まつなる的雑文~光輝く明日に向かえ

まつなる兄さんのよしなしごと、旅歩き、野球、寺社巡りを書きます。頼りなく豊かなこの国に、何を賭け、何を夢見よう?

第9回四国八十八所めぐり~第33番「雪蹊寺」

2017年05月10日 | 四国八十八ヶ所
禅師峰寺から歩きと渡し船で雪蹊寺に到着した。長浜地区の中心に近いところで、周りには住宅や商店も並ぶ。また門前には新しい感じの旅館があり、歩きで回る人の 利用も多いだろう。

「三十三番」と書かれた石柱を見る。直接関係ないのだが、西国三十三所の「33」を連想する。四国でも、あれに相当する数の札所を回ったのだなと感じる。四国の場合は極端な山登りがあるかと思うと札所が固まっているエリアもあり、エリア全体が広く、札所間の平均距離が長い西国のほうが時間がかかったかなという思いがある。まあ、西国の場合は行き先をくじ引きとサイコロで決めるという遊びもあったので、一概に比較はできないが。

ここは仁王のいる山門もなく、そのまま入る。正面奥の本堂は平成16年の改修とあってなお新しい感じである。薬師如来が本尊ということで、まずはお勤め。

雪蹊寺は弘法大師の開創で、当初は「高福寺」という名であったとされている。その後、鎌倉時代に運慶や湛慶がこの寺に滞在して本尊の薬師如来像を彫ったことで「慶運寺」と名乗った頃もあったが、いつしか廃寺となった。

それを再興したのが長宗我部元親である。この戦国大名、八十八所めぐりのあらゆるところに出てくる。阿波の国では多くの寺院を兵火で焼いた一方で、土佐ではあちこちの寺の再興に関係している。まあ、元親は八十八所を意識して戦をしたわけでなく、本拠地土佐をいかにして盛り立てるか、そして周りの国をどう攻めるかに終始しただけだと思う。なお元親はこの寺の再興に当たり、自身が信仰していた臨済宗の高僧を招いた。そして元親の死後、元親の法号から寺の名前を現在の「雪蹊寺」と改め、長宗我部氏の菩提寺とした。その名残で、弘法大師の真言宗がほとんど(というよりも弘法大師その人への信仰が大きい)の四国八十八所にあって、2つしかない臨済宗の寺として今も多くの人がお参りする。

ただ土佐の札所は、阿波が「長宗我部元親の兵火」と「蜂須賀氏による再興、保護」がセットなのと同じように、「長宗我部元親による再興」か「土佐山内家による保護」とセットで、「廃仏毀釈」がついて回るのが多い。長宗我部氏ゆかりの雪蹊寺もそうで、廃寺になった後でできたのが隣接する秦神社である。こちらは長宗我部氏を祭神としているが、訪れる人の姿もない。

本堂、大師堂でのお勤めを終えて納経所で朱印をいただく。さらに、境内の出店をのぞく。さすがに柑橘類や野菜を買っても持ち帰れない中で、「これでおしまい」というクジラのジャーキーを買う。寺の境内で生臭もの・・・となるが、いいだろう。

さてこの後をどうするか。時刻は14時。次の34番種間寺へは6キロの道のりである。歩けば1時間少しか。また、長浜から桂浜に向かうこともできる。やはり高知を代表する観光地でもある。または、高知市街地に戻り、市街地の観光スポットを回る、何ならこの時間からでも「ひろめ市場」に陣取ることもできるだろう。

・・いかようにも選択できたが、結局選んだのは高知駅までバスで戻ること。だからと言って城や博物館、果てはひろめ市場に行くから・・・というよりは、ホテルに戻って少し休もうという理由である。高知城や、歴史博物館、さらには県立文学館で企画展中の司馬遼太郎の顔も浮かぶが、ここは一休み・・・。
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