まつなる的雑文~光輝く明日に向かえ

まつなる兄さんのよしなしごと、旅歩き、野球、寺社巡りを書きます。頼りなく豊かなこの国に、何を賭け、何を夢見よう?

第27番「圓教寺」~西国三十三所めぐり2巡目・34(新たな年、新たな巡礼への祈り)

2019年02月06日 | 西国三十三所
2月3日、書写山圓教寺。

節分会、豆まきを前に大勢の人が摩尼殿に集まってきた。堂内の外陣はもうびっしりで、外の廊下にも立ち人が並ぶ。

13時から法要が始まるが、特に参詣の人たちが一斉に合掌することもなく、いつしか内陣から声が聞こえてきて始まった形である。声が聞こえてきたというのは天台宗の声明(しょうみょう)である。何と言っているかは私の不勉強のためわからないが、経文や真言に旋律や抑揚をつけて楽曲風に唱える、天台宗の流儀である。

内陣の中央にさらに幕で囲まれた中での法要で、何が行われているのかは見えない。声明が一通り終わったかというところで、祈願文やら何やら謎めいた呪文のような文句が早口で聞こえてくる。以前に比叡山の無動寺で阿闍梨が行っていた祈祷を思い出す。

その一方で、左手からは不動明王の真言をひたすら唱える僧侶の声が響く。中央の祈祷の真言と重なりあい、どちらに意識を向ければよいのだろうか。

この節分会では二つの祈祷が同時に進んでいるようだ。中央で行われているのは如意輪観音の星祭。如意輪観音は「星の観音」とも呼ばれるそうで、人々の生まれた年の星と、年ごとに変わる星の巡り合わせによる災難を除くために、星が変わる立春の節分に合わせて祈祷するものだという。

一方の不動明王は言わずと知れた災難除け。私が座ったところからは垂れ幕の向こうに護摩供養の火があがるのが見えるが、その様子を見てわざわざ立ち上がって撮影に行く人もいる。

法要が始まって30分もすると外陣のあちらこちらからザワザワするようになった。私語も聞こえるし、スマホを取り出してゲームを始める人もいる。法要の最中にそれはあかんやろと思いながらも、ただ座っているだけで何もなく時間をもて余すのも仕方ないのかなと思う。寺によっては「お不動さまのご真言をお唱えください」とリードも入るのだがそれもない。よほど篤心でないとついていけないのでは。

ようやく法要が終わり、中央から一人の僧侶が顔を出してマイクを握る。圓教寺の副住職だったか、以前の西国三十三所の先達委員会にいらした顔に見覚えがある(私の中では、元プロ棋士でトークの上手い神吉宏充さんが頭を剃った姿という印象)。「お待たせしました、今から豆まきです」と言うが、先ほど如意輪観音の星祭でさまざまな真言を唱えて祈祷していたのは、この神吉七段?である。

豆まきにはルールがある。説明によると・・・

・最初に枡に入った豆そのものをまくが、後は豆が入った紙袋をまく。なお豆は先ほど祈祷していたものである。

・豆は4人の年男が本堂内陣からまくが、参詣者は決して膝立ちも含めて立ち上がらないこと(怪我の防止)。

・紙袋は全部で8000袋あるが、半分の4000袋をまいたところで一時中断して、前後を入れ替える。その前後とは、外陣の中央に張った赤い紐の前と後である(紐は私が座った位置のすぐ前である。つまり、前半は後列の最前列で、後半はさらに前に行ける)。

・袋には、金の観音像への引換券が入っているのが1つ、銀の観音像への引換券が入っているのが2つある。他には紅白のお供え餅との引換券や、宝金として500円を最高とする硬貨が入ったものもあるという。

4人の年男が紹介される。芸能人というわけではないが、キンキサイン・山口会長、高岡病院・長尾理事長、AM神戸・森取締役、永井産業・永井会長という、地元の名士たちである。「豆をまいてほしかったら大きな声で名前を呼んでください」と神吉七段。

そして豆まきが始まると、もう堂内に歓声が響く。年男に声を出してアピールする人も多い。年男たちも豪快に豆袋をまき、前列だけではなく後列にも届く。神吉七段を含めた僧侶たちも応援でまく。空中の袋をダイレクトでつかんだのもあったが、多くは人々の間に落ちたものの争奪戦である。堂内でやや暗いこともあり、足元すぐのところに落ちていても案外気づかないものだ。

前後半合わせても10分くらいだったか。豆まきは終了し、堂内からは大きな拍手が起こった。気づけば私も35袋くらいを獲っていた。

その後、堂内で袋の中を確認するようにとのアナウンスがある。縁起物との引き換えはこの場でしかできないためである。あちこちで紙袋を開ける光景が広がり、歓声とため息が広がる。そのうちに金と銀の観音像の当たり札が出たとのアナウンスがあった。

私はといえば、宝金が計4枚、金額は165円だった。帰宅して豆の一部を枡に盛って宝金を乗せてみると、それぞれの硬貨もピカピカである。うーん、お守りというわけではないが、この硬貨は使うのではなく何らかの形で取っておきたいと思う。

西国三十三所めぐりの2巡目はこれでおしまいとして、ロープウェイ乗り場に戻る。予報どおり、境内には雨が落ちていた。

立春を前にした星祭、不動明王の護摩供、さらには豆まきということで、新たな年への活力になったと思う。また、西国も3巡目をやろうと思う。すでに中山寺で3巡目は始まっているが、3巡目は中先達への道となるし、先達の特典で無料でいただいた「西国曼荼羅」の八角形の色紙への朱印をいただくことになる。その意味でまだまだ楽しむことができるだろう。

またこれからも、よろしくお願いします・・・。
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第27番「圓教寺」~西国三十三所めぐり・34(2巡目の満願)

2019年02月05日 | 西国三十三所
西国三十三所めぐりの2巡目も、第27番の圓教寺で終わりとなる。2巡目も特に札所順にこだわることなく、またサイコロで行き先を決めることなく任意に回って来たが、圓教寺を最後にしたのは、西国めぐりのもっとも西に位置し、天台宗の名刹としてふさわしい佇まいを持つ寺ということがある。

訪ねたのは2月3日。この日は節分ということで各地の寺社では節分祭が行われる。同時に回っている近畿三十六不動めぐりで次に訪ねる聖護院や智積院でも行われるとあり、姫路に行くか京都に行くか迷ったが、ここはまず西国の2巡目を終わらせようと姫路に向かうことにする。

往路は阪神~山陽電車の直通特急で姫路に向かい、書写山ロープウェイ行きのバスに乗る。ロープウェイ下の停留所に到着したところで、次のロープウェイは11時15分発とある。

乗車するのは、昨年導入されたばかりの新型ゴンドラ。26年ぶりに入れ替えたそうでこれが4代目だという。発車時刻になるとびっしり満員となり出発する。この日は朝から雲が広がっていて午後からは雨の予報。ロープウェイから遠くまでの景色も霞んでいる。ちなみに左下に広がるのは菜の花畑。まだまだ冬は続くが、こうした春の景色もちらほら見えるのもよい。

4分間の乗車で山上駅に着き、本堂までの1キロ弱を歩く。なお書写山はロープウェイだけではなく手軽な登山の対象として、またかつての徒歩巡礼道を歩くとして歩いて上がる人も多く、ハイキングスタイルで参道を行く姿も見られる。

平成になってから設けられたものだが、参道には西国三十三所の各本尊の像が置かれている。今回は2巡目最後ということもあるので、改めてその一つ一つを紹介してみる。これまで回ったことを思い出しながら、である。

まずはここ、第27番「圓教寺」(如意輪観音)

第1番「青岸渡寺」(如意輪観音)、第2番「紀三井寺」(十一面観音)

第3番「粉河寺」(千手千眼観音)、第4番「施福寺」(十一面千手千眼観音)

第5番「葛井寺」(十一面千手千眼観音)、第6番「壷阪寺」(十一面千手千眼観音)

第7番「岡寺」(如意輪観音)、第8番「長谷寺」(十一面観音)

第9番「興福寺南円堂」(不空羂索観音)、第10番「三室戸寺」(千手観音)

第11番「醍醐寺(上醍醐)」(准胝観音)、第12番「岩間寺」(千手観音)

第13番「石山寺」(如意輪観音)、第14番「三井寺」(如意輪観音)

第15番「今熊野観音寺」(十一面観音)、第16番「清水寺」(十一面千手千眼観音)

第17番「六波羅蜜寺」(十一面観音)、第18番「頂法寺六角堂」(如意輪観音)

真ん中にあたるところに展望スポットがあるが、この日は眺望を楽しむには少し厳しい空模様だった。

第19番「行願寺革堂」(千手観音)、第20番「善峯寺」(千手観音)

第21番「穴太寺」(聖観音)、第22番「総持寺」(千手観音)

第23番「勝尾寺」(十一面千手観音)、第24番「中山寺」(十一面観音)

第25番「清水寺」(十一面千手観音)、第26番「一乗寺」(聖観音)

第28番「成相寺」(聖観音)、第29番「松尾寺」(馬頭観音)

第30番「宝厳寺」(千手千眼観音)、第31番「長命寺」(千手十一面聖観音三尊一体)

第32番「観音正寺」(千手千眼観音)、第33番「華厳寺」(十一面観音)

それぞれの札所に風情が感じられるのだが、私の場合は本尊の観音像の違いというよりは、札所への行き帰りの道のりとか立ち寄りスポットに印象が多いように思う。まあそれも観音様とのご縁、お導きなのかなと勝手に解釈している。

ここで山門を下りさらに山道を進んで、本堂である摩尼殿を見上げる石段に出る。この舞台造りの建物も様になる。

畳敷きの外陣に上がる。その中でブランケットや敷物がいくつか敷かれている。これは節分会のためだという。現在の時刻は11時45分。この後13時から法要が行われ、14時から豆まきが行われる。その豆まきは摩尼殿の中で行われるそうだ。テレビのニュースで流される寺社での豆まきは本堂や拝殿から外の境内にいる人に向けてまかれるのが多い。圓教寺のこの舞台下ははるか遠いのにどうやってまくのかなと思っていたが、そういうことか。ただそれなら参詣者も限られるのかなと思う。実際どうなるのかは後の楽しみとして、私も場所取りをする。ちょうど上に柱にくくられた赤い紐が通っているが、何か意味があるのだろうか。

まずは私個人のお勤めをその場で行い、納経帳に朱印をいただく。これで2巡目の上がりとなった。先達用の納経軸もまずはメインの欄が全て埋まった。

さて、法要が13時からでまだ時間はあるが、その頃には外陣も人でいっぱいになるだろう。まだ場所取りの人も少ないうちに、大講堂や食堂のある西谷エリアに向かうことにする。

山道を5分ほど歩くと、大講堂、食堂、常行堂の三棟がコの字形に並ぶ一角に出る。節分の豆まきだけならこちらのコの字に囲まれた境内のほうが広そうに感じるが、これらの建物はどちらかと言えばそうした「俗なもの」を拒むような雰囲気がある。食堂では写経体験もできるが、それも含めて自ら修行する場というのかな(逆に映画や時代劇のロケ地として、この西谷エリアはちょくちょく登場するのだが)。

さらに進んだ奥の院には参詣する人じたいが減る。圓教寺を開いた性空上人を祀る開山堂がある。性空上人という人は、『徒然草』の中でも六根清浄の境地に至った人物として紹介され、旅先で宿に入った時に、豆の殻を焚いてまめを煮るグツグツした音を聴いて、聞こえないはずの豆同士の話を聴くことができた・・とある(この豆同士の会話の内容は中国の詩文にもある逸話だそうだが)。

摩尼殿に戻る。先ほどから人が増えていて、法要開始の13時が近づくと外陣はほぼいっぱい、外の廊下にも立つ人が出始めた。300人は優に超えているだろう・・・。
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第17番「曼殊院」~近畿三十六不動めぐり・30(雪の庭園と一乗寺下り松)

2019年02月02日 | 近畿三十六不動
曼殊院の勅使門から左手にぐるりと回り、北通用門から境内に入る。通用門の受付にて拝観料を支払う際に一緒に納経帳を預ける。番号札をもらって帰りに引き取る方式である。

門跡寺院は一般の寺の本堂に入るというよりは、屋敷にお邪魔するような感覚である。この先建物の中は撮影禁止とある。まずは庫裏から大玄関に向かう。天皇・皇后両陛下のお成りの時の写真パネルがあちらこちらに飾られている。

曼殊院は、伝教大師最澄が比叡山上に開いた小さな坊が由来とされていて、12世紀に現在の北山に本拠地を構え、その後いったん洛中に移った後、17世紀半ばに今の地に建てられた。北山にあった時は北野天満宮の別当寺でもあった。後に皇族が住職を務めるようになり、現在の地に寺を移したのは良尚法親王である。天台座主として仏教への深い帰依があったのはもちろんだが、和歌や書道、華道など風流の道にも造形が深い人物だったそうだ。そのため、庭園や茶室にも意匠を凝らしている。

元々は宸殿を本堂として本尊阿弥陀如来を祀っていたが、明治になって京都に病院を建てるに当たって寄付された。現在は大書院が本堂とされているが、宸殿を再建しようという動きがあり、寄付の呼びかけがあちこちにある。その予定地を廊下から見ることができる。

そして大書院から小書院への回廊を通るところで庭園を見る。桂離宮をはじめ数々の庭園の設計に携わった小堀遠州の作と言われている。

来る前の期待どおり、庭園は雪に覆われていた。これにはうなる。「京の冬の旅よの~」と勝手に感心する。雪が降り続いていたら少し厄介なのだろうが、夜から朝にかけて降り、それが止んだ後の昼間という絶妙の時間帯のことである。

で、近畿三十六不動ということだが、先ほど大玄関の一室に木像の不動明王像が祀られていた。期間限定の公開ということでそれはそれでありがたいものだが、近畿三十六不動としての本尊はこれではない。「黄不動」というものだ。

「黄不動」は、滋賀の三井寺の秘仏とされる不動明王の画像である。赤不動、青不動とともに三不動の一つとされていて、曼殊院には三井寺の黄不動の模写が伝えられている。ただこの模写も歴史的・文化的な価値があるということで現在は国立京都博物館で保存されている。曼殊院の大書院の一室に掛けられた黄不動の画像は、模写の模写の複製というくらいのものだが、黄不動の力強さがよく現れている。ここで聖不動経を含めたお勤めである。

他には藤原行成の筆による古今和歌集や、織田信長、武田信玄らの書状など、さまざまなものがガラスケースに収められている。

拝観は順路に沿って建物を回る形で、上の台所というのも通る。ここでは高貴な来客のための調理を受け持ったそうで、かつてのメニューを記した紙の写しがいろいろ貼られている。上客へのもてなしのために膳の数は多いが、やはり門跡寺院、肉や魚の一品はない。豆腐やひりょうず(がんもどき)がメインの一品どある。

谷崎潤一郎が寄贈した鐘というのがある。鐘といっても鐘堂にあるような大きなものではなく、法要の準備や開始の合図をするためのものである。谷崎の作品に『少将滋幹の母』というのがある。私もここを訪ねた後に電子書籍で読んだのだが、その中に、登場人物の一人が女性の死体を見る「不浄観」を行じる場面がある。死体が腐敗し、白骨化し、土にかえるまでの姿を心中に感じることで、煩悩や欲望を取り除く修法なのだという。谷崎は作品を書くにあたり曼殊院の門主から天台宗の教学を学び、そのお礼として鐘を寄贈したそうだ。

最後に着くのが孔雀の間。ここには本尊の阿弥陀如来が厨子に安置されて祀られている。長野の善光寺の出先という。

これで曼殊院のお参りはおしまい。最後は庫裏に戻って「屋敷」を出る。納経帳を受け取って境内を後にする。

さて次の札所だが、高野山との間では次の二択である。

1、2、3.東山(聖護院、青蓮院、智積院)

4、5、6.湖西(葛川明王院)

ここで出たのは「1」。鴨川の東に並ぶ門跡寺院を回ることになる。これで、私なりの近畿三十六不動めぐりの満願までのルートが固まることになった。

曼殊院から一乗寺駅まで続く道は曼殊院道と呼ばれる。一乗寺と言えば今ならラーメン激戦区だろうが、歴史的には剣豪の伝説の地とされている。宮本武蔵と吉岡一門による「一乗寺の決闘」である。

一乗寺はかつて近江から京に通じる要衝にあった寺院で、街道には旅人の目印として松の木が植えられている。ちょうど角には松の木があり、「宮本 吉岡 決闘之地」という石碑がある。なぜか同じ場所には「大楠公戦陣蹟」というのもある。

その下り松にて、「宮本武蔵 悟りの地 八大神社」の案内板を見る。宮本武蔵は吉岡一門との決闘の前にこの神社に立ち寄って、ある「悟り」を得たと伝えられている。少し坂を上がり、庭園である詩仙堂に隣接して神社の鳥居がある。

一乗寺の決闘は宮本武蔵の決闘の中でも有名で、宮本武蔵を主人公にした映画やドラマでも名場面として描かれている。その中で中村錦之助(後の萬屋錦之介)版の映画ポスターやシーンの切り抜きが飾られている。

境内には宮本武蔵の像、そして決闘当時の下り松の古木がガラスケースに入れられて保存されている。こちらが八大神社のご神木であるかのようだ。

像の横には『宮本武蔵』を著した吉川英治の随筆の一節が刻まれた石碑がある。それによれば、宮本武蔵は吉岡一門の決闘の前に八大神社に立ち寄り、勝利を祈願しようとした。しかしその時に何かを悟り、そのまま鈴を鳴らすこともなく、祈ることもなく決闘の場所に駆けていったという。

武蔵は後に『五輪書』に「我れ神仏を尊んで神仏を恃まず」と記しているが、それが彼が得た悟りの内容である。神仏は敬うとしてもすがるものではない。やはり最後に頼るべきものは自分の力、意志の強さだ・・・というところか。

さまざまな札所を回っている中でこうした文句に出会い、自分も「恃む」ところがなかったかと気づかされるのも皮肉なものである。

そういえばある人から「神社はお願いごとをする場所ではない。目標を誓う場所である」と聞かされたことがある。「神様に何とかしてもらおう」ということではなく、「自分が頑張るから見守っていてください」と誓う場所だという。仏にしても同じようなものだろう。

これからの札所めぐりでも、そうしたことを心の中に持って手を合わせようと思ったのであった・・・。
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