰寺通からのバスは2時間に一本しかなく、私が麓まで来た時間帯はちょうど便がない。とすると、やはりここは歩きということになる。その歩きも、上記の浦戸大橋を渡ることもできるが、ネットで徒歩の遍路や巡拝の記録を見ると、浦戸大橋は元々クルマ専用に架けられた橋のため、歩道の幅も狭く、また高さも50mほどあるということで、歩行者が歩くところではないという。特に夜に歩くのは橋からの飛び降り自殺志願者と思われる・・・などという記述もある。

そこは良くしたものというか、浦戸大橋が架かる前から歩き遍路道としても「公認」されている唯一の公共交通機関がある。浦戸湾を挟んで東側の種崎と、西側の長浜を結ぶ高知県営の渡し船である。この渡し船は県道の一部として無料で運航されており、日頃「全て歩きでなければ遍路ではない、歩きでないヤツは遍路を名乗る資格はない」などとのたまっているガチの歩き遍路の方々(だから私はただの札所めぐりであって、遍路ではない)も、ここだけは例外としている。

・・・それはさておき、この渡し船は所要時間5分ほどだが、運航は日中1時間おきとある。東側の種崎からだと毎時10分発。禅師峰寺から麓に出たのは11時半の手前。次は12時10分発だが、種崎までは地図でざっと見ても5km以上ある。さすがに残り40分ほどではたどり着けないだろう。ならば目標を13時10分発に定めて歩くことにする。まずは先ほど通った石土池まで戻るが、この辺りになると竹林寺からの道を歩いてきた人たちともすれ違うようになる。

このまま県道14号線を歩き、南国市から再び高知市に入る。すると雨がパラパラと落ちてきた。だが空は明るいのでしばらく我慢すれば雨具もいらないかなと思う。リュックから登山用の帽子を出してかぶるだけでも気にならないくらいだ。道標は県道の旧道を指すのでそのまま歩く。前を歩いていた年配の女性の巡拝者に追いつくと、「すみません背中のリュックから合羽を取り出してくれませんか」と声をかけられる。リュックを下ろせばすぐのことだと思うが、下ろすのも大変なのだろう。指示されたポケットに手を突っ込んで取り出す。この先、ご夫婦の巡拝者を追い越したり、逆に前方から巡拝者とすれ違ったりする。前方から来た人は、渡し船で長浜から種崎に渡ったのだろう。

道幅の広い県道を渡らず、設けられた歩行者自転車用の地下道をくぐってさらに西に進むと、いかにも旧道という風情の道に出る。静かな住宅地の中だが、神社があったり、中学校、小学校もある。部活帰りなのかユニフォーム姿の中学生たちが自転車を走らせている。

種崎地区に入る。スーパーの駐車場の向こうに造船所があり、大型船舶の姿も見える。住宅地に交じって造船関係や重工関係の会社施設や工場などもある。そんな中で「へんろ道」の案内がぶら下げられているのを見る。あと数百mで渡し船の乗り場ということで、種崎からの出向時刻も書かれている。次の13時10分発までは30分弱で、これなら「船が出たばっかりで1時間待ちぼうけ」ということもなく、ちょっとした休憩時間ということになるだろう。

乗り場に到着。ここは路線バスの終点である種崎バス停でもある。船乗り場というのはオープンなイメージがあるが、ここは高知。津波の被害防止のために高い防波堤が築かれていて、海の様子はうかがえない。また船が着岸し、乗客が出入りするところも防波堤と同じ高さのゲートで仕切られている。外国からの歩き遍路も利用するのだろうか、時刻表が日本語の他に、英語、中国簡体字、ハングル、中国繁体字の合計5言語で記されている。横に待合室があるが、巡拝姿の男性2名が荷物を広げて談笑しており、ちょっと入れるような感じではなかったので、外のベンチに荷物を置いて待つことにする。ちょうど雨も止んできた。

13時05分頃、長浜からの便が到着し、防波堤のゲートが開いた。やって来たのは瀬戸内海の島の渡し船でよく見るような、船体の中央上部に操縦室があり、船首と船尾の出入り口が大きく取られている形状のもの。出入りのたびに向きを変える必要がなく、ピストン運航に適した形である。自転車の地元客を一人降ろし、乗り込むのは私と先の巡拝姿の男性2名。先ほど追い越した人たちも間に合うかなと思ったが姿は見えず(途中で昼食を取っているのかもしれない)、出航時刻となる。

船に乗り込んでみると対岸の長浜は近くに見える。たしかに、これだけの距離なら渡し船が効果的である。別に渡し船は歩き遍路のためだけのものではなく、地元の人たちも日常的に活用しているのだろう。

船がちょうど中間あたりに差し掛かると、左側に浦戸大橋が見える。大型の外航船も入れるようにということか高い位置に架けられているのがわかる。うーん、あの高さの橋を、それも狭い歩道の上を歩いて渡るとは・・・高いところが苦手な私にはちょっと厳しいかな。

5分で長浜側の梶ヶ浦乗船場に到着する。船の拠点はこちらのようで、この次14時まではここで停泊となる。目指す雪蹊寺までは徒歩15分との看板があり、船乗り場からだと一本道である。早足で歩き出した男性2人組の後ろをマイペースで歩く。こちらは昔からの漁村、港町という風情が感じられる。途中、お好み焼きに「たっすいがは、いかん!」のキリンラガービールの幟が並ぶ店を見たり、酔鯨酒造の蔵元の横を通ったりとなかなか誘惑も多い中、15分を少し回ったところで雪蹊寺の門に到着した・・・。
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第9回四国八十八所めぐり~第32番「禅師峰寺」

2017年05月08日 | 四国八十八ヶ所
竹林寺の参詣を終えたのが9時半前。石段を下りるとちょうど「My遊バス」がやって来た。高知駅~はりまや橋~竹林寺と来てこの後は桂浜に行く周遊バスである。日中1時間おきに運転されており、高知駅から直接竹林寺までのアクセスが可能である。また、これから目指す32番の禅師峰寺(ぜんじぶじ)へは、高知駅~高知医療センター~後免町間の普通の路線バスに乗り、峰寺通で下車が最寄りである(ただし2時間に一本)。このように、各札所にピンポイントで行く公共交通機関はある。ただ札所間となると思うような便はなく、あったとしても途中までしか行かないとか、便のタイミングが合わないというのがある。

そもそも私の四国八十八所めぐりは「公共交通機関は大いに利用しよう」という方針だったのだが、いざ現地に来てみるとなかなか思うように使えないなと感じることも多い。例えば一度高知駅なりはりまや橋まで戻り、そこから峰寺通までバスに乗ればいいのだが、それも面倒くさい。また、記事を書くにあたり、改めてとさでん交通バスの路線図と時刻表をにらめっこしたところ、竹林寺を9時半に出ると、五台山のふもとの五台山農協前のバス停10時08分発の前浜車庫行きに乗って東に向かい、10時33分着の下田村下車。すると下田村で上記の後免町~高知医療センター~高知駅の系統と交わっており、11時08分発に乗れば11時18分に峰寺通に到着する。・・と書くのは簡単だが、このような行程が現地で急に思いつくものではないし、テレビ東京系の番組ではないのだからそういう乗り継ぎも果たして意味があるのかと思う。

・・・とまあ、冒頭に路線バスについてあれこれと書いた。今回は竹林寺と禅師峰寺の間が6キロほどだったので歩きを選択したのだが、もっと公共交通機関を効果的に使えないか、そういうプランが組めないか、30番を過ぎながらいまだに自問自答している自分にもどかしさを感じている。全てを歩く、あるいは全てをクルマやバイク、自転車で回ると決めている方にはどうでもいいことだろうが。

さて行った時はさて歩いて行こうということで、歩き遍路の標識に従って昔ながらの山道を下りる。「峯寺まで一里半」の道標を見て、石が無造作に敷かれた道を下り、小学校の横から平地に下り立つ。目の前には下田川が流れており、しばらくはその土手沿いを歩く。振り返ると竹林寺の五重塔の先端が顔を出している。

橋脚があり、道路の建設中であることがうかがえる。高知東部自動車道の一部で、現在は芸西西~香南のいち、なんごく南~高知南が部分開通しているが、将来的には高知インター~安芸までの全線開通を目指している。高知東部へのアクセス強化、国道55号線の渋滞緩和の他に、「津波浸水しない救急搬送ルートの形成」(土佐国道事務所)が謳われている。(コンクリートによる)強い国土の形成という、そういえば和歌山の御坊のほうから出ている某政治家の方もおっしゃっていることですな。

その高知南インターの近くには、昭和の初めに「ライオン宰相」と呼ばれた浜口雄幸の生家がある。さらに進むと左手遠くに何やら体育館とドーム状の建物が見える。高知市の東部総合運動場で、その間には野球のスコアボードが見える。高知の東部球場というのはここだったのか。

高知東部自動車道の高架をくぐり、県道247号線に出て、景色も山がちになってきた。武市半平太の旧宅を過ぎると、禅師峰寺への案内看板が出る。それに従うと短いトンネルがあり、抜けると住宅地に出る。後で知ったがトンネルの向こう側は前回訪ねた南国市で、禅師峰寺も南国市にある。住宅地をしばらく歩くと石戸池に突き当り、反時計回りにぐるりと回る。

竹林寺から歩くこと1時間10分ほどで禅師峰寺と書かれた石柱に到着する。ただ目指す寺はまたここから山登りである。道が二手に分かれていて、左が車道、右が歩道である。となると行くのは右側である。さっきもこんな景色を見たぞと思う山道を歩くこと数分、山門の前に出た。ここでも白衣姿の巡拝者が多いが、山道を上がって来た私を見て「ここからも来れるんや」という顔をする人もいる。ここまで、竹林寺、禅師峰寺とも、歩きで来たという人は見かけない。

山門をくぐる前に目を引くのが脇に安置されている不動明王の石像。石像そのものはよくある形だが、その後ろの岩が印象的だ。波打っており、不動明王に力強さを加えているように見える。

この岩は境内のあちこちにあるが、造形ではなく自然のものだという。

禅師峰寺(地元では「峰寺」(みねじ)と呼ぶそうだ)は先の竹林寺と同じく、聖武天皇の勅願により行基が開創したと伝えられている。また弘法大師もここで虚空蔵求聞持法の修行を行い、本尊の十一面観音像を彫ったとされている。以後、土佐湾を航行する船舶や漁民からの信仰を集めている。

本堂と大師堂は土佐湾を見下ろすように並んで建っている。海からの風も結構感じられる。境内の岩も長年の風のために独特の紋様となったようだ。風で火が燃え移るのを警戒してか、「ローソク、線香は4時半まで」との貼り紙がある。

こちらであるグループがお勤めをしていたが、印象的だったのが大師堂の下、地べたで正座して般若心経を唱えていた。後で本堂ではお堂の縁側に正座していた。ここではきちんと座って(大師堂のようにそもそも場所が狭いところではお堂の下の地面に座って)お参りするのをルールとしているのだろう。いろいろなお参りの作法を見るのも四国めぐりの楽しみ・・・と言うとちょっと違うが、人間ウォッチングの場所だなと思う。

お勤めの後、改めて境内から広がる土佐湾を見る。遠くには浦戸大橋があり、さらにその奥は桂浜のある半島である。晴れていればなお良かったが、この景色を見ることができて歩いて来た甲斐があったなと思う。

さて次に目指すは33番の雪蹊寺だが、ここには初めて目にする「公共交通機関」の力を借りることに・・・。
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第9回四国八十八所めぐり~第31番「竹林寺」

2017年05月07日 | 四国八十八ヶ所
高知城の前から竹林寺に向けてまずは土電で移動する。はりまや橋を通過し、少し郊外の雰囲気になったところで文殊通の電停に到着する。乗った電車は「ごめん」行きだが、途中の文殊通で折り返しとなる便もあるようだ。この文殊通という名前も、これから訪れる竹林寺の本尊が文殊菩薩であることからついたのだろう。

30番の善楽寺から現在の形で竹林寺に向かう歩き遍路道はこの電停の先を通っていて、とりあえずは一本道である。近郊の住宅街や小学校の脇を通るが、国道32号線の南国バイパスを歩道橋で越えると田園風景となる。目の前にあるのが竹林寺のある五台山である。五台山とは元々は中国で古くから仏教の文殊菩薩の聖地として信仰を集めた霊山である。それが奈良時代、聖武天皇が唐の五台山で文殊菩薩に拝する夢を見て、行基に「五台山に似た山を探すように」命じ、そこで霊地として見つけたのがこの山だとされている。そこに文殊菩薩像を安置し、後には弘法大師もここで修行をしたという。

そうするうちに道路が突き当り、道標が細い道を指すようになる。そして登山道が出る。土佐文旦だろうか、柑橘類の畑の中を過ぎて、山の中に入る。何だか土佐に来ると、寺の直前にこうした山道を登ることが増えるような気がする。阿波のような「遍路ころがし」とまでは言わないが、結構急な山道を10分、15分くらい上る感じである。途中のところどころで、八十八所の本尊像が祀られている。昔の遍路道の名残である。

そして上るうち、1枚の看板が現れる。「これより先は牧野植物園の園地となります。入園には入園料が必要となりますので、窓口にお回りください」とある。これは植物園に迷い込んだのか?ただ、歩き遍路の案内板がその横にあるし、先の看板もよく見れば、「お遍路の方は植物園内をお通りいただけますが、施設内の立ち入りはご遠慮ください」とある。えらいところに遍路道ができたな・・・ではなく、植物園のほうが後からできたはずで、こういう措置となったのだろう。私の場合は一応笈摺に金剛杖があるから構わないのだろう。少し歩くと朝の開園準備中の係員とすれ違い、「ご苦労さまです」と声をかけられる。

そうするうちに園内に入る。空がどんよりとしているが、園内のあちこちに季節の花が咲いている。バラを見たり、ヒトツバタゴという白い花を見たり。五台山への道のりは何とも意外な展開となった。文殊通の電停から30分ほど歩いたが、まだ時刻は9時前で植物園はオープンしていない。最後は植物園の正規の入場口に出て、「ご苦労様です、どうぞこちらから出てください」と通用門から外に出る。するとそこが竹林寺の山門前の石段で、白衣や笈摺姿の人が結構見える。クルマで来たか、バスで五台山の麓まで来てそこから歩いて来たか。

山門をくぐり、木々の生い茂る境内を通ってもう一度石段を上る。まず出迎えてくれるのは大師堂と、その奥にある五重塔である。本堂はさらに奥で、「本尊 智恵の文殊大菩薩(日本三文殊随一)」の看板がある。こうした「日本三○○」と来ると、「残りの二つは何か」というのが気になる。私が思うのは奈良桜井の安倍文殊院と京都天橋立の切戸文殊(知恩寺)かなということでスマホで検索すると、三文殊のうち二つはこの2ヶ所というのがほぼ定説である。ただ肝心の3ヶ所目が諸説あるようで、今のところ一般的とされているのは山形にある亀岡文殊だとある。また他に、京都東山の光明寺にある黒谷文殊堂とする説もあるようで、3ヶ所目を巡ってはいろいろ意見があるようだ。その中で竹林寺は、四国八十八所の札所で唯一文殊菩薩を本尊としていることでその方面からの支持を集めてはいるが、全国的に見れば票数は少ないようだ。

ともかく本堂、大師堂の順でお勤めを行う。連休中ということで巡拝遍路の姿も多く、それぞれが思い思いの流儀でお勤めをしている。私も30番を過ぎてはいるが、いつも自分のやり方が合っているのか、般若心経の息継ぎのタイミングはこれで良いのかが気になって、他の人のそれを聞いたりしている。いや、そういうことにあまりこだわらないのが般若心経の教えなのだと言われればそれまでだが・・。

境内には百体地蔵や五智如来、さらにはブッダの像などもある。山の上のちょっとした憩いの場という感じであるが、昔は五台山の中にいくつかの脇坊も抱えていたそうである。

「土佐の高知のはりまや橋で 坊さんかんざし買うを見た よさこい よさこい」

これは土佐で最も有名な民謡、いや土佐だけでなく全国的に知られている民謡の一つである「よさこい節」だが、ここで出てくる「坊さん」が江戸時代末の竹林寺の脇坊の僧を指すとされている。当時は妻帯が禁止されていた僧侶と町娘との道ならぬ恋、そして駆け落ちするも失敗・・という実話を元にしているが、わざわざ民謡の歌詞の一番に取り上げられ、それが後世まで唄われるとは、高知の人たちにとってセンセーショナルな出来事というか、ゴシップだったのだろう。現在、さまざまな恋愛だの不倫だのスキャンダルだの、ワイドショーのネタというのはいろいろあるが、さすがに歌になって後の世まで唄われることはないだろう。それを考えると・・・、

6月までの期間限定で、徳川家康由来の阿弥陀如来像と内陣参拝を行っており、庭園や宝物館と合わせて拝観ができるとある。この記事を書くに至って、せっかくなので行っておけばよかったのだが、その時は次の札所に行こうという気持ちだった。今回は札所間の公共交通の便が悪く、徒歩での移動が長くなりそうなのと、「このタイミングでこのポイントに着いておく必要がある」というのがあるために、1ヶ所での滞在が短くなるかなと思っていた。改めて、もう少し時間を取ればよかったなと思うところではあるが・・・。
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第9回四国八十八所めぐり~第30番奥の院「安楽寺」

2017年05月06日 | 四国八十八ヶ所
5月3日~5日の日程で、第9回となる四国八十八所めぐりに出かけた。そのうち3日は前の記事に書いたように四国アイランドリーグの高知対愛媛の試合を観ていたので(これも八十八所めぐりの中の大事なミッション)、実質は2日間で巡拝ということになる。今回は高知市、土佐市編ということで。

・・という札所めぐりの前夜となる3日、高知球場での観戦を終えて、駅近くのツーリストイン高知にチェックイン。最上階には高知城の天守閣も望める露天風呂もある。早めの予約だったために連泊で確保することができたのはよかったが、さすがに大型連休、3日と4日はあちこちの宿泊サイトを見る限りでは高知市内のホテルは軒並み満室のようだった。

まずは高知の名物をということで、帯屋町のアーケード街にある「一本釣り」へ。前回、3年前に高知で宿泊した時にも訪ねた店である。今回、開店直後に入ったのだが、席の多くは予約で埋まっているとのことだ。一人ということで何とかカウンターに通される。ただ食後は順番待ちの列ができていた。

まずはということで、カツオとウツボのたたきをいただく。カツオは塩たたきでいただいた。このカツオのたたきも、特にぽん酢で注文した場合は店によって盛り付けの仕方にいろいろな違いがあり、奥が深いなと思う。またウツボのたたきも久しぶりにいただいたが、鶏肉のような歯ごたえがあってよろしい。

他にもどろめ、はらんぼ塩焼きなどを楽しみ、これで高知に来たなと気持ちを高めることができた。

この夜はそのままホテルに戻り、展望風呂につかったり、パソコンにてアイランドリーグの観戦記事を書くなどして過ごす。

・・・さて明けて5月4日、朝の天気予報を見ると高知は曇のマーク。所によっては雨が降るかもしれないとのことだ。四国八十八所をしながらも菅笠を持たない私、使う雨具は普通の折り畳み傘で、それもこれまでの区間で1回差しただけで、何とか降らないように、降っても傘を差さない程度で済みますようにと祈る。

ロビーで地元紙の高知新聞を見る。スポーツ面ではファイティングドッグスの結果がカラー写真つきで紹介されていて、マニー・ラミレスも3週間ぶりに出場して大いに沸いたことにも触れられていた。マニーを観に東京から来たという女性のインタビューもあり、私もそれと同じようなものだ。連休ということもあり、1800人の観客の何割かはそんな感じで四国外から来た人たちかもしれない。

笈摺を羽織り、金剛杖を手にホテルを出る。今回まず目指すのは31番の五台山竹林寺だが、その前に行っておきたいところがある。第30番奥の院の安楽寺。ホテルからだと徒歩10分ほどのところにある。特に奥の院を目指すわけではないのだが、ここは回っておこうと思っていた。そのきっかけは前回3月の第8回の時、土佐一宮にある30番の善楽寺を訪ねた時のこと。その時の記事にも書いたのだが、明治の廃仏毀釈の影響で、善楽寺は廃寺となった(土佐一ノ宮の土佐神社の神宮寺だったことが却って災いしたといえる)。その間、善楽寺の本尊である阿弥陀如来を引き受け、30番の継承を名乗り出たのが安楽寺。その後善楽寺が再興され、ここで30番の正統性を巡って長く争わることになった。結局は平成6年まで30番札所が二つある形になり、その後、善楽寺を30番、安楽寺を30番奥の院とすることでようやく解決となった。前の記事で私は「安楽寺の男気」ということを書いたが、それはさておき高知駅にも近いのだからと訪ねてみる。

これまで回った八十八所の寺院というのは、多くが山の上とか、田畑の中にポツンというものだったが、さすが高知市内、住宅地の中によく溶け込んで鎮座している。山門は仁王門というよりは龍宮城の楼門のような造りである。また石柱には「四国三十番」と書かれており、今でこそ奥の院扱いではあるが、往年の歴史というか、プライドを感じさせる。訪ねたのは7時すぎで、ちょうど寺の人が境内を清掃しているところ。またおそらくご近所の方か、弘法大師像や一言地蔵像で熱心に手を合わせている。街中の寺の早朝の景色である。

20数年前まで八十八所の一つだったためか、一連のお勤めをするのに必要なものは整えられている。まずはコンクリート造りの本堂に上がり、続いて大師堂にも手を合わせる。

掃除をしていた寺の人に声をかけ、納経所に向かう。「ここは30番の奥の院の朱印ですがよろしいですか?」と訊かれ、納経帳の後ろの空きページに押していただく。これは余談だが、四国には奥の院専用の納経帳があるそうだ。八十八全てに奥の院があるわけでもなく、また住職がいないなどの理由で朱印がないところもあるが(一部は札所で奥の院の朱印も押すところもある)、最近は八十八の霊場だけでなく、別格霊場や奥の院も制覇しようという方も多いようだ。私が参考にする五来重著『四国遍路の寺』でも、四国遍路、札所の歴史を理解するには奥の院に行かなければならないとしきりに書かれていた。

まあ、安楽寺については奥の院というより、「もう一つの30番札所」という理由で訪ねたのだが、こうした経緯でできた奥の院というのも、長い四国八十八所の歴史のひとこまだと言える。

さて次は竹林寺に向かう。高知駅からの周遊バス「My遊バス」で門前まで行けるが、今から高知駅の1便に間に合うように行くのは厳しいし、時間もあるので歩けるところは歩こう。土電の文珠通の電停から南へ向かうのが遍路道である。安楽寺からだとそのまま南へ歩くと電停に出る。途中、高知城の天守閣を眺め、新しくできた歴史博物館の横を通る。さらに文学館では、土佐にゆかりのある人物を多く書いた司馬遼太郎の企画展もやっている。普通の高知観光ならこうしたスポットを楽しみ、ひろめ市場で一杯というところだが、今回の私はそうしたところを外側からかするだけだ。明日5日までの期間で行くことがあるかどうか。

高知城前の電停から土電に乗車。とりあえずは「ごめん」ということで・・・。
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第9回四国八十八所めぐり~四国アイランドリーグplus観戦記@高知・・・マニー・ラミレス出場!

2017年05月03日 | 四国八十八ヶ所
この記事を「野球(独立リーグ)」のカテゴリに書いたものか、「四国八十八所」のカテゴリに書いたものかというところがあるが、今回八十八所めぐりとリンクして四国まで来たのだからと、八十八所のカテゴリで書くことにする(このブログでは、カテゴリを一つしか選ぶことができない)。

前の記事で、今回の四国八十八所めぐりは高知球場から・・・ということを書いた。そのこともあり、高知までの道中のことは一旦おくとして、高知駅に降り立ったところから今回の記事を始めることにする。

これから目指す高知球場は高知城の南、鏡川を渡ったところにある。過去に一度、当時高知で春のキャンプを張っていたオリックス・バファローズの練習試合で訪ねたことがあるが、高知ファイティングドッグスの公式戦は初めての観戦である。今回は高知ファイティングドッグス対愛媛マンダリンパイレーツの試合。結局高知駅から30分あまり歩いて到着した。13時の試合開始で、開場は12時だがそれまで自由にスタンドに入ってよいとのことである。これを知っているのか、常連さんは早くも場所取りをしているようだ。私も入場して一塁側の席に陣取る。今回手荷物に金剛杖がある。大きな荷物は駅のコインロッカーに預けたが、さすがにこの長いものは手に持って歩かなければならない。でもまあ、これでアイランドリーグと四国八十八所の組み合わせというミッションの2ヶ所目の高知編を達成できたのはよしとする(そういうミッションを持つ巡拝者というのもいないと思うが・・・)。

しばらく練習風景を見ていたが、11時45分頃になると、スタンドにいる客も一度外に出て、チケットを提示のうえ再入場するようにとのアナウンスが入る。荷物は座席に置いて再入場。

スタンドには高知の駒田監督(元巨人、横浜のあの「満塁男」)の姿も見える。なぜかスタンドに設けられた桟敷席に寝転がって「しっかりやらんか!」と、昔のパ・リーグの球場にいたようなオヤジの再現のパフォーマンスをしたり。せっかくなので選手名鑑にサインをいただく。元巨人とかいうエリートぶったところはなく、ファンの人とも気軽に話をするざっくばらんな感じの人という印象だ。いや、こういう人だから巨人からFAで出たのかもしれないな。

そしてもう一人、高知に来るならこの選手というのが、マニー・ラミレス(登録名はマニー)である。このところは試合にも出ていないが、なぜか東京のテレビ番組に出演したり、元チームメイトということでDeNAのアレックス・ラミレス監督を訪ねたりというのがニュースになっている。試合出場は前期終了の5月末までということで、この連休は私としては最初で最後の観戦の機会ということだが、ベンチから姿を現した。さすがに興行ということかな。対戦相手の愛媛のベンチ前に行き、ポロと何やら談笑。その後は、ファンの求めに応じてバットを構えての記念撮影に応じる。

そしてスタメン発表。マニーは4番DHに入り、スタンドから拍手が起こる。スタメン出場は久しぶりとのことである。これだけの選手をナマで、それも高知で見られるとは来た甲斐があった。この時点では、坂本龍馬よりも、弘法大師よりも、普通にマニー・ラミレスが好き!!である。あと、高知の1番に入っている深江というのは、関西独立リーグの明石からオリックスに入団した選手である。今はここでプレーしているのか。

この試合は地元のテレビ高知(JNN系列)の協賛試合ということで、何と地上波でも中継されるそうだ。試合前には同局の番組PRがあったり、女性アナウンサーのダンスも披露された(NHKを含めた高知の各テレビ局共同のキャンペーンソングがあるとか)。

試合前には両チームの監督・コーチ・選手が整列。マニーも整列するが、隣の選手に何やらちょっかいを出したりと、普通に選手とも溶け込んでいるようだ。これは駒田監督の下だからかなと思ったりする。

さて試合開始。スタメン選手がベンチ前で一人ずつマイクで「頑張ります」「応援よろしくお願いします」などと一言言ってからグラウンドに散る。こういうのも面白いと思う。まずは高知先発の嘉数(かかず)が愛媛の攻撃を3人で片付ける。

その裏に早速試合が動く。愛媛先発は左腕の高下。一塁側にはどこかの中学校のブラスバンド部が応援にかけつけており、高校野球の定番曲の演奏で応援を盛り上げる。期待の先頭深江は見逃し三振だったが、二死から3番アンダーソンがレフト線への二塁打を放ち、マニーを迎える。山本リンダの「狙い撃ち」が流れるが、ここは四球を選んでチャンスを広げる。二死一・二塁となって続くザックがレフトへの二塁打を放ち、まずは高知が1点先制。続く山下が一・二塁間を破るヒットを放ち、マニー、ザックがホームイン。一気に3点先制となった。

この後は両投手が踏ん張り、試合もテンポ良く進む。2回に回ってきたマニーの2打席目はレフトフライ。そして5回には二塁打のアンダーソンの後での追加点のチャンスだったが、二塁ゴロに倒れる。ただこの後でザックがセンター前にタイムリーを放ち、追加点が入る。結局マニーは3打席に立ち1四球のみという結果で、本塁打やヒットがなかったのは残念だったが、やはり存在感のある選手だなと改めて思った。

この球場でも7回にはジェット風船を飛ばすのだが、普通は何本かセットで売るものが、球場スタッフが配りに回ってきる。膨らませるとそこには「JAL」の文字。こうしたところのスポンサーとは意外である。

試合は8回に愛媛が一死二・三塁として、林の二塁ゴロの間で1点を返す。しかし反撃もここまでで、9回は高知の羅が3人で抑えて4対1で試合終了。高知としては先制と中押し、先発の嘉数が8回1失点ということで良い試合展開であった。

試合後のインタビューでは先制打を含む2打線のザックと嘉数がお立ち台。そしてその後は駒田監督が立つ。気づかなかったのだが、この試合は高知の総監督を務める「ベンチがアホやから」の江本孟紀氏も観戦していたそうで、インタビュアーから「江本総監督も評価していると思いますよ」と振られた駒田監督は「『駒田、もう少し痩せろ』と言うてますよ」と返していた。

インタビューも終えると球場の外では駒田監督や選手たちがお見送り。独立リーグではすっかりおなじみの光景で、選手との記念撮影やサインなどもできる。一番人気は駒田監督で多くのファンが群がっていた。ただ、そこにはマニーの姿はなかった。やはりこれはファンが殺到したり、混乱を避けるという意味では仕方ないのかな。まあ、グラウンドで打席に立つ姿を見られただけでも十分である。一方で、そろそろ時間なので・・・と選手たちが帰り支度のために再び球場に戻る中で、最後までサインに応じていたのがザック(横にいるのは奥さん)。真面目な印象の選手である。

この試合の観客は連休、そしてマニー効果もあるのか、独立リーグとしては大入りの1861人と発表された。四国、そしてBCリーグとも1000人を超えるというのはなかなかない中で、やはりこの人数はすごいなと思った。

さてこれで今回の四国めぐりの片方のお目当ては達成することができた。後は5日に同じ高知球場で行われるナイターにもう一度来るか。それもまた考えどころである・・・。
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第9回四国八十八所めぐり~まず目指すは高知球場

2017年05月03日 | 四国八十八ヶ所
この5月の連休はかねてからの予定通り、高知での四国八十八所めぐりである。いや、四国アイランドリーグplusの試合を観に行くと言ってもいいかもしれない。お目当ては3日デーゲームの高知対愛媛戦、5日ナイターの高知対香川戦である。

で、その間の札所を回ろうという、ガチの歩き遍路が見たら張り倒したくなるような行程である。31番の竹林寺、32番の禅師峰寺(ぜんじぶじ)、33番の雪蹊寺は行くつもりだが、次の34番種間寺、35番の清滝寺となると、高知市から離れることもありどうするか。市内観光も楽しみたいところで、これは現地の状況次第とする。どうしても高知県の札所を回りきるにはあと何回か行かなければならないのだから、急いでも同じという思いもある。

行きは前回の南国市編と同じく、新大阪からさくら543号~マリンライナー9号、坂出からしまんと5号の乗り継ぎである。さて今回はどのような四国めぐりとなるだろうか・・・。
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第9番「興福寺南円堂」~西国三十三所めぐり2巡目・14(期間限定の仏像展)

2017年05月02日 | 西国三十三所
連休合間の5月1日。この日はメーデーということで会社休日の扱いである。ということで先週の新西国の記事などを書いていたが、やはりこの1日を何かで使いたいところである。

・・・ということで、急に思い立って昼前から出かけることにする。行き先は、日常の通勤で近鉄の阿部野橋駅に掲げられたこのポスターのスポット。「わたしは、奈良派。」ということで・・・。

・・・といいつつも、奈良で降り立ったのはJRの奈良駅。近鉄のキャンペーンに合わせていないような気がするが、結局は天王寺からJRで移動するほうが速いのだからやむを得ない。それにしても外国人を含めた観光客が多い。やはり奈良というのはそれだけ多くの人を集めるところで、最近になってJR奈良駅周辺にもビジネスホテルができるなどして受け入れ体制も整えられているところだ。

そんな中、先代の奈良駅舎(現在は観光案内所とスターバックスが入っている)の側面にこのような看板を見つけた。大仏鉄道というのがかつて走っていたそうだ。現在の加茂~奈良に相当する9.9kmの区間で、明治31年に当時の関西(かんせい)鉄道によって開業したものの、その後現在の関西本線が開通すると明治40年に廃線となった鉄道である。こういうのがあるとは初めて知った。当時の鉄橋や「大仏駅」跡などをめぐるウォーキングコースとなっているようで、また訪れる機会があるかと思う。

さて三条通りを歩き、町家造りのコンビニや南都銀行の本店建物などを見て猿沢池に到着。池の水の緑が濃い。「澄まず濁らず、出ず入らず、蛙湧かず藻が生えず、魚七分に水三分」という七不思議があるが、一体この底はどうなっているのか、通るたびに気になる。先日たまたま見たテレビで、池の水を抜いてみるといろんなものが出て来て・・・というのをやっていたが、さすがに歴史ある猿沢池に手をつけるわけにはいかないだろう。

そうしてやって来た興福寺。やはり観光シーズンとあって参詣者、観光客の姿が多い。修学旅行なのか課外学習なのか、五重塔と東金堂をスケッチする生徒たちの姿も見える。確か前に来たのが2014年の12月。ちょうど友人も参加した奈良マラソンの日だったが、その時は興福寺もさほど人がいなかったように思う。

さて、タイトルにもあるように興福寺にやって来たのは西国三十三所めぐりの2巡目である。まずは西国札所である南円堂に向かう。興福寺は藤原鎌足の子・不比等の手により創建されたが、その中の南円堂は平安初期、藤原北家の冬嗣が父・内麻呂の冥福を願って建てたお堂である。本尊は不空羂索観音像で、鹿の皮をまとっているという。それが藤原氏の氏神である春日大社とのつながりで藤原氏の信仰を集めたという。ここも多くの参詣者、観光客が手を合わせる。そこで先達用の輪袈裟を出して、経本を片手にお勤めである。私の後に同じような感じで西国の先達用の輪袈裟をした男性が朗々とした声で観音経を唱えており、他の人たちの視線を集めていた。

納経所にも行列ができている。南円堂の他に北円堂、世界遺産など何種類かの朱印が用意されており、複数の種類を一度に押してもらう人が多いため、時間がかかる。今回も西国1300年記念印も一緒に押してもらう。特に凝ったイラストではなく文字が入っているだけだが、このほうがシンプルでいいかもしれない。

4月22日~5月7日まで、北円堂の特別公開が行われている。北円堂の中を観るのは初めてなのでこれは行ってみることにする。鎌倉初期に再建された建物で、現存する興福寺の建物の中では最も古いとされている。北円堂の本尊は運慶作、国宝の弥勒如来像。弥勒菩薩が56億7千万年の修行を経て成仏したのが弥勒如来である(もう56億7千万年が経ったのかという詮索は置いておこう)。その弥勒如来を囲むようにいずれも国宝の四天王立像、無着、世親菩薩像などが並ぶ。これらが一堂に会するのも迫力ある光景である。

続いては東金堂に向かう。こちらは薬師如来を本尊として、日光・月光菩薩、十二神将というチーム薬師がお出迎え。さらにこの期間限定で、東金堂の隅に銅造仏頭が安置されている。歴史の教科書では「山田寺仏頭」と習ったかもしれない。普段は阿修羅像などとともに国宝館に安置されているが、国宝館が耐震補強工事のため今年いっぱい休館しており、その期間中は東金堂にいる。ただ、元々東金堂の本尊だった薬師如来の頭部ということで、久しぶりに「里帰り」した形となり、注目を集めている。

そして阿修羅像。こちらは仮講堂に移され、「天平乾漆群像展」のシンボルとして安置されている。こちらは中央に阿弥陀如来像があり、四隅を四天王像、そして八部衆像が並ぶ。阿修羅は八部衆の一つなのだが、やはりその存在感は際立っている。参詣者、観光客も大勢拝観に訪れていたが、やはり皆さんのお目当ては阿修羅像である。正面から、両側からその表情を何とか見ようとする。なお、こちらの仮講堂の公開は、前期が6月18日まで、後期は9月15日~11月19日までである。真夏を避けたのは仏像たちの保存に影響があるからだろうか。

これで一通り境内を回り、北参道から奈良公園方面に出る。鹿もたくさん出ている。木陰でのんびりしているのもいるが、中にはクルマが行き交う道路を渡ろうとするのもいる。この鹿というのも地元では悩ましいようで、観光客の楽しみと農作物等への被害との間でどうするかというのが課題である。これまでも鹿の駆除を行おうとすると市の内外から多くの反対が寄せられたそうだが、ついにこの夏に数十頭を狩猟することが決まったそうだ。人間の勝手と言えばそれまでだが、実害が起こるようではいけないのではないかと思う。

ここから少し行けば奈良国立博物館があるとか、東大寺や春日大社があるとかいろいろあるが、今回は西国2巡目としての興福寺をピンポイントで訪ねたということで、ここで引き返す。少し時間も過ぎたが昼食もとらなければ。またこの先、何やかんやで訪ねることだろう。今度は近鉄で・・・?
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客番「安岡寺」~新西国三十三所めぐり・32(どっちもたかつき)

2017年05月02日 | 新西国三十三所
神峯山寺の参詣を終え、バス停に戻る。次の安岡寺(あんこうじ)までは高槻駅行きのバスで浦堂で下車が最寄だが、天気も良いことだし歩いて移動する。スマホの地図だと50分ほどとある。

近くの河原では釣り糸を垂らす子どもたちの姿が見える。堰のようなものが出来ているので、魚を放流して釣り体験という感じである。このまま県道を歩き、上の口のバス停からは住宅地が広がる。ゆるやかな下り坂が続き、歩きやすい。

浦堂のバス停に着くと、安岡寺への案内看板がある。矢印に従って歩くと再び住宅地の中の上り坂である。10分ほど歩くと安岡寺の駐車場があり、石柱が見える。そのすぐ向こうに本堂も見える。事前にネットで調べたところでは山門があるはずだが、あれ?という感じである。どうやら私が見た案内看板は自動車での参詣者向けのもので、それに従って来ると駐車場のところに出たわけだ。裏参道を通って来た形ではあるが、まあいいか。境内に入って振り返ると、石柱には「西方極楽浄土入口」とある。とすると、西方極楽浄土から現世に戻ってきた形か。

安岡寺は、先ほど訪れた神峯山寺と同じく、光仁天皇の息子である開成皇子が開創したとされている。本尊の如意輪観音は開成皇子の手によるものとか。根本山・神峯山寺、北山・本山寺と並び、南山・安岡寺として「北摂三山」としての歴史を持つ。兵火で焼けたこともあるが、江戸時代には将軍家の保護を受け、多くの塔頭寺院を持った。しかし明治の廃仏毀釈で荒廃して現在の規模になった。今は回りを住宅に囲まれた丘の上に建つ寺院といったところである。

まずは本堂の外でお勤めを行い、本堂左手の納経所に向かう。すると「書いておきますので、本堂に上がれますからどうぞ」と案内される。ということで本堂の扉を開けて中に入る。こちらには中央には厨子に収められた如意輪観音があり、右手には愛染明王、左手には不動明王が安置されている。不動明王といえば、安岡寺は近畿三十六不動の札所でもある。観音霊場としての新西国では客番扱いだが、如意輪観音が新西国に選ばれたポイントなのだろうか。

本尊の如意輪観音よりもこちらのほうがポイントではないかというのが、本堂の隣にある青梅観音堂に安置されている十一面千手観音坐像である。こちらは高槻の安正寺(青梅寺)というところの本尊だったが、同寺が廃寺となったために安岡寺に移されてきた。平安時代初期の作と言われており、高さ1.4mと、十一面千手観音の坐像としては最大級とされている。観音堂の扉が開いており、細かな目の網戸越しに中をのぞいて拝観することができる。撮影はできないので、バス停横の案内看板の写真で紹介する。

奥には「かのう(叶)観音堂」と「開山堂」があり、それらを回って安岡寺の参詣はおしまい。ここで、残り少なくなったが次の行き先へのサイコロである。

1.西神明石(太山寺)

2.比叡山(横川中堂)

3.大阪市内(太融寺、鶴満寺)

4.福崎(金剛城寺)

5.龍野(斑鳩寺)

6.振り直し

1回目のサイコロは「6」で振り直しとなり、2回目で「5」が出た。龍野である。斑鳩寺があるのは兵庫の太子町だが、せっかくなので近くにある龍野との組み合わせである。比叡山は・・・先ほど神峯山寺の副住職が言っていたように本当に「締め」になるかもしれないな。

さて、本堂から下に石段が伸びている。実はこの石段が表参道のもので、これを下りていくと山門に出る。途中、墓石の上のところだけを並べ、中央に地蔵菩薩像が立つものがある。これはどういう形の墓なのだろうか。

そして順番が逆になったが下り立った山門。うーん、やはりこちらから来たほうが、札所らしい風情を感じることができたことだろう。もう少しバス停からの道順を確認しておけばよかった。

これで今回の新西国めぐりは終了・・・ということで、浦堂からバスで高槻駅に戻る。時間帯はちょうど昼食どき。この後、大正ドームに移動するわけだが、せっかくなので高槻駅前で、かつ歩いたのでちょいと一杯ということにする。

見つけたのはJR高槻から阪急高槻市に向かう途中の磯丸水産。24時間営業の海鮮チェーン居酒屋である。こちらでマグロの刺身盛り、そして磯丸水産の売りであるコンロでの焼物。ホタテや白ハマグリなどでお疲れ様ということにする・・・。
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第14番「神峯山寺」~新西国三十三所めぐり・31(新緑の高槻で「拝仏」)

2017年05月01日 | 新西国三十三所
関西クラシック近鉄対南海戦を観戦したその日は、午前中は新西国三十三所めぐりをしていた。別に急いでいるわけではないが、この4月に入ってペースが上がってきている。

31所目の巡拝となったのは高槻。第13番の神峯山寺(かぶさんじ)と、客番の安岡寺(あんこうじ)の2ヶ所がある。高槻市内の中でもJR高槻駅の北、同じバス路線でのアクセスであるので、この2所をセットにして訪れることにする。高槻と聞いてイメージするのは「どっちもたかつき」。大阪と京都、どっちにも同じくらいの時間でアクセスできるし、JRと阪急のどっちも使える。便利な都会の顔と、自然豊かな顔のどっちも持つ。古き良き文化と、これからの発展のどっちもある・・・など、さまざまな点での二面性の魅力が「どっちも」あるというのが街づくりのコンセプトである。これまで高槻というところもそう行く機会がなかったので、新西国めぐりを一つの機会として見てみたいと思う。

野球観戦で大正ドームに行くことを考えると、やはり朝から出かけることにする。まず奥にある神峯山寺に行き、その後で駅側の安岡寺を回るというプランにした。まずは新快速で高槻に到着。駅前には大型店舗、高層マンションが建ち並ぶ。

神峯山寺へは、高槻市営バスの原大橋行きというのに乗る。連休の朝、天候もよいということでハイキング姿のグループや家族連れが目立つ。まずは整備された駅前を抜け、住宅街を進む。少しずつ坂を上がる。上の口に到着するとハイキング姿の一段がぞろぞろと下車する。摂津峡への最寄りのバス停である。

上の口を境にして住宅街から田園風景に景色が一変する。高槻駅から15分あまりで神峯山口に到着。ここでもハイキング姿が下車する。神峯山寺に参詣というよりは、さらにその先の神峯山、ポンポン山などをめぐるハイキングコースがある。そこまで行くと1日コースになるかなというところだ。そんな中、まずは寺を目指す。田園風景の向こうに高架橋が見える。現在建設中の新名神高速道路である。こういうところを通るのかと思う。

途中、ショートカットする自然歩道があり、案内板も出ているのでこちらを通る。ふと四国八十八所めぐりを思い出す。ちょうど次の連休には四国に行くので、今回はそのウォームアップのようなところもある。

自然歩道を上りきったところに石柱がある。鳥居のように外部との結界を示すものだろう。石柱の間にしめ縄を張り、樒を垂らしている。これを勧請掛と呼ぶ。その昔、大坂の米商人たちは樒の垂れ具合で米相場を占っていたとある。江戸時代の大坂の豪商・鴻池善右衛門は七福神の一つとしての毘沙門天を篤く信仰しており、毘沙門天を本尊とする神峯山寺にも足しげく通っていたそうである。

勧請掛をくぐってしばらくは参道が続く。手ぶらの地元の人らしい人ともちょくちょくすれ違う。近くの人にとってはちょっとした散歩コースなのだろう。ちょうど新緑の時季、青もみじがなかなかよい風情だ。これも秋の紅葉となるとさらに大勢の人たちでにぎわうことだろう。

バス停から20分ほどで仁王門に着く。「光仁天皇勅願所 根本山神峯山寺」の札がかかり、その前には「日本最初毘沙門天」とある。私が今回訪ねたのは新西国の観音霊場めぐりとしてであるが、寺の本尊はあくまで毘沙門天である。観音霊場としての札所めぐりではあるが、本尊は必ずしもそうではないというのが、これまで何度も触れているが、新西国の特徴の一つである。

仁王門をくぐると参道がさらに続く。地元の人たちが散歩がてらに手を合わせたり、ハイキングの人たちが立ち寄ったりという寺である。お堂がいくつかある中で化城院というのがある。ここでは2011年から3000日連続での護摩修行を行っており、現在2250日を過ぎたところである。

突き当りに本堂がある。普通であれば本堂の前で経本を広げてお勤めを行うところだが、この時はそれをせず手を合わせるだけで他のお堂を回る。さらに急な石段を登りきると、役行者を祀る開山堂に出る。

帰路、順路に従うと一つの滝に出る。九頭竜の滝といい、役行者はこの滝の水しぶきが光るのを奈良の葛城山から見て、この地に修行にやって来た。これが神峯山寺の開創という。その後、光仁天皇の勅願により、息子の開成皇子(桓武天皇の弟)の手で中興されたのが今の寺の流れである。古くから山岳信仰と仏教とが融合して信仰を集めたところである。境内も周りの山とよく溶け込んだ風情であった。

・・・さて、これで神峯山寺は終わりかというと、そうではない。むしろこれからがメインで、今回のお参りでは新西国の中でも突っ込んだ形で「拝仏」なるものを体験することにする。神峯山寺は、仏を観るものではなく拝む対象としており、仏の前で手を合わせて祈願する「拝仏」という形での仏像拝観を行っている。その対象の中に、新西国の観音霊場たるゆえんの観音像も含まれている。これはぜひ見ておく、もとい拝んでおくところだろう。事前予約制ということで、寺のホームページから予約を入れておいた。

最近は寺もブームになっているし、連休中で、ハイキング姿などの人も多いから「拝仏」の人もそこそこいるのかなと思いきや、本堂下の納経所で申し出ると「お待ちしていました」と言われる。本坊の玄関に回り込むと、この時間の「拝仏」の申込者は私だけだった。まずは応接に通され、流れの説明と受付を行う。本堂での祈願法要を行い、その後で本堂内を案内するという。祈願の内容を封筒に書き、祈願料込みの拝仏料は2000円。普通の寺の拝観料だと思うと高く感じるが、祈祷込みだと却って安く感じる(感じ方は人それぞれだと思うが)。別にどこかの檀家でもない私としては、本坊に上がることも貴重な体験である。待つ間に部屋を見渡すと調度品も年季が入っているように見えるし、おそらく歴代住職のものであろう遺影も掲げられている。それにしても私一人とは恐縮する。

荷物はそのまま置いておくよう勧められ、どうせ中は撮影できないだろうからと、カメラもなく数珠だけ持って、本坊から渡り廊下を通って本堂の内陣に案内される(だから、拝仏の画像はないのでご理解を)。「副住職お願いします」の声で出てきたのが、30歳台とおぼしき若い僧侶。「まずはお勤めさせていただきます」と、低音で締まった声で声明から始める。神峯山寺は天台宗の寺である。次いで私の名前での祈願の口上があり、最後は開経偈から般若心経となる。最後のところは私も横で口の中でモゴモゴやったので、一応ここでもお勤めはしたことにする。

お勤めの後で、副住職による説明である。寺の由来は役行者であることは先にも書いたが、彼がこの地にやって来た時に、山の霊木で4体の毘沙門天を刻んだ。その一つはここ神峯山寺に、後は、神峯山寺の北にある本山寺、信貴山、そして鞍馬寺の本尊になったという。現在本尊で祀られている毘沙門天像は後世のものだが、神峯山寺を「日本最初毘沙門天」とする歴史は受け継がれている。

「当寺には3種の毘沙門天がいまして」と、内陣の奥に通される。畳3畳ほどのスペースに小さな厨子がある。双身毘沙門天を祀っている。先の毘沙門天はさまざまな願いを叶えてくれるとして一般に広く信仰されているが、双身毘沙門天はグレードが上がる。どんな願い事(例えは悪いが、誰かを殺したいという願いも)叶えるという。ただし、この毘沙門天をひたすら拝み続けることが条件で、少しでも怠ると願った側の本人の命にも関わるというものである。だから扱えるのは修行を積んだプロの僧侶に限られているようで、現在その修法を完全に行えるのは、副住職によれば比叡山延暦寺と神峯山寺だけだそうだ。

そして、「この先は拝仏の方だけです」と、双身毘沙門天の厨子の後ろの防火扉を開ける。こちらは特に厳重に管理されるエリアで、仏像がずらり。中央の厨子には兜跋毘沙門天が祀られている。この兜跋毘沙門天ともなると、国家鎮護といったレベルの祈願となる。3種類の毘沙門天を層を作って配置し、それぞれに応じた信仰を長く集めてきたわけだ。

その両脇に阿弥陀如来、そして2体の観音像がある。その中で歴史的価値があるのが阿弥陀如来とされている。毘沙門天が現世、阿弥陀如来が来世ということで、二つをセットで信仰するのがよいとしている。現在、融通念仏宗というのがあり、大阪平野区の大念仏寺を総本山としているが、その第二祖の良恵という人は、元々は神峯山の村にいた橘輔元という者だった。彼が病気で苦しんだ時に神峯山寺の阿弥陀如来を拝んだら全快したという。その後輔元は出家して、融通念仏宗を興した良忍の弟子となる。

一方の観音像2体は、制作年代は古いとはしつつも、寺の歴史としてはそこまで重要ではないということか、ともかく寺宝として保存しているという扱いである。ただ、こちらが新西国の観音霊場の一つに選ばれた由来の観音像である。阿弥陀如来、観音像それぞれを拝み、これで「拝仏」の目的を果たすことはできた。

説明が終わり、副住職と本坊に戻る。先ほど祈祷をした護符をいただく。会話の中で、何か札所を回っているのかと尋ねられて、新西国と答えると「ほほう」という反応を示す。「新西国、結構山のほうに行くでしょ?」とあり、「新西国は、誰もが知っているところは四天王寺と比叡山くらいでしょ?だけど、誰もが知っているわけではないけど、いいところは結構あって、寺好きの方には面白いと思いますよ」と歓迎される。また天台宗ということで、「比叡山がまだでしたら、ぜひ最後は比叡山で締めていただいて。新西国は横川中堂ですが、根本中堂が現在修復中で、かえって今しか見られない光景ですよ」と勧められ、「新西国終わったら、神仏霊場会はどうですか?ウチも入ってるんで」などと言われる。私の中では具体的な次は西国四十九薬師とか近畿三十六不動めぐりがあり、神仏霊場会についてはまだ具体的なものはないが、こんな感じで寺院めぐりをしていると、そう遠くない時期にあの分厚い納経帳をリュックに入れて出かけているかもしれない。

副住職に挨拶して本坊を後にして、納経所で朱印をいただき、いろいろあった神峯山寺の参詣はこれで終わり。なかなかのところだった。先ほどあった護摩修行も興味を引くし、修験道の体験もできるそうである。次に来ることがあればそういうものに接するのもいいだろう・・・。
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