まつなる的雑文~光輝く明日に向かえ

まつなる兄さんのよしなしごと、旅歩き、野球、寺社巡りを書きます。頼りなく豊かなこの国に、何を賭け、何を夢見よう?

さぞかし人気店なんでしょうが・・・

2021年11月14日 | ブログ

あのなあ、緊急事態宣言中は助けてください、苦しいんです・・・とか抜かしていたくせに、それが明けたら殿様商売かよ。

なんで昼食で、それも単純なメニューなのに2時間待ちは当たり前?店も当然、客も当然。アタマいかれとんのか?

はい、待つことは仕方ないので(普段は絶対そんなことはしない。戦後直後の食糧難や、旧ソビエト共産圏の国じゃあるまいし)、名前は書いた。ただ、それにしても許容範囲というのがあるぞ。

ああそうですか、辛抱できんのが悪いんですか。こっちも時間の都合があるんで、ぎりぎりまで待ったが一向に順番が来ないのでやむを得ず順番待ちの名前を消しましたよ。

それに対して、一言のお詫びもないのか?まあそうやろね。私一人が列を離れたところで店の収支には影響しないし、むしろ効率悪い一人客が減ったことでホッとしているんでしょう。

二度と行くか、ボケ。岡山県美咲町の食堂K。

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第5回九州西国霊場めぐり~三角線・A列車で行こう

2021年11月13日 | 九州西国霊場

阿蘇、札所、熊本城・・と回ったこの2日(10月30日~31日)、往路の新幹線の中でプランを変えたことで時間ができ、久しぶりの路線に乗ることにした。タイトルにある三角線である。

熊本発14時47分発の三角行きに何とか間に合う。単に三角線に乗るだけならもう1本後の列車でもいいのだが、今回はせっかくなので三角線を走る特急「A列車で行こう」に乗ってみる。三角発16時19分の6号の指定席を取ったのだが、それに乗るのは熊本をこの列車で出発する必要があった。

キハ140系の2両編成、車端のボックス席に座る。この日は雲巌寺から本妙寺まで歩き、また広い熊本城内を歩いたこともあって、ボックス席で前のシートに足を伸ばす。やっと落ち着いた感じだ。

九州新幹線の高架に沿って走る。この新幹線でもっと南にも行きたいのだが、九州西国霊場の南の端は熊本で、ここからは福岡に戻り、そして佐賀、長崎と続く。

宇土から三角線に入る。今度は国道57号線に沿う。この国道は九州を横断しており、大分から豊後竹田、阿蘇、熊本を経てこの先三角まで行く。さらに海を越えて島原に渡り、長崎が終点だ。かつては三角と島原を結ぶフェリーが国道の一部をなしていたが廃止されている。

右手に立派な山が見える。午前中、その山麓を歩いた金峰山である。その時は近くにいたがからその高さがわからなかったが、結構遠くからでも見えるものだ。

住吉を過ぎると島原湾が広がる。最初は干潟が広がり、その後で何かの養殖いかだも見える。

その島原湾を挟んで、先ほどの金峰山よりも雄大な山の姿が現れる。雲仙岳だ。阿蘇は先日噴火したが、雲仙が噴火したのは1990年代の前半。そのうち1991年6月の大噴火では火砕流で大きな被害を与えた。その痕跡も昔訪ねたことがあるが、あれからもう30年も経つのか。

赤瀬で島原湾と別れ、半島を横切る。最後は反対側にモタレノ瀬戸が広がり、15時41分、終点三角に到着。終着駅だが、その線路の先に「A列車で行こう」の車両が待機している。今来た列車が折り返しの熊本行きで発車した後に入ってくるようだ。

それまで、目の前の港に行く。この先は天草である。クルマでも行くことができるが、天草松島をめぐる「天草宝島ライン」という定期船も出ている。島原、天草というところもいずれ再訪したいところだが、この日は港で釣りを楽しむ人たちを眺める。

駅に戻るとちょうど「A列車で行こう」が入って来た。「A列車で行こう」と聞くとシミュレーションゲームを連想するが、この列車の「A」とは、大人(アダルト)や天草から取られたもので、「16世紀の天草に伝わった南蛮列車」をテーマとしたデザインである。これもキハ185系からの改造で、デザインしたのはもちろんあの方である。もっとも、前日乗った「あそぼーい!」が子ども連れを意識したデザインなのに対して、こちらは大人の雰囲気である。

当時の南蛮文化ということで、教会をイメージしたステンドグラスやマリア像などがあしらわれている。そして楽しみなのがカウンターバー。乗車時間が短いためか早速行列ができる。ここで飲み鉄を発動して、「Aハイボール」を注文。天草名産のデコポンをアレンジしたものだ。

そして車内にはジャズが流れる。そのナンバーも「A列車で行こう」。さまざまなものがつながっているように思う。他にも「イン・ザ・ムード」などのおなじみの曲が繰り返される。あ、ジャズといえば吉本新喜劇のテーマ曲も入れてもらわんと・・・(ちなみにこの曲はキダ・タロー作曲ではなく、「Somebody Stone My Gal(恋人を取られて)」というジャズナンバーだ)。

ジャズを聴きながら再び島原湾に出て雲仙を眺めると、また別の景色に見える。

御輿来(おこしき)海岸を通る。日本の夕陽百選の一つで、特に冬から春にかけての季節だと夕陽と干潟の景色が美しいという。その昔、景行天皇が九州遠征の折にこの景色に見とれて御輿を停めたことから名前がついた。ここでしばらく徐行運転する。

網田(おうだ)でしばらく停車する。外に出ることはできないが、熊本県最古の木造駅舎を見ることができる。来た時は気づかなかったのだが、発車時に力士のポスターのようなものが見えた。大関・正代である。宇土市の中でもこの辺りの出身なのかな。11月14日からは十一月場所が2年ぶりに九州場所として開催される。正代も地元で多少は意地を見せることができるか。

車内では乗客向けの記念撮影のサービスもあり、私も撮っていただく。

再び島原湾越しに金峰山を見て、陸地に入る。宇土で鹿児島線に入ってからはかつての特急車両らしい快走を見せる。17時01分、熊本に到着。三角からは40分ほどの乗車だったが、こうしたジャズバーの車両にもう少し乗っていたいなと思わせた。また機会があればと思う。

さて、これから広島に戻るのだが、予約していた新幹線まで2時間半ほど時間がある。通常のきっぷなら早い列車に変更するのだが、「スーパー早特きっぷ」のため変更不可、他の列車の自由席にも乗ることができない。

まあ、仕方ないな・・・というよりは、熊本県が最後ということで熊本駅で一献やる時間を見込んでいたのだ。前夜の中心部のように店が並ぶわけではないが、新幹線も停まる駅周辺には何かあるだろう。そう思って駅前に出る・・・。

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バファローズ、日本シリーズ出場おめでとう!!!!

2021年11月12日 | プロ野球(バファローズ・NPB)

ようやった!!!!!!!

 

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第5回九州西国霊場めぐり~いざ、熊本城へ

2021年11月12日 | 九州西国霊場

せっかく熊本に来たのだからと、熊本城を見物することにする。前回熊本に来たのが2012年のことで、2016年の熊本地震の前である。ちょうど天守閣の修復が進み、またコロナ禍の緊急事態宣言・まん延防止等重点措置が解除されたことを受けて、この10月からは中の特別公開も再開されている。

その前に昼食ということで、熊本ラーメンの「こむらさき」に入る。前夜の「桂花本店」に続いてのラーメンである。特に店にこだわっていたわけではないが、先ほど乗っていた市電に広告があったので・・まあ観光客向けなのかもしれないが。

堀の横を通り、加藤清正像に出る。甲冑に烏帽子姿で、熊本城をバックに行き交う人やクルマを見守っているように見える。

城内の一角に「桜の馬場 城彩苑」が広がる。これは新しくできたスポットのようだ。江戸時代の城下町をイメージした造りで、飲食店や土産物店が並ぶ。この一角に「わくわく座」というのがあり、天守閣との共通券も売っている。ここをのぞいてから天守閣に行くのがおすすめという。熊本城の歴史を映像やプロジェクションマッピングで紹介しており、中でも熊本地震の時、天守閣の瓦や石垣が崩れ落ちる様子を、模型に映像を流して再現する場面はなかなかリアルである。

さて、天守閣が公開といっても城全体で見ればまだまだ修復作業が続いており、見学ができるのは、特別に設けられた回廊などを通りながら限定された一角だけである。立入禁止のフェンスもあちこちに立っている。これはこれで独特の角度から城を眺めることができる。

天守閣の瓦や石垣が崩れた姿はニュースで大きく取り上げられたし、その復興した姿は地元の人たちに勇気を与えたし、それだけ熊本のシンボルといえるスポットだが、城全体が完全に元の姿を取り戻すのは2037年度という。

戦後に鉄筋コンクリートで建造されたものだし、国宝や重要文化財ではないので天守閣の修復にも特段の制約はなかったが、文化財に指定されている櫓などの建物は、解体して取り出した瓦や柱を可能な限り使用し、元の姿に戻す必要があるため、時間がかかるという。ましてや石垣となると大変だ。地震前のとおりに積み直さなければそれこそまた崩れるし、かといってこればかりはコンクリートで代用するわけにはいかない。

復旧にかなりの時間を要することになるが、それだけ当時の最高技術を投入した、堅固な造りの城だったことの現れである。石垣だけでなく天守閣に至る導線も複雑である。熊本城を築いた清正は鉄壁の守りを目指したわけだが、いざとなれば豊臣秀頼を迎えて徳川家康と一戦を交えようとしていたとか、朝鮮出兵の折に目にしたあちらの築城技術を取り入れたという背景があったようだ。

天守閣に入る。展示コーナーもすっかり変わっていて、こちらについては地震を機に全面リニューアルした・・と言っていいのではないだろうか。

清正の築城、細川氏の治世と展示は進むが、熊本城が実際の戦の場になったのは、徳川の治世が終わった明治になってから、西南戦争である。西郷隆盛率いる薩摩軍が、明治政府の鎮台が置かれていた熊本城を攻めた。鎮台の大将・谷干城は籠城を選択。薩摩軍は圧倒的な戦力で四方から攻撃を仕掛けるも落城させることができず、その間に政府からの援軍が到着して形勢逆転、そのまま薩摩まで押し戻された。西郷隆盛は退却時に「官軍ではなく清正公に負けた」と言ったそうだ。まあ、そう言われた清正としては複雑な気持ちかもしれないが・・。

最上階から四方を眺める。先ほど麓を歩いた金峰山、そして清正の廟所がある本妙寺も見える。

そのまま、通路に従って天守閣を出て、城を後にする。この後は広島に戻るだけだからもう少し熊本城をゆっくり見て回ってもいいのだが、ちょっと時間を気にして天守閣の中も急ぎ足だった。せっかく熊本に来たことと、移動当日に時刻表を見て当初の予定をガラッと変えた時に欲張りの行程を盛り込んだ。そして、熊本城は見学エリアが限られているとはいえ、城そのものが広かった。結果、時計を気にして天守閣を後にして、急いで荷物を取りに桜町バスターミナルに向かうことになった。

辛島町から満員の市電に乗り、熊本駅に到着。九州西国霊場めぐりで久しぶりに熊本に来たが、これまでは駅内の乗り換えばかりで、リニューアルされた駅舎を外から見るのは初めてである。デザイン、色使い、JR九州らしい面構えに見える。

欲張り・・というのは、これから帰りの新幹線までの間、もう一丁列車に乗ってみよう!というものだ。先ほどまで阿蘇、そして金峰山という山の景色に触れてきたが、熊本には海もある。その海を見るのと、ここにもJR九州ならではの列車が走るということで、これも久しぶりのあの線を訪ねることに・・・。

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第5回九州西国霊場めぐり~夏目漱石・草枕の道と加藤清正の御廟

2021年11月11日 | 九州西国霊場

九州西国霊場の第14番・雲巌寺の参詣を終え、バスの時間までかなり空いているので来た道を歩けるところまで歩いて戻ることにする。天気はよく、体を動かすと暑さすら感じられる。

まずは寺から先の集落を下って、先ほどバスを降りた先の県道に出る。その先には水車小屋があり、河内川のちょっとした渓谷も広がっている。ここから県道を歩いて熊本の市街地に戻ることになる。

先ほど下車した岩戸観音入口のバス停の手前に、鼓ヶ滝というのがある。滝から流れ落ちた水がポンポンと鼓のような音を立てることから付いた名前だというが、今ここで聞く限りではごく普通の滝である。

道は少しずつ上りとなる。淡々と歩く中で着いたのが、「金峰森の駅みちくさ館」。道の駅のように物販や食堂があるわけではないが、金峰山登山の拠点施設であり、地元の交流施設でもある。館内では何かのイベントの準備か、係の人たちが忙しく動いている。

ここでトイレを借りたのだが、その後に展示コーナーを見る。雲巌寺の近くということで宮本武蔵関連のものが並び、肖像画や五輪書、そして巌流島の決闘で使われた木刀が並ぶ。あれ?先ほども木刀を見たのだが・・こちらのものはきちんと「複製」と紹介されている。

敷地の横の田んぼでは子どもたちが稲刈り体験中である。先ほどの館内のイベントとも関係あるのかな。

この後もひたすら歩く。ちょうど総選挙当日(10月31日)ということで候補者のポスターも沿道に見える。その中で目立つのは、(今思えば写真を撮らなかったのが残念だが)自民党から立候補の野田毅氏である。これまで当選16回、大臣も歴任し、一時は自民党を出て他党にも移ったがまだまだ健在である。同じ熊本市内でも選挙区が分かれているが、ここの選出だったのね。まあ、今回も安定して当選するのだろう・・・。

「草枕の道」という立て札に出る。右手に見えるのが金峰山で、頂上にはアンテナも見える。神社もあるようで、熊本地震からの復旧復興を呼びかける看板も出ている。その中を、ダラダラとした上り坂が続く。クルマが結構行き交うが、両方向からスポーツサイクル姿も目に付く。熊本にあって恰好のトレーニング場なのかな。その中を歩くのだが・・・。

ダラダラ、ジワジワの上り坂の後でようやく「峠の茶屋」に着いた。往路のバス停にもあり、とりあえずここまで来れば後は下りということでホッとする。そしてここには「夏目漱石『草枕の道』」の案内板がある。先ほど現れた「草枕の道」である。

夏目漱石の「草枕」。私もまだ読んだことがないのだが、ここ熊本が舞台である。漱石が英語教師として熊本に一時赴任していた当時、熊本の市街から山道を歩き、現在の玉名市にある小天(おあま)温泉を訪ねた時のことがベースになっている。作品を読んだことがなくても、以下の冒頭の一説は、何かで見聞きしたことがあるぞという方もいらっしゃるのでは。

「山路を登りながら、こう考えた。智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。兎角に人の世は住みにくい・・・」

人づきあいというのは難しいものだ。かく言う私、その人づきあいというのもこのところめっきり薄くなり、次の新年あたりにはもう年賀状のやり取りというのは一切なくなりそうだが・・。

この先はなぜか歩道もなくなり、クルマや自転車が頻繁に行き交う中、車道をひたすら下る。「明治百年」を記念して整備された「くまもと自然保養林」の一角である。

やがて市街地も見下ろせるところに来た。雲巌寺を出てから1時間半以上経過している。

道路わきに、本妙寺方面の看板を見る。加藤清正像があるというので立ち寄るが、その像というのはここまでの下り坂に逆行するかのような上り階段。位置エネルギー返してくれ・・という気持ちもあったが、石段を上る。

その先に立つ加藤清正像。かなり老境に差し掛かった頃の姿をイメージしたと思うが、槍を手に堂々とした構えである。ここから熊本の町並みを見守っているかのようだ。

果たして展望が開けていて、熊本駅から市街地、そしてこの後訪ねる予定の熊本城の天守閣も見える。この眺望、バスに乗って帰ったのでは見ることはできなかった。宮本武蔵~夏目漱石~加藤清正と、思わぬ形で熊本ゆかりの偉人たちに少しずつではあるが接することができた徒歩行となった。

そのまま石段を下りると、本妙寺の境内に出た。日蓮宗の熱心な信徒であった清正が父の菩提を弔うために大坂に建てられた寺で、清正が肥後に移るのにともない、寺もこちらにやって来た。清正が亡くなると、遺言により熊本城の天守閣と同じ高さのこの浄正廟に祀られたという。

本妙寺じたいはこの一角に塔頭寺院を含めて広がっている。中央に多数の灯籠が並ぶ石段を下りつつ、かつての勢力の大きさを見て取る。

そのまま歩き続け、熊本市電の本妙寺入口電停に到着。時刻表上では、先ほど本妙寺を後にしたところで雲巌寺からのバスの時間となったが、遅れているのかやって来る様子もなかった。ちょうど電停に近づいたところでバスが来たが、もうここまで来れば無理にバスに乗ることもなく、行き帰りで少しでも変化をつける意味で市電に乗る。

ガタゴト揺られ、向かったのは繁華街の通町筋。それにしても、久しぶりに長く歩いたし、熊本市内で初めて訪ねることができたスポットにも出会えてよかった・・・。

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第5回九州西国霊場めぐり~第14番「雲巌寺」(宮本武蔵ゆかりの洞窟に読経が流れる)

2021年11月10日 | 九州西国霊場

11月10日、いよいよパ・リーグのクライマックスシリーズのファイナルステージが開幕した。優勝したバファローズとファーストステージを勝ち抜いたマリーンズとの対戦。レギュラーシーズンでも五分の戦いを繰り広げた両チームの健闘を楽しむところだ。

それにしても、バファローズ対マリーンズの対戦が全試合NHKーBSというのはよい。関西マスゴミはタイガースのことしか見ていないし、大阪朝日を筆頭に民放のBSも含めて、いまさら中継してほしくない。また一方でJ-SPORTSでバファローズ寄りの実況を聴くのもいいが(レギュラーシーズンは重宝してます)、個人的にあまり好きになれない某アナウンサーもいる。NHKで中継するのなら、そちらのほうが落ち着けるかなと。

中継も気になるが、ブログ記事がつかえているのも気になる。こちらも、少しずつ進める。

10月31日、衆議院総選挙、そしてハロウィンの当日に熊本にいる。期日前投票は済ませているので堂々としていればよく、帰りの新幹線の中で速報を見ることになるだろう。ホテルを出て、桜町バスターミナルの周辺を歩く。中心部が属する熊本1区は与野党一騎打ちの構図である。

バスターミナルのコインロッカーに荷物を預け、これから九州西国霊場の第14番・雲巌寺を目指す。高速バスや周辺各地への路線バスが発着するところで、結構大規模な建物だ。かつての熊本交通センターと「県民百貨店」だった建物を統合してリニューアルしたもので、初めて足を踏み入れる。広島バスセンターよりも立派?

7時45分発の河内温泉センター行きに乗る。市電と並走し、本妙寺入口で別れて山の方向に進む。地図を見ると山道を走り、金峰山(きんぽうざん)の北側を回り込むようなルートだ。峠の茶屋というバス停も通る。

30分ほどで、岩戸観音入口に到着。ここで下車する。これから目指す雲巌寺は岩戸観音という名前で知られているそうだ。案内ではバス停から徒歩20分ほどとある。

周囲の斜面にはみかん畑が広がる。その斜面を移動するためのモノレールの線路も見える。これからしばらく上り坂となる。

岩戸の里公園に出る。駐車場の奥に、マスクを着けた石像が座っている。これは宮本武蔵。傍らのベンチには「武蔵座禅場「人の道を学び、強く正しく生きる」の文字がある。「勝ち運を呼ぶ武蔵像」という名前で、NHK大河ドラマの記念で建てられたという。

武蔵は佐々木小次郎との巌流島の決闘を含めて六十余の勝負に負けず、晩年に肥後藩主の細川忠利の招きで肥後に移り、この地で有名な「五輪書」をしたためたとされる。この像は熊本城、そして故郷の岡山県大原の方角に向くように建てられたそうだ。

ここから園内の遊歩道を歩く形で、雲巌寺に到着。本堂の脇には金峰山から湧き出る水がある。手水の代わりにもなるし、先ほど上り坂を歩いた後で普通に飲んでも旨い。

これで一息つき、お堂の中に入ってのお勤めである。南北朝時代、元から渡ってきた禅僧の東陵永璵(とうりょうえいよ)により開かれた。もっとも、本尊の馬頭観音はそれよりも昔、行基によりこの奥の洞窟に祀られたとされる。

単に札所めぐり、本堂を訪ねるだけならこれで終わりだが、この寺の見どころ、来る意味はこの奥にあり、有料ゾーン、拝観料が必要である。受付を兼ねた納経所にてまず朱印もいただき、拝観料も一緒に納める。

建物の横には展示コーナーがある。武蔵が巌流島の決闘に使用したとされる木刀や、「五輪書」の写本などが展示されている。この木刀、確か舟に使う櫂を削ったものだというが、果たして本物なのかどうか。

この先には斜面に五百羅漢像が並ぶ。約200年前に熊本の商人が奉納した石仏だが、長年の風雨によるものか(熊本地震の影響があったのかどうか)、首が落ちているのも結構目立つ。

その奥に「二天一流」の碑がたち、見上げると洞窟がある。ここが、武蔵が籠り「五輪書」を著した霊巌洞である。洞窟の地形を利用した拝殿が設けられ、馬頭観音はこの奥に祀られている。

先ほど五百羅漢を抜けたところで、洞窟の中から読経の声が聞こえていた。祭礼でも行われているのかと階段を上がって洞窟の拝殿に至ると、地元の人らしい高齢女性が座ってずっと読経している。おそらく法華経だろうと勝手に想像する。こうした岩場だとお勤めというよりは修行に見える。私も邪魔にならないように、後ろに立ってもう一度般若心経のお勤めとする。

それにしても、洞窟といっても日の光が全く差さないわけでもないし、城下町から外れたところで手ごろな広さもあり、「神仏を尊びて神仏を頼らず」という信条の武蔵としても、落ち着くにはちょうどよい場所ではなかったのかなと思う。

さて、これで今回目的地としていた九州西国霊場の2ヶ所目のお参りが終了。帰りのバスだが、岩戸観音入口が11時31分発ということで、2時間以上待ち時間がある。落ち着くといいながらもここで2時間を待つつもりはない。まあ、前日に行程をがらりと変えた中でこの待ち時間が出るのはわかっていたが、どうするか。

それなら、どこかで乗るつもりで、来た道を歩いて戻ることにしようか。天気もいいし、歩いて歩けない距離ではない・・・。

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第5回九州西国霊場めぐり~熊本の夜は「料理天国」

2021年11月09日 | 九州西国霊場

阿蘇から熊本に戻るのに、いったん東の宮地に向かうことにする。13時40分発の宮地行きは、旧国鉄型車両でJRとなってから改造されたキハ140系。昔ながらの乗り心地を楽しみ、宮地に到着。

宮地ではしばらく折り返しの時間がある。結局阿蘇で昼食を取らなかったので、駅近くのコンビニまで出向いてなにがしか仕入れる。そこで見つけた一品に「南関(なんかん)あげ」というのがあった。県北の南関町で生まれた一品で、初めて見るのだが熊本のソウルフードの一つだという。コンビニに置かれるくらいだから、阿蘇でもよく食べられるのだろう。普通の油揚げと異なり長期の常温保存可能ということでそのまま買って帰り、自宅で刻んで味噌汁や鍋物に入れてみた。調理前はパリッとしていたが、出汁を吸うとふっくら、そしてジューシーな味わいだ。

早めに車内に入り、14時21分、肥後大津行きとして発車。車内はガラガラで、阿蘇から乗って来る客もごくわずか。昔ながらの気動車列車の風情で、カルデラを後にして立野のスイッチバックを下っていく。

立野では行き違い列車待ちのため10分あまり停車する。今は豊肥線も全線復旧しているが、立野からはもう1路線、南阿蘇鉄道という第三セクター鉄道が出ている。2016年の熊本地震で大きな被害を受け、現在は途中の中松から終点の高森までの部分運転である。トロッコ列車を走らせるなど観光客の誘致に努めているが、いかんせん立野からの区間が運休となれば厳しい状況には変わりないだろう。全線の運転再開は2023年夏の予定だという。今回、九州西国霊場めぐりにあたって南阿蘇鉄道の部分再開区間も訪ねようかと検討したのだが、結局見送った。またいつか訪ねてみたいものだ。

15時27分、肥後大津に到着。いったん改札を出てコインロッカーの荷物を取り出し、15時34分発の熊本行きに乗り継ぐ。再びロングシートの車両だが始発なので座っていく。

新水前寺に到着。復路は熊本まで戻らずここで下車し、市電に乗り換える。この日の宿泊は市街の中心部で、熊本に戻るよりも新水前寺で乗り換えたほうが早く着く。それにしても市電の利用客はこんなに多いのか、JRからの連絡通路の階段にも長い列ができている。そのまま揺られ、辛島町で下車。

この日の宿泊は「東横イン熊本新市街」。東横インチェーンに泊まるのも久しぶりだが、予約サイトにて割安プランを見つけたので予約した。翌日雲巌寺に向かうが、そのバスが出発する桜町バスターミナルにも近い。

まあ、部屋については全国共通の東横イン仕様で、その点は安定している。

時刻は17時を回り、外に出る。ホテルの周りは飲食店だらけで、どこに入ろうか迷うところだが、今回はある店に当たりをつけていた。

その名も「料理天国」。9年前、九州新幹線の乗車を兼ねて熊本に来た時、何の予備知識もなく入った店である。当時からは移転したようだが、熊本の郷土料理のあれこれを楽しむことができたし、今回もここに行こうと思っていた。グルメサイトで場所を見つけ、早速入店する。

まあ、店の名前である「料理天国」・・・かつてのテレビ番組にもあった。前回入った時もその名前に引かれて入ったようなものだった。芳村真理さん、西川きよしさんが司会で、番組の時間内にシェフが料理をこしらえ、元力士の龍虎さんが何でも「美味しいですね」といただく構成。子どもの頃、土曜日の夕方は料理天国~まんが日本昔ばなし~クイズダービー~全員集合だったかな。

やはり馬刺しからだろう。思い切って、赤身、霜降り、たてがみに加えてレバーも入る「特馬盛」を注文。白身に見えるこのたてがみが独特のコクがあるし、レバーもいただけるとは。

続いては辛子れんこん、人文字ぐるぐるである。辛子れんこんはよく知られているが、人文字ぐるぐるは初めてである。ネギ(またはワケギ)をぐるぐると巻いて酢味噌につけて食べるもので、居酒屋メニューのぬた料理に似ている。

さらにはサラダちくわ。ちくわの穴にポテトサラダを詰めて揚げたものだ。これは栄養価満点である。それにしても、これが熊本のB級グルメになったきっかけは何だろうか。またちくわが使われているとなると、瀬戸内の連中も黙っていないだろう。

入った時は私が口開け客だったが、その後次々と客が入って来る。私、一番乗りと一番乗りということで4人掛けのテーブルを占拠しているのだが、大丈夫かな。

締めには「幻の地鶏」とも呼ばれる「天草大王」の串盛り合わせ。歯ごたえあった。

「ふところを気にせず熊本の味を堪能」。ふところはそれなりにかかったが、さまざまな味を堪能させていただいた。

ただそれでも、まだ時間は早いので体に悪いといいつつも炭水化物を入れたい。ちょうど近くにあったのが、桂花ラーメンの本店。これも熊本名物、しっかりと味わった。

部屋に戻り、翌日に控えた衆議院総選挙を前にしたNHKの番組を見る。各党党首が選挙戦で全国各地を回る様子を取材したもの。まあこの番組がどれだけ投票行動に影響を及ぼすかだが、今回私は期日前投票も済ませていたし、ベッドに横になりながらボーッと眺めるだけである・・・。

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第5回九州西国霊場めぐり~第13番「西巌殿寺」(阿蘇信仰の波乱の歴史を伝える札所)

2021年11月08日 | 九州西国霊場

今回の九州西国霊場めぐりは阿蘇~熊本シリーズ。まずは中岳の噴火の影響で草千里での折り返しとなった阿蘇を訪ね、その帰りに第13番の西巌殿寺(さいがんでんじ)を訪ねる。

阿蘇への道に面して新しい山門が建ち、そこから境内に入る。もっとも本来の正門は別にあり、昔ながらの風情を残す。

西巌殿寺の歴史は奈良時代までさかのぼる。阿蘇は古くから中岳の噴火口を中心に信仰の対象になっていたが、天竺から日本に来ていた最栄読師が聖武天皇の勅命を受けて阿蘇に上り、健磐龍命(たけいわたつのみこと)を感得したという。この健磐龍命は現在の阿蘇神社の祭神である。最栄読師は火口の西の洞窟(巌殿=いわどの)に十一面観音を祀り、絶えず法華経を読んで修行したそうだ。寺の名前はそこから来ている。その後、多くの修行者や修行僧が最栄読師のもとに集まり、今では草原、牧草地が広がるばかりだが坊舎、宿坊が建ち並んだ。

しかし、戦国時代に島津氏と大友氏の争いが起こる。阿蘇神社の宮司でありこの地を治める阿蘇氏は大友氏の支配下ということで島津氏の攻撃対象となり、阿蘇山上の建物も焼き払われ、僧侶や修行者も難を逃れることになった。

やがて豊臣秀吉の天下統一とともに、肥後に加藤清正が入った。清正は阿蘇山上の本堂を復興させるとともに、逃れていた僧侶たちを呼び戻し、阿蘇の麓の黒川に坊舎を復興させた。これにより、元の地区は「古坊中」、黒川は「麓坊中」と呼ばれ、加藤氏の後の細川氏の時代にも保護された。境内には「学頭坊跡」の立て札も残されている。

明治になると神仏分離、廃仏毀釈のために西巌殿寺は廃寺となった。その後、阿蘇山上の本堂、本尊はこの学頭坊に移され、今ではここが西巌殿寺、そして阿蘇山上に再建されたお堂が奥の院となった。

さて、その西巌殿寺だが、石段を上って境内に上がるも建物がない。大きなイチョウの木と、役行者などを祀るお堂、そして石仏群があるだけである。2001年9月、不審火によりこちらの本堂が全焼してしまったという。跡地らしきところには礎石だけが残る。これを再建しようという動きはあるのかな。

さらに、これも後で西巌殿寺のホームページを見つけて知ったのだが、阿蘇山上に再建された奥の院のお堂は、2016年の熊本地震、さらにその後の噴火や台風で大きく損壊してしまったそうだ。現在、改修のための寄付を受け付けているとのことで、寺のルーツである阿蘇山上の復興を優先しているようだ。

前回の九州西国霊場めぐりでは、阿蘇神社とともに、阿蘇にあるもう一つの札所である青龍寺を訪ねた。阿蘇神社は熊本地震で大きな被害を受けたものの、古くからの歴史を受け継ぐスポットとして知られている。一方、青龍寺は神仏分離、廃仏毀釈を受けて個人宅に引き継がれているのが実態だ。阿蘇にある二つの札所、なかなか受難の歴史を歩んでいるようだ。

本坊に向かう。ちょうど、法事か供養で訪ねて来た方と一緒になり、寺の方が玄関に出てくる。本堂がない中で、仏様を拝むなら本坊の中の仏壇のようだが、札所という感じではない。朱印だけ所望する。

結局西巌殿寺ではお勤めをすることなく朱印を受け取ったが、先ほど草千里にて中岳に向かって般若心経を唱えたということで、元来の阿蘇信仰の疑似体験として勘弁してもらおう・・・。

寺を後にして、阿蘇駅に戻る。交差点にも「坊中」の名前があった。そういえば、阿蘇駅も豊肥線の開業当時は「坊中」という駅名で、1961年に現在の駅名になった。かつて、宮脇俊三が著作の中で、観光客誘致を目的とした安易な駅名変更として嘆いていた例の一つである。ただ、「坊中」という名前だとその由来についてこれだけ長々と説明する必要がある。宮脇俊三も、なぜここが「坊中」と呼ばれていたかという歴史まで知っていたかどうか。さすがに阿蘇駅でよかったのではないかと思う。

阿蘇駅に戻る。昼食がまだだが、この先の移動を考えると本格的な昼食ではなく、列車内で何かつまむ程度になりそうだ。熊本に行くなら13時39分発の特急「あそ4号」に間に合うが、そこまで急ぐものではなく、かといって駅周辺で過ごす時間も中途半端なので、13時40分発の鈍行でいったん宮地まで行くことにする。そして折り返しの列車で肥後大津まで向かう。やはりローカル線をのんびりたどってみたい。

ホームで待つうちにやって来たのは、旧国鉄型のキハ140系。これが宮地まで行くなら、折り返しもこの車両である。もっともローカル線らしい車両に乗ることができて一人ニンマリする・・・。

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第5回九州西国霊場めぐり~噴煙立ち昇る阿蘇へ

2021年11月07日 | 九州西国霊場

10月30日、特急「あそぼーい!」で阿蘇に到着。訪ねるのは九州西国霊場第13番の西巌殿寺、そして現在立ち入ることができるぎりぎりの草千里である。

駅に併設されたバスターミナルに、現在の時刻表が置かれている。10月20日の中岳の噴火の影響で入山規制が敷かれていて、路線バスも草千里阿蘇火山博物館までの折り返し運転となっている。次の発車は10時40分で、草千里着が11時06分。折り返しが12時20分発ということで、そのくらいの時間があれば見物には十分だろう。当初は阿蘇山上まで上がり、さらに火口まで行こうということから「熊本から阿蘇往復で1日がかりかな」と思っていたが、これなら13時前には阿蘇駅に戻ることができる。寺へは駅に戻ってから向かうことにして、先にバスに乗り込む。

やって来たのは外装、内装ともにくまモンがあしらわれた車両。乗ったのは私を含めて6人である。

バスは少しずつ高度を上げ、雄大な景色が広がる。車道の両側には牛、馬が放牧されているのも見える。牛のシルエットが描かれ「牛馬注意」と書かれた道路標識もある。クルマなら路肩に停めて牛馬を眺めるところだが、バスなのでそのまま走り抜ける。阿蘇あか牛、熊本馬刺し・・・こうした単語が頭の中を流れる。

阿蘇の草千里までは以前にも訪ねたことがあるが、途中こうした景色だったか。改めて新鮮なものに映る。

阿蘇の中心は「阿蘇五岳」と呼ばれる5つの山で、東から根子岳、高岳、中岳、烏帽子岳、杵島岳である。それらの山々を眺めつつ、車窓には米塚が現れる。私には大きめの古墳に映ったが、これも火山の一つである。

草千里阿蘇火山博物館に到着。駐車場の向こうに中岳の噴煙が見える。

駐車場の先までは行けるようで、観光客が歩いているのが見える。そちらは後で訪ねるとして、まずは目の前の博物館に入る。屋外にも過去の噴火の際に収集された火山弾が置かれている。私は地学方面には弱いのだが、この博物館、お好きな方にはたまらないスポットだろう。

館内には阿蘇の成り立ちや構造を紹介するコーナーが並ぶ。その中に、中岳の火口の様子をライブタイムで見ることができるコーナーがある。先に書いたように10月20日に中岳の噴火が起きたのだが、その瞬間を捉えた映像がスクリーン、さらに火口の模型にプロジェクションマッピングで流れる。かなりの迫力で、最後は火口カメラからの通信が途絶えたところで終了する。

この阿蘇は古くから山岳信仰の対象であり、かつてはここ草千里から阿蘇山上にかけて多くの坊舎、宿坊が建っていたという。「古坊中」と呼ばれる一帯である。現在は草原が広がるばかりで、そうした景色は想像しにくいが。

博物館の3階に展望スペースがある。駐車場越しに中岳の噴煙を望む。10月の噴火の時は、この辺りから撮られた映像がニュースでも流れていて「観光客は大丈夫か?」と心配の声が寄せられた。現在は噴煙というよりは蒸気が上がっているようだが、これも今ならではの景色である。

では、もう少し中岳に近づいてみる。車道には立入禁止の看板。この先の遊歩道に沿って歩く。今すぐにさらなる噴火が起きる確率は低いそうだが、一応規制下での動きである。

ちょうど中岳の上空には雲がかかっている。「これじゃ噴煙のいい写真が撮れない」とつぶやく人もいる。噴煙といっても見る分には水蒸気と変わらないから、雲と重なってしまうというところだろう。

そのたもとに阿蘇山上ターミナルがあるが、その横にあるのが、かつて古坊中の中心だった西巌殿寺の奥の院である。ふと、修験道の真似ではないが、あの中岳に向けて手を合わせたくなった。ちょうど経本も手元にあることだし、ここで般若心経のお勤めとする。

とりあえず落ち着いた様子の中岳を見ることができてよかった。そろそろバスの時間も近いし、博物館まで戻る。駐車場にはクルマが頻繁に出入りしており、数台連なった観光バスもやってきた。バスから降り立ったのは修学旅行生である。草千里にてクラスごとの記念撮影をした後、それぞれ散らばって弁当の昼食のようだ。中岳の噴火が起こった時には先生方、生徒たちも修学旅行がどうなるかヒヤヒヤしたかな。

12時20分のバスに乗ったのは阿蘇駅からと同じ顔触れ。先ほどと同じくカルデラ内の雄大な景色を眺め、高度を下げていく。途中までとはいえ、久しぶりの草千里の眺望を楽しむことができてまずは幸先よい。

この後西巌殿寺に向かうが、阿蘇駅まで戻らず手前のナショナルパークインフォメーションセンターで下車する。往路のバスに乗った時、草千里方面からだとこちらのほうが近いと思ったもので・・・。

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第5回九州西国霊場めぐり~特急「あそぼーい!」で阿蘇へ

2021年11月06日 | 九州西国霊場

10月30日、早朝の新幹線で熊本入りし、8時43分発の肥後大津行きに乗り込む。「スーパー早特きっぷ」の乗車券は熊本までだが、乗り継ぎ時間がわずかで券売機できっぷを買う時間がなかったので、ICカードをタッチして改札を抜ける。肥後大津まではICカードの有効区間である。

2両編成のロングシートの車内は部活動の生徒らを中心に混んでいた。その中で空席を見つけて着席する。そのまま熊本近郊を進むうち少しずつ下車があり、肥後大津に着く頃には空席が目立った。

9時16分、終点の肥後大津に到着。下車した客の中にはキャリーバッグを手にする人もちらほら見える。そういえば肥後大津は阿蘇くまもと空港の最寄り駅である。それにしても、熊本駅や中心街から直通のバスもあるだろうに、あえてここまで鉄道に乗るとは。案内を見ると、肥後大津からのバスである「空港ライナー」、なんと予約不要かつ無料で運行されているとのこと。空港までは15分かかるが、熊本駅から1時間、中心街の桜町バスターミナルからは50分かかるそうだから、豊肥線経由でも引けは取らないようだ。

空港ライナーが出る側の建物は大津町の案内所のもので、JRの窓口は構内の反対側にある。そこで急遽ネット予約を変更して確保した「あそぼーい!」の指定席特急券を受け取る。その前にいた客が「あそぼーい!」の空席を尋ねていたが、満席とのことだった。この「あそぼーい!」は全車指定席。よく、先ほど新幹線の中での思いつきで肥後大津からの空席が見つかったものだ。なお、阿蘇からの帰りもいったんここで改札を出ることにして、待合室で見つけたコインロッカーに宿泊用の荷物を預ける。

「あそぼーい!」は定刻の9時40分から5分ほど遅れて到着。指定席券を持っているのでその席に行けばいいのだが、隣の通路側の席にはすでに(同じようなタイミングで入手したと思われる)客が座っている。それは問題ないのだが、車内を回るのに立ったり座ったりでは気を遣う。幸い、車端にベンチ式のフリースペースがあり、窓も大きく眺望が効くのでここに陣取る。

この「あそぼーい!」だが、平日は「九州横断特急」として、オリジナル型のキハ183系で運行されている。温シーズンの土日祝日は全車指定の観光特急として、熊本~阿蘇~別府を結ぶ。この名前は、かつて豊肥線を走っていたSL列車「あそBOY」を受け継いだものである。車両はキハ183系の改造で、かつては「オランダ村特急」、「ゆふいんの森」、「シーボルト」などの名称で、長崎線や久大線などを走っていた。

外観の特徴は何と言ってもパノラマシート。こちらの席はネット予約では取り扱っておらず、JR九州の窓口での販売とのことである。

車内はJR九州の観光列車に共通するいわゆる「水戸岡デザイン」である。「あそぼーい!」には黒犬をモチーフにした「くろちゃん」というマスコットキャラクターが車内のあちこちにあしらわれている。阿蘇を流れる白川水系の黒川(ややこしいな)の近くで生まれたという設定でつけられた名前だという。阿蘇の駅舎が黒く塗られたのも「くろちゃん」に合わせてのことかな・・?

その「くろちゃん」の名前をつけた「白いくろちゃんシート」(小さな子ども連れを前提とした造りの座席)や「くろカフェ」というのもあるし、子どもたちが遊べるスペースもある。この日も家族連れの乗客が目立ち、そりゃ満席になるのもうなずける。

車内を一回りする間に高度を上げ、立野に到着。しばらく停車した後、三段式スイッチバックで上っていく。アテンダントからスイッチバックの紹介のアナウンスが入る。

この後は阿蘇の外輪山、そして阿蘇五岳の景色を眺める。この時点では、阿蘇中岳が噴火した様子というのは全く分からなかった。

10時25分、阿蘇に到着。40分あまりの乗車だったが、観光列車の雰囲気を楽しむことができた。阿蘇でしばらく停車することもあり、ホームでは撮影の一時となった。阿蘇で下車した人は思ったより少なく、多くは九州を横断して、大分、別府まで乗るようだ。

さて、阿蘇にやって来た。目指す札所の西巌殿寺は駅から歩いて10分ほどのところにある。一方で、噴火の影響で火口および奥の院には行けないにしても、草千里折り返し運転のバスの時間も気になる。さて、どうしようか・・・。

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第5回九州西国霊場めぐり~熊本行きプランは二転三転

2021年11月05日 | 九州西国霊場

九州西国霊場めぐりも第5回。今回は阿蘇、熊本編で、県内に3ヶ所しか札所がないので早くも熊本県は終了となる(中国四十九薬師めぐりよりサクサク進んでいる・・)。

今回目指すのは第13番・西巌殿寺(さいがんでんじ)と第14番・雲巌寺(うんがんじ)の2ヶ所である。出かけるのは10月30日~31日としたが、その31日は総選挙ということになった。こちらは期日前投票で対応することに。

順番で行けば阿蘇にある西巌殿寺から回るところだが、計画をいろいろ考えていた。今回はレンタカーを使わず、鉄道とバスだけで回るつもりだが、やはり阿蘇ではそれなりに時間がほしい。というのも、西巌殿寺の奥の院は阿蘇山上のバス停、ロープウェー乗り場にあり、またそこまで行くなら火口も見物したいということがあった。一方、熊本の郊外にある雲巌寺へはバスで行くことができるが、本数が限られている。バス停から徒歩の時間を考えると直後の折り返し便に乗るのは難しく、その次となると2~3時間は待つことになる。そして、熊本といえば地震からの修復作業が進む熊本城にはぜひ行ってみたい。天守閣の公開も再開されている。また、熊本に行くなら馬刺しで一献といきたいものである。

いずれにせよ広島~熊本は新幹線で往復するとして、早くに「スーパー早特きっぷ」を購入。その後だが、まず30日は熊本到着後にまず熊本城を見物し、12時すぎのバスで先に雲巌寺に向かうことにした。その便だと、現地での折り返し時間が1時間半と手頃だった。バスで市街に戻りそのまま宿泊。そして31日は阿蘇の火口まで往復し、夕方の特急「あそぼーい!」で熊本に戻り、新幹線に乗ることにする。

そんな中10月20日、阿蘇山の中岳が噴火した。これには驚いた。幸い、人的被害はなく、阿蘇の町も特に影響はなかった。ただし阿蘇の入山規制のレベルが引き上げられ、火口はもちろんだが阿蘇山上のロープウェー乗り場にも行くことができなくなった。路線バスは草千里までの折り返し運転という。この状況での出発である・・。

10月30日、広島6時43分発の「さくら401号」に乗車。この週末、両日晴天に恵まれるとのことである。山陽新幹線の区間はガラガラだったが、博多からそこそこの乗客がある。博多から熊本までは40分弱、近くなったものである。

その40分弱の間、この先のルートをいろいろ考えなおしていた。先に熊本城、雲巌寺を訪ねる予定だったが、噴火の影響で火口に行けないのなら、札所順に阿蘇の西巌殿寺を訪ねて、熊本城、雲巌寺は翌日に、さらに思い立って別のスポットへ・・・ということが頭に浮かんだ。

「さくら401号」の熊本着は8時36分。その先、阿蘇に先着するのは熊本発9時06分発の「あそぼーい!」である。その後の鈍行だと阿蘇に着くのが12時前で、その後の行程も遅れる。ということでスマホでJR九州のサイトに入り、事前予約していた31日の阿蘇から熊本への「あそぼーい!」の指定席を変更しようとするが、満席。

ただふと思い、乗車駅を途中の肥後大津にしてみた。すると若干数の空席があった。とりあえず阿蘇まで行ければいいので即決で変更する。実は「あそぼーい!」の前に熊本発8時43分の肥後大津行きがあり、これで肥後大津まで行って「あそぼーい!」を出迎えることができる(さっきからあそぼーい!、あそぼーい!ってうるさいのだが・・・)。これで、1日目と2日目の行き先が一気に入れ替わった。

熊本到着。時間的に駅の券売機で指定席の引き換えはできず、肥後大津にも窓口があるのでとりあえず鈍行で向かうことに・・・。

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第19番「毘沙門堂」~広島新四国八十八ヶ所めぐり(ご朱印はカフェにて)

2021年11月04日 | 広島新四国八十八ヶ所

広島新四国の次の行き先は第19番の毘沙門堂である。広島市街地から見てちょうど北に毘沙門台という町名があるが、まさに北の守り本尊と言っていいだろう。実はこの毘沙門堂を訪ねるのは初めてのことだ。

前回の翌日である10月24日、またも可部線に乗り大町で下車。1994年のアストラムラインの開業に合わせて接続駅として開業した駅だ。この乗り換え需要もあり、可部線の中でも利用客が多い駅である。現在は新白島でもアストラムライン~山陽線の乗り換えができるが。

アストラムラインの1駅先に毘沙門台駅があるが、毘沙門堂へは大町駅から毘沙門台の住宅地へ行くバスが便利なようだ。毘沙門堂の山門前に毘沙門天というバス停もあるが、そちらの系統は本数が少なく、帰りに時間が合えばという程度で頭に入れておく。

バスは県道沿いに走る。その道路沿いに「毘沙門天参道」の大きな看板がある。見たところ細い道なのだが、古くからの参道なのだろう。そういえば、広島新四国のサイト等で案内を見ると、バスではなく駅からの徒歩(周辺駅から35~40分)としたものが多く、この参道を上るのが正規のルートなのかなと思わせる。

バスは住宅地の中に入る。一戸建てが並ぶ広々としたところだ。このバスは毘沙門堂には行かないのでどこか適当な停留所で降りる必要があるが、結局終点手前の毘沙門台で下車する。ちょうどアストラムライン沿いに開けた一帯を見下ろすことができる。

そのまま住宅地の中を歩き、毘沙門堂の山門に着く。朱塗りの仁王像が出迎える。最近塗り直されたものと見えて色鮮やかだ。

ここから石段、コンクリートが並走する上り坂となる。この参道は標高397メートルの権現山の登山道にもなっているるそうで、ハイキング姿の人ともちょくちょくすれ違う。

石段の途中にはさまざまな石像が並ぶ。狛犬の代わりに、毘沙門天と縁が深いとされる虎が参道の両側に立つ。また布袋、大国、恵比寿・・といった七福神も並ぶ。その最も奥に祀られるのが本尊毘沙門天ということで、これも一つの演出だろう。結構急な上りが続くが、こうした石像を見ながら進むとそこまで疲れは感じない。

最後は長い階段となり、一対の虎に出迎えられる形で本堂の前に出る。本堂も新しい建物に見えるが、2014年に広島で発生した豪雨災害で大きな被害を受け、2年の期間を経て修復されたものだという。2014年の豪雨といえば、安佐南区の八木地区や緑井地区を中心に多くの犠牲者が出た災害。その後に広島を訪ね、被災から復興しつつある姿を見たことも覚えている。その修復を記念して奉納された額もある。

この毘沙門堂は、平安時代の中頃、教尊という修行僧が行基菩薩の作とされる毘沙門像を祀ったのが始まりとされる。また鎌倉時代になると、当地を支配していた武田氏が毘沙門天を信仰していて、武田山に銀山城(かなやまじょう)を築いた際に、北の守護として願成寺を建てた。後に毛利輝元が広島城を築城した際、願成寺は広島市街に移ったが、毘沙門堂、仁王門他はそのまま残された。広島城から見ても北の方面を守る多聞天~毘沙門天という歴史は受け継がれることになった。

本堂にてお勤めとする。この本尊毘沙門天は年に一度、旧暦の初寅の日とその前夜だけ開帳されるそうで、その時は途中の参道にも店が並び賑わいを見せるそうだ。そういう行事が行われていたとは初めて知った。いや、就職して広島に配属されて丸8年住んでいたが、やはり知らないことだらけである。この歳になって新たに知ることが多いのはうれしいことなのだが・・。

そして朱印だが・・納経所を見ても無人の様子。まあ、納経所が無人なのはこれまでにもあったことで別に驚かないが、例の朱印の紙を収めた箱が見当たらない。

これはどうしたものかともう一度本堂に戻ると、柱にこんな札が貼られていた。朱印については、「カフェKoBoo」にて取り扱うとある。地図を見ると先ほどバスで通った、参道入口の看板があったあたりである。寺とは全く別のところに朱印があるというのは初めてのケースだ。これは参道を歩いて下りて、そのカフェに行くしかない。

その前に、多宝塔まで上ることにする。先ほど毘沙門台の住宅地から見えていた建物で、そこからの眺めがよさそうだ。山道を登ること数分で到着する。

多宝塔は原爆の犠牲者を供養するため、浄財が寄せられて1984年に建てられた。オープンな造りで、「慰霊」の文字とともに、坂村真民の「念ずれば花ひらく」の揮毫が刻まれている。2階には四天王、そして最上階には大日如来が祀られている。

ここからの眺めがすばらしい。先ほどのアストラムライン沿いだけでなく、広島市街地、さらには沖合の島々も眺めることができる。それこそ、北の方角から広島市街を護るスポットとしてふさわしい。またこの眺望、夜景や日の出のスポットとしてもよいのではないだろうか(ただし、夜は足元が真っ暗だろうが)。

多宝塔から直接山門まで下りる道をたどるが、険しい岩場である。逆にこちらから上ると結構ハードなように感じられた。

さて、せっかくなので「納経所があるカフェ」まで歩くことにするか。幸い下り一方なので気分的には楽である。この辺りは広島市内といっても昔ながらの田畑と新興住宅がごっちゃになっているところで、ちょっとした里山散策という風情を楽しむ。20分あまりで参道の入口に到達した。

そしてやってきた「カフェKoBoo」。ちなみに読み方は「コブー」である。ただ毘沙門堂で貼り札を見た時、私は「コーボー」と読んでいた。弘法大師像もあり真言宗の毘沙門堂なので、カフェも「弘法」なのかと。

ちょうどランチタイム。ドアを開けると当然カフェの客として迎えられるのだが、「毘沙門堂のご朱印を・・」というと、店員さんはちょっと困ったような顔をする。書き置きの紙を渡してくれればいいのだが、今立て込んでいるということで、逆にカウンターに案内される。レジに書き置きがあるわけではなく、目の前でランチメニューの調理をこなしているマスターが墨書をするのだという。だとしたら、忙しいところに勝手にお邪魔したようだ。

ランチメニューも一通りさばけたようで、ちょっと奥に引っ込んでいたマスターがわざわざカウンターまで来て朱印の紙を渡してくれる。かえって恐縮する。普段カフェに入らないのでそのまま店を出たが、そこまでしてくれるならここでランチをいただいてもよかったかなと思う。

後で知ったところでは、毘沙門堂にはそもそも住職がいないそうで、こちら毘沙門通りの人たちが管理していて、祭の時も事前の準備、当日の運営、後片付けも行っているとのこと。そしてここのマスターは毘沙門通り商店街の総代を務めていて、朱印の対応も行っているそうだ。珍スポットというわけではないが、ごくたまにテレビの取材も来るとのこと。

毘沙門堂がこうして町の人に支えられていることを知ってよかった。

で、カフェで取らなかったランチをどこで取るか。近くにお好み焼の店があるが、それより目を引いたのが同じ敷地にある「無敵ギョーザ」。同じ系列店のようだ。餃子でビールというのもいいだろう。

開業してまだ新しい店のようで、定食メニューに小ぶりな餃子のセットを注文。そして何よりもビール。「無敵箱」と呼ばれる箱の中にはさまざまな調味料が入っている。これらを自由に組み合わせてオリジナルのたれを作るのである。餃子が小ぶりな分、同じ1人前、さらにもう1人前でもさまざまな味を楽しむことができた。テイクアウトも人気の店のようだ。

いい心持ちになり、そのまま緑井駅まで歩く。駅は小ぶりだが、駅周辺には大型店舗も並び、安佐南区の中でも多くの人が集まるスポットである。衆議院総選挙の候補者の演説も頻繁に行われるところでテレビにも出てくる。ちょうどこの時、広島3区に立候補した無所属候補が演説をしていた。もっとも、演説と言っても誰かに聞かそう、聴いてもらおうというものではなく、自分の主張をのべつ幕なしにしゃべるだけのもの。これでは内容は入ってこないし、事実足を停めて聴こうという人の姿は見えなかった。結果については・・・言わずもがな。

これで2回にわたった安佐南区もいったん終了。次からは市街地の北部、安佐北区へと入っていく・・・。

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第18番「薬師寺」~広島新四国八十八ヶ所めぐり(ここにも薬師寺)

2021年11月02日 | 広島新四国八十八ヶ所

この前の記事は、安佐南区の大師堂に行っただけなのに総選挙の話やら何やらでごっちゃになったので、今回はあっさり済ませようか。

国道183号線の西原からバスに乗り、ロードサイドの店舗が並ぶ沿道を眺めつつ、古市小学校前で下車。次に目指すのは第18番の薬師寺である。こうした広島の街中(歴史的には新たにベッドタウンとして開かれた地だが)にも薬師寺があるとは。

少し歩くと安佐南区役所がある。前の記事でも触れたが、この時は総選挙の運動期間中であり、期日前投票の期間中でもある。区役所が期日前投票場になっていることもあり、駐車場には多くのクルマが出入りしていた。

薬師寺は区役所のすぐ近くにあった。こちらもコンクリート造の建物である。本堂は階段を上がった2階にあるという。

ここ薬師寺の山号は松原山というが、神武天皇の東征の時にこの地から渡海したそうで(当時はこの辺りまで海岸線が来ていたのかな)、一帯の海辺を松原と呼んだそうだ。もっとも、この薬師寺の開創は明治時代と新しく、出雲の一畑薬師から本尊を勧請したという。また、同じく祀られている聖観音像は原爆に遭った白神社にあった楠から彫られたものだそうだ。

2階の扉を開けると、先ほどまで法要があったようでご高齢の住職が座布団を片付けているところだった。それでも招じ入れられ、お勤めとする。その間、住職が本尊の脇に腰かけてじっとこちらの様子をうかがっている。いや、プロの僧侶に見つめられると緊張してしまう。一通りお経を唱えた後で、目の前にあった箱から書置き式の朱印をいただく。「巡拝ですか?」と訊かれてうなずくのが精一杯だった。

これで夕刻に近づいたこともあり、この日はここで終了。しばらく歩いて、可部線の古市橋駅に出る。この一帯の「古市」という地名は、古来から人や物が行き交い、市が立ったことから生まれたもので全国各地に見られる。ここの古市は、広島と出雲・石見を結ぶ街道沿いにあったところだ。

可部線についても少しずつ乗り降りするところ。

なぜか最後は、帰りの横川で遭遇したキハ40、キハ47の新山口への回送列車。芸備線を走るこれらの車両、メンテナンスのために定期的に新山口に送られる。勝手なものだが、こうした回送列車に遭遇するとラッキーな気持ちになるもので・・・。

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第17番「大師堂」~広島新四国八十八ヶ所めぐり(長束のお大師さん・・・総選挙と絡めます)

2021年11月01日 | 広島新四国八十八ヶ所

10月31日に行われた総選挙の結果。自民党は議席を減らしたものの、それでも単独過半数を通り越して絶対安定多数を維持。一方野党は野党共闘で挑んだものの、立憲民主党、共産党が議席を減らすなど伸びなかった。とりあえず、これで岸田政権は最初の関門を抜けたということで、腰を据えて政策実現に向けて取り組んでもらいたいものだ。

今回特徴的だったのが、大物、ベテラン議員の落選で(比例復活もあったが)、有権者もシビアな目で見るようになったのかなと思う。自民の甘利幹事長も小選挙区で落選して辞表を出す羽目になった。

ただその中で日本維新の会が新たな選択肢として勢力を伸ばす形となり、れいわ新選組も新たな議席を確保した。自民、立憲共産以外の受け皿になったといえる。自分の選挙区に候補者がいなくても、比例で意思表示を示すことができる(私も比例は維新に一票・・)。比例の復活当選の仕組みにはさまざまな不満の声もあるが、比例の制度そのものはあってよいと思う。

それにしても、これだけあれこれ言われても、投票率は結局55%くらいということで、伸びませんでしたな。これが今の政治への評価なのだろう。投票しないのなら、その権利を私に譲ってくらいたいものだった(法律上無理だけど)。

で、広島県はというと・・まあ7区とも事前の予想通りの結果になったのではないか。6区はいつも自民と立憲が競るが、今回も立憲が勝利。そして政治とカネの問題で自民が辞職した3区では、その後釜に公明が比例からの鞍替えで立候補した。今年の参議院再選挙では立憲が勝利した後だけにどうなるかとも思ったが、結局は公明の勝利。まあ、個人的にはこれでよかったのかどうかモヤッとするのだが。

・・さて、前置きが長くなったが、広島新四国八十八ヶ所の続きである。訪ねたのは9月23日で、その前に区役所にて期日前投票を行ってのことである。広電で横川まで出て、可部線に乗車。この札所めぐりで初めて安佐南区に入り、横川から2駅目の安芸長束で下車する。

私にとっては広島でもこの辺りは懐かしいところで、以前の広島勤務時だがもう20年以上前のこと、一時この地区にある営業所に勤務していたことがある。安佐南区、安佐北区が主な担当範囲で、昔ながらの狭い町並みと、新たに山の麓に開かれた住宅地も回っていたものだ。

駅から歩いて勤務していたあたりをぶらついてみたが当時の面影は残っておらず、新たにマンションやスーパーが建ち並んでいた。まあ、そうした開発のために営業所が閉鎖され、別のところに異動になったのだが・・。

そんな中、選挙前ということで掲示板が並ぶ(序盤に選挙結果も含めて長々と書いたのがようやくつながる)。県内でもっとも立候補者の顔ぶれがカオスだったのがこの選挙区で、公明、立憲のほかに維新、NHK党、無所属2名である(無所属の2名は、今年の参議院再選挙にも出馬していた)。他の5人の得票数をすべて足しても公明に及ばなかったということで、まあ公明として、現職の国道交通大臣として面目を保ったのではないか。

今回向かうのは、第17番となる長束の大師堂である。大師橋という橋もあるし、町名では長束西だが「大師が丘」という町内会もある。

その入口に建つのが大師堂。見た目は寺にも見えるし、普通の住宅にも見える。

正面の掲示板にはいろいろ掲げられていて、「力だけで生きない、力を使うならば『努力』」、「ありがとう 素直に言える心 『善の心』」などある中で、「8月に短髪小太りTシャツに黒っぽいズボンの中年男性が御供物を盗みました。犯罪です。防犯カメラにて全て撮影されてます」とある。その特徴から一瞬ドキッとするが・・・いや、私はその時間、ここには来ておらんぞ。それにしても、御供物を盗むって一体・・・?

建物の2階が拝観ということで上がり、同じく「御供物を盗みました~」の貼り紙がある扉を開けると、中に住職がいた。何かの片付けの最中だったようだが、どうぞお参りと招かれる。二言三言話をして、お接待か、お下がりのペットボトルのお茶をいただく。では、ということで住職が出た後で、お勤めとする。いや、御供物には手をつけませんよ。

この大師堂の起こりは江戸末期だという。ここ長束の里に常誓という僧が旅の途中に立ち寄った。幕末の混乱の中、作物の不作や疫病で人々が困窮していたところ、常誓は村を回って疫病退散を祈願して回った。人々がその徳を慕ってお堂を建てたのが大師堂である。当時の人たちは常誓にかつての弘法大師を感じたのだろう。

境内は小ぢんまりとしているが、四国八十八ヶ所のお砂踏みもあれば、不動明王も祀られている。ここから先の山の手は新しく住宅地や学校が広がったところだが、昔から長束の地を見守っていたことだろう。

これで第17番を終えて、次も同じ安佐南区である。可部線で行ってもいいのだが、変化をつけるために国道183号線沿い(勤務当時は国道54号線だったなあ)まで歩いて、バスで移動することに・・・。

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