ぬまゆさんというハンドルネームでブログを書かれている沼内恵美子のインタビューの内容を、かいつまんで文字起こししました。
インタビュアーは岩上氏。
南相馬市に暮らす沼内恵美子さん、42才。
18年間高校で教鞭をとり、3年ほど前に引退。自宅で塾を経営している。
ご主人と2人暮らしで、ペットをたくさん飼っている。
『住んでいる地区には、支え合う文化が根強く存在している。
なにかしてもらったら手間返し。
お互いに気を遣わない。
今回は助けてあげるから、次回はお願いね、という独特の考え方。
特に南相馬市というのは、そういうものが強く残っている。
避難しなかった理由→遅いと思った。
政府の記者会見までの間に、最低1週間あった。
24時間以内にヨウ素剤を飲まなければならなかった。
そういう状態なのにこの発表の遅さ。
もし被曝しているんであれば、最初の1週間でもうだめだろうと思った。あとは低線量でだらだらといくだけだから。
そんな時にベント作業があり、水素爆発があり、核爆発があった。
どうせだめなら、なんとか生かす方法で身体を使えないか、と思い、残ることにした。
何かがあったらデータをとる。
ほんの些細な事でもメモをとる。これがブログを書き始めた理由。
ベント作業が行われた時、乱気流で風が吹き荒れていた。
じたばたしても始まらない、と静かに思った。
『風の吹くころ』という絵本を読んだ。
なんらかの健康障害が起こると思っていたが、ここまで早く出てくるとは思っていなかった。
政府の言う通りにしていたらいったい身体がどうなるか、ということを残していくのがわたしにできるささやかな抵抗だった。
だからそのままきた。言われる通りにした。
避難するするしないを決めたのは、郷土愛とか、そういうことだけではない。
実家の弟家族は、小さな子供が3人(小学生と中学生)いるので名古屋に逃がした。
こんなことを言うと不謹慎かもしれないが、日本政府の対応が、もうこれは真っ赤なウソだろうという、疑心暗鬼を超えていたので、
だったら実験代になって、どうせいつか人間は死ぬのだから、どういう死に方をするにせよ、そしたらこういう結果になりましたと、
そういうことで血液検査を6月に受けた。6月に受けた時には炎症反応が出た。
体調の変化が出るだろうな、という予感は若干はあった。
遅かれ早かれ、チェルノブイリでもあったように、何年後かには体調の変化は出るだろうと思っていた。
ただ、こんなに早くいろんなことが出るとは全く思っていなかったので、最初は理由がわからない、お医者さんも原因がわからない、
とういうことで、経過観察ということになった。
体調の異変を感じ始めたのは、下痢があったこと。
夏に、大量の、ものすごい勢いで、ハンパ無く、固形物を食べているのに、お腹も痛くないのに、水道の蛇口をひねったように出た。
まさかこういうことになるとは思わなかったので記録していないが、確か記憶では、6月から8月の2ヶ月間ぐらい。
本格的におかしいと思ったのは、8月13日、手にしびれが走ったこと。
少しずつなのだが広がっていく。でもそれがいつの間にか消える。
左手の中指、薬指、小指から手のひらにかけてしびれた状態。
痛くて、ギターの弦が触れなかった。キーボードも、残りの2本(親指と人差し指)で弾いていた。
医者は、通常、その3本の指にそれほどの強いしびれがあった場合、腕から首にかけての感覚神経にも影響し、痛くて動かせないはずだと言う。
けれども、強烈なしびれ以外、どこにも痛みは感じられなかった。
なので、原因不明ということで、経過観察ということになった。
医者に受診したのは、手のしびれから。
下痢の時は、悪い物を食べたぐらいに思っていたので受けなかった。
手のしびれは1ヶ月半ぐらいで突然消えた。
医者はもともとは総合病院の外科を担当していた。なのでリハビリにも内科にも詳しい。
わからないものはわからないと言ってくれる人。
特発性なんとか、などという病名をつける人ではなく信用している。
8月中旬、あごの両側に痛みが始まった。
口も開けられない、いてもたっても居られない程の痛み。
痛み止めと座薬をもらった。
座薬を入れても痛みは完全に消えなかった。
その時は歯の問題だとは思っていなかった。
ところが、痛みがだんだん、あごの付け根から歯茎全体に広がってきた。
強力な痛み止めを飲んでも3時間しかもたない、と記録したのは8月18日。
炎症反応があるのかと思っていた頃、8月25日に血液検査の結果が出た。
CRPが平常よりも高かった(0.531)。
けれどもその炎症がどこにあるかわからない→経過観察。
手のひらから5本の指まで異常にしびれてきた。
この頃から、自分の体調は変だと書き始めた。
政府批判的なブログを書き始めたが、それがまさか自分の体調日記になるとは思ってもいなかった。
9月は、痛み以外に変化が無かった。
10月12日、上下3本の奥歯がポロッと取れた。
これは尋常ではないなと思った。
前歯もぐらぐらとしてきた。
飴かなにかを食べた拍子に折れた。
痛み止めを内科の医者にもらった。
自然に4本無くなっていた。食べた時に呑み込んでしまったかもしれない。
見た目健康な歯でも、痛くて目も開けられない。
顔も浮腫んできたので、無理矢理頼んで抜いてもらった。
セラミックの歯以外は、どの歯もいつポロッといくかわからない。
合計8本失った。
内科の医師に、入れ歯にした方がいいよと勧められ、歯科医に頼んだが、健康な歯をどうしても抜きたくないと、断られた。
歯はもともと頑丈で健康だった。
虫歯になった時ぐらいしか歯医者には行かなかった。
原発事故の2週間前に、虫歯の治療が終わり完治していた。
カルシウムがまさか摂取できなくなってしまったか?と思った。
前歯下が斜めに欠けてきている。
その頃でも、放射能のことはよぎってはいたが、まさかこんな早いはずはないと思っていた。
10月20日、夜寝る前はなんともなかった右手の肘から手首にかけて、いきなり膿包ができていた。
痛みもかゆみも無かった。
昼にできた時は、膿包の中の薄い黄色い体液は、消毒した針で突いて出していくしかなかった。
最初赤くなり、一時間も経たないうちに膿包ができ、そこに体液がじわじわとわいてくる。
2~30分の間のこと。
手足合計3カ所。つぶして軟膏を塗る。これを繰り返しながら経過観察。
いろんな病院を回るより、信頼できるかかりつけの医者に診てもらうことを選んだ。
検査の結果、細菌感染では無いことがわかった。
次に出てきた症状は怠さ。3日間動けなかった。
身体中がだるくて3日間動けなかった。それが10月22日。
起きているだけでもしんどいので、睡眠薬をもらって3日間寝た。
そのあと、10月26日に、体温の上昇がみられた。
平常35.3度ぐらいが37度が出た。
血圧も非常に高かった。平常時最高が90~100、最低が50~60なのに、93~142だった。
発熱が続いていた。不思議なことに寒くなかった。自分だけが汗をかいていた。
10月28日、左足大腿部が痛み出した。
なんかもう一気にきた。
11月9日、怠い。倦怠感で目が開けられない。それがずっと続いた。
その間にも水泡ができたりしていた。
9月以降はもうだめ。完全にいっちゃっていた。
11月あたりから脱毛に気づいていた。排水溝にすごい量の髪の毛がたまるようになった。
11月3日に、後ろから見ていた姪に「おばちゃん剥げてるよ」と言われた。
つむじの少し下にハゲができていた。
11月6日には倦怠感がかなり強くなり、座っていられなかったので、睡眠薬を処方してもらい眠った。
12月は、すさまじい倦怠感。しんどい、という状態。
なにもかもが全部きたという感じ。
左手親指の少し下の、浅く小さい切り傷痕から、いきなり出血した。
いったん閉じた傷で、一晩経っていて、しかも浅い小さな傷だった。つけていた絆創膏も外した後のことだった。
絨毯にもポタポタ落ちていた。
しかし原因がわからないので、様子を見ている。
長い髪の毛だったが、結い上げようとしても隙間が見えてしまうようになった。
風呂の排水溝に抜けた毛がダーッとたまった。
風呂上がりに足に違和感を感じてみたら、親指の爪が直角に欠けていた。
横の指の爪も,付け根の一角を除いてボロッと取れた。
爪の付け根がふわりと浮いていた。
まさか湯上がりに爪が外れるなんていう経験は無かったので、本当にびっくりした。
髪の毛は最初は3センチに切った。モンチッチみたいに。
それでも抜けて抜けてしょうがないので、坊主にした。
密集していなければならないところの髪が、全体的に地肌が見えてきている。
後ろの円形脱毛症はだんだん生えてきた。
それが全部放射能とかに関連づけるようなことはブログに一切書いていない。
それはわからないんだからわからない。わからないんだから個人が決めつけることではない。
いろんなデーターを残して、採血の医療データやどうにもならない症状をどんどん残していくことで、ある一定のサイクルというのが見えてくる。
あるいはサイクルではなく、どんどん悪くなる一方かもしれないが、
自分は120才まで生きるつもりでいて、マイナス思考は全くない。
次は何が出てくるのかな、という興味がある。
毎日、今日も無事に朝を迎えたなと思いながら生きている。
正月の朝、主人がトイレから叫びながら走って来た。「おちょこ一杯分の鼻血が一気に出た」と言った。
一気に出て一気に消える、気持ちの悪い出方。
なんともいえないが、彼は鼻血が出るようなタイプではなかった。
子供が鼻血を出すというコメントが多かったのだが、鼻血を出すのは子供だけではないのか?と思った。
甲状腺ホルモンの低下がある。
のんびりと経過を観察していく、という考えでいる。
高校時代からの親友が12月31日に来た。ウィッグを被っていた。
10月9日に会った時には、ちゃんと自分の髪の毛を結っていた。
42才の健康な女性が、バーコードの50代の男性の頭髪のような状態になっていた。
彼女とご主人も、だるくて仕方がないと言っていた。
倦怠感が全然抜けず、家事をする気にもならない。
最終的に思うには、日本の医学で原因がわからないという以上、特に被曝とか放射能ということに偏った考え方を持っているわけでは決してない。
もしも同じような症状の方がいらしたら、ということで、ブログで呼びかけてみたら結構な反響があった。
わたしも、わたしも、わたしも……東京とか神奈川とかいろいろあった。
300キロという想像は外れてなかったかなと思う。
経過観察をしながら体調を記していったものがブログになった』
******* ******* *******
以上の症状をまとめ、木村真三氏に伝えた上で、見解を聞く。
放射線による影響なのか、放射線をまき散らされたということに対するストレスなのか、または他の要因によるものなのか。
木村氏
「まず考えられるのは、ストレスによる自己免疫疾患の反応の一種だということ。
放射線に対する恐怖というものが、時間を置いて、極度のストレスを受けた後になって出てくる可能性が充分ある。
ストレスも原発事故が由来している。
そういう意味では、放射能ではなくても、原発事故の被害者である、ということは確か。
ただ、放射線に対しては個体差があるので、放射線への感受性がとても強かったりするのかもしれないし、内部被曝の影響がとても強いかもしれない。
南相馬でも、地域によっては残留放射線量がかなり違う。
実際、3月28日に、浪江町から相馬の方に県道15号線を通って行こうとしたが、それでも分断されて裏道を通っていった時に、150マイクロシーベルトパーアワーもあった。
その近くに住んでいるのなら、放射線の影響を考えられる」
岩上氏
「残留放射線の影響よりもまず、ストレスの方の仮説をとった理由はなにか?
ストレスがそれほど大きな影響を与えるものなのか。想像がつかない。
そこまで身体に出ている場合、精神的にもボロボロになっているはずではないのか」
木村氏
「ストレスに強い人間からはわからない。
個体差が相当ある。
うさぎなどは、飼い主が居なければ寂しくて死んでしまうということがある。
感受性が強い場合、自己抑制がなかなかコントロールがつきにくい。
自己免疫疾患が起きると、歯とか髪とかを今まで自分の身体として認識していたものを外敵としてしまい、攻撃するようになる。
ストレスによって腎臓病にもなる」
岩上氏
「ニコニコ笑って明るく過ごせば良い。などと言って回っている人もいるが」
木村氏
「一概には否定できないが、現場を見て、現場の方々を知ったら到底言えることではない。
実データを明らかにしてそれを元に自分で判断する、ということが大事」
******* ******* *******
木村氏の見解を受けて。
『もう最初から、だめだと思っていたので、ストレスは感じていない。
屋内退避が2ヶ月あったが、なにもすることがないので、置いていかれた犬にシチューご飯を作って配って歩いた。
一緒に居る時間が夜しかなかった主人と、「一緒に居る時間が増えて良かったね」と言い合っていた。
ストレスというのはどうやって発生するのかな、と思っていた。
政府や東電に対する怒りは、現実とは全く違うことが行われていたり言われていたりすることに感じたが、それで怒り狂うということは無かった。
お役所仕事を長年経験してきたので、またこんなことやってるな、というぐらいに思っていた。
公務員として勤務していた時の方が、よほどのストレスがあった。
縄張りとかエリアとかがあって、その時のストレスと比べたら、1対1京ぐらいの違いがある。
交通事故で死のうが、ガン系なので癌にかかって死のうが、いずれなんらかの理由で人は死ぬ。
因果関係が本当にわからないのであれば、自分がなにかしらの原因で死んだ時は、(クリーンネネルギーにシフトしている)ドイツに移送して検体して調べてもらいたい。
今後の資料としてぜひ残してもらいたい』
ここからはブログ主のわたしの気持ち。
彼女のインタビューの内容を書き起こしながら、思い浮かべていたことは、ただただこれが現実なんやということ。
彼女は、最初の一週間の政府の対処の狡猾さとまずさに、疑心暗鬼を超えるものを感じ、あえて残ることにした。
『政府の言う通りにしていたらいったい身体がどうなるか、ということを残していくのがわたしにできるささやかな抵抗だった』
この言葉に込められた彼女の気持ちに思いを馳せてみる。
自分の身体をモルモットにして、現れるであろう疾患を待つ。
疾患はどれも、驚くほどに急に現れ、痛みや倦怠感で彼女を苦しめる。
痛みを許容することが特に苦手なわたしには、そんなことを抵抗の手段にするやなんて到底できん。
彼女は、ストレスは無いと言い切ってはる。
そやから、そのことについてどうのこうの言えへん。
木村氏が言うてはったように、もともとストレスというものに対してものすご強い人もいる。
木村氏の見解にも、厳しい現実が潜んでる。
あれだけの、まさに被曝後の症状と酷似している状態の人に、まず第一に原発事故が引き起こした恐怖などのストレスが原因の、自己免疫疾患と思われる。
と、そう言い切らはった木村氏。
これはきっと、そういう症状に現在悩まされている人達、あるいは、近い将来、遠い将来に、悩まされるであろう人達が遭遇する現実や。
被曝と疾患の関連性は、彼女が言うように、わからないというのだからわからない、今だにそんな状態。
それが、被害に遭うてる人達にとって一番かなん現実。
こんな惨い現実があっていいのかと思うけど、ほんまにそれが現実なんやと思う。
そやからこそ、政府も東電も、知らんふりしてやりたい放題できるんやと思う。
それがほんまに悔しい!腹の底から忌々しい!
とにかく、誰がどういうふうに決めて行動するにせよ、そこには動かし難い、ほんで変えることのできん現実が厳然と存在してるってこと。
人でなしの政府やったり、身体に現れる症状やったり、そのことについてストレス性の自己免疫疾患やとか、放射線の影響やとかと他の人間が判断したり、
その、もう戻れへん、変えようのない、放射能物質にひどく汚染されてしもた日本という現実。
その現実によって、彼女みたいに、実際に、心身を攻撃されてしもてる人達を、なんでわたしらは同じ国の人間として助けたられへんの?
そんなんあかんやん!
赤ん坊も子供も、それから動物も、自分らからは行動できんもんを守ったらなあかんやん!
もう10ヶ月も見捨ててしもてんねんで!
わたしらはもっと、できることあるはずちゃうか?
インタビュアーは岩上氏。
南相馬市に暮らす沼内恵美子さん、42才。
18年間高校で教鞭をとり、3年ほど前に引退。自宅で塾を経営している。
ご主人と2人暮らしで、ペットをたくさん飼っている。
『住んでいる地区には、支え合う文化が根強く存在している。
なにかしてもらったら手間返し。
お互いに気を遣わない。
今回は助けてあげるから、次回はお願いね、という独特の考え方。
特に南相馬市というのは、そういうものが強く残っている。
避難しなかった理由→遅いと思った。
政府の記者会見までの間に、最低1週間あった。
24時間以内にヨウ素剤を飲まなければならなかった。
そういう状態なのにこの発表の遅さ。
もし被曝しているんであれば、最初の1週間でもうだめだろうと思った。あとは低線量でだらだらといくだけだから。
そんな時にベント作業があり、水素爆発があり、核爆発があった。
どうせだめなら、なんとか生かす方法で身体を使えないか、と思い、残ることにした。
何かがあったらデータをとる。
ほんの些細な事でもメモをとる。これがブログを書き始めた理由。
ベント作業が行われた時、乱気流で風が吹き荒れていた。
じたばたしても始まらない、と静かに思った。
『風の吹くころ』という絵本を読んだ。
なんらかの健康障害が起こると思っていたが、ここまで早く出てくるとは思っていなかった。
政府の言う通りにしていたらいったい身体がどうなるか、ということを残していくのがわたしにできるささやかな抵抗だった。
だからそのままきた。言われる通りにした。
避難するするしないを決めたのは、郷土愛とか、そういうことだけではない。
実家の弟家族は、小さな子供が3人(小学生と中学生)いるので名古屋に逃がした。
こんなことを言うと不謹慎かもしれないが、日本政府の対応が、もうこれは真っ赤なウソだろうという、疑心暗鬼を超えていたので、
だったら実験代になって、どうせいつか人間は死ぬのだから、どういう死に方をするにせよ、そしたらこういう結果になりましたと、
そういうことで血液検査を6月に受けた。6月に受けた時には炎症反応が出た。
体調の変化が出るだろうな、という予感は若干はあった。
遅かれ早かれ、チェルノブイリでもあったように、何年後かには体調の変化は出るだろうと思っていた。
ただ、こんなに早くいろんなことが出るとは全く思っていなかったので、最初は理由がわからない、お医者さんも原因がわからない、
とういうことで、経過観察ということになった。
体調の異変を感じ始めたのは、下痢があったこと。
夏に、大量の、ものすごい勢いで、ハンパ無く、固形物を食べているのに、お腹も痛くないのに、水道の蛇口をひねったように出た。
まさかこういうことになるとは思わなかったので記録していないが、確か記憶では、6月から8月の2ヶ月間ぐらい。
本格的におかしいと思ったのは、8月13日、手にしびれが走ったこと。
少しずつなのだが広がっていく。でもそれがいつの間にか消える。
左手の中指、薬指、小指から手のひらにかけてしびれた状態。
痛くて、ギターの弦が触れなかった。キーボードも、残りの2本(親指と人差し指)で弾いていた。
医者は、通常、その3本の指にそれほどの強いしびれがあった場合、腕から首にかけての感覚神経にも影響し、痛くて動かせないはずだと言う。
けれども、強烈なしびれ以外、どこにも痛みは感じられなかった。
なので、原因不明ということで、経過観察ということになった。
医者に受診したのは、手のしびれから。
下痢の時は、悪い物を食べたぐらいに思っていたので受けなかった。
手のしびれは1ヶ月半ぐらいで突然消えた。
医者はもともとは総合病院の外科を担当していた。なのでリハビリにも内科にも詳しい。
わからないものはわからないと言ってくれる人。
特発性なんとか、などという病名をつける人ではなく信用している。
8月中旬、あごの両側に痛みが始まった。
口も開けられない、いてもたっても居られない程の痛み。
痛み止めと座薬をもらった。
座薬を入れても痛みは完全に消えなかった。
その時は歯の問題だとは思っていなかった。
ところが、痛みがだんだん、あごの付け根から歯茎全体に広がってきた。
強力な痛み止めを飲んでも3時間しかもたない、と記録したのは8月18日。
炎症反応があるのかと思っていた頃、8月25日に血液検査の結果が出た。
CRPが平常よりも高かった(0.531)。
けれどもその炎症がどこにあるかわからない→経過観察。
手のひらから5本の指まで異常にしびれてきた。
この頃から、自分の体調は変だと書き始めた。
政府批判的なブログを書き始めたが、それがまさか自分の体調日記になるとは思ってもいなかった。
9月は、痛み以外に変化が無かった。
10月12日、上下3本の奥歯がポロッと取れた。
これは尋常ではないなと思った。
前歯もぐらぐらとしてきた。
飴かなにかを食べた拍子に折れた。
痛み止めを内科の医者にもらった。
自然に4本無くなっていた。食べた時に呑み込んでしまったかもしれない。
見た目健康な歯でも、痛くて目も開けられない。
顔も浮腫んできたので、無理矢理頼んで抜いてもらった。
セラミックの歯以外は、どの歯もいつポロッといくかわからない。
合計8本失った。
内科の医師に、入れ歯にした方がいいよと勧められ、歯科医に頼んだが、健康な歯をどうしても抜きたくないと、断られた。
歯はもともと頑丈で健康だった。
虫歯になった時ぐらいしか歯医者には行かなかった。
原発事故の2週間前に、虫歯の治療が終わり完治していた。
カルシウムがまさか摂取できなくなってしまったか?と思った。
前歯下が斜めに欠けてきている。
その頃でも、放射能のことはよぎってはいたが、まさかこんな早いはずはないと思っていた。
10月20日、夜寝る前はなんともなかった右手の肘から手首にかけて、いきなり膿包ができていた。
痛みもかゆみも無かった。
昼にできた時は、膿包の中の薄い黄色い体液は、消毒した針で突いて出していくしかなかった。
最初赤くなり、一時間も経たないうちに膿包ができ、そこに体液がじわじわとわいてくる。
2~30分の間のこと。
手足合計3カ所。つぶして軟膏を塗る。これを繰り返しながら経過観察。
いろんな病院を回るより、信頼できるかかりつけの医者に診てもらうことを選んだ。
検査の結果、細菌感染では無いことがわかった。
次に出てきた症状は怠さ。3日間動けなかった。
身体中がだるくて3日間動けなかった。それが10月22日。
起きているだけでもしんどいので、睡眠薬をもらって3日間寝た。
そのあと、10月26日に、体温の上昇がみられた。
平常35.3度ぐらいが37度が出た。
血圧も非常に高かった。平常時最高が90~100、最低が50~60なのに、93~142だった。
発熱が続いていた。不思議なことに寒くなかった。自分だけが汗をかいていた。
10月28日、左足大腿部が痛み出した。
なんかもう一気にきた。
11月9日、怠い。倦怠感で目が開けられない。それがずっと続いた。
その間にも水泡ができたりしていた。
9月以降はもうだめ。完全にいっちゃっていた。
11月あたりから脱毛に気づいていた。排水溝にすごい量の髪の毛がたまるようになった。
11月3日に、後ろから見ていた姪に「おばちゃん剥げてるよ」と言われた。
つむじの少し下にハゲができていた。
11月6日には倦怠感がかなり強くなり、座っていられなかったので、睡眠薬を処方してもらい眠った。
12月は、すさまじい倦怠感。しんどい、という状態。
なにもかもが全部きたという感じ。
左手親指の少し下の、浅く小さい切り傷痕から、いきなり出血した。
いったん閉じた傷で、一晩経っていて、しかも浅い小さな傷だった。つけていた絆創膏も外した後のことだった。
絨毯にもポタポタ落ちていた。
しかし原因がわからないので、様子を見ている。
長い髪の毛だったが、結い上げようとしても隙間が見えてしまうようになった。
風呂の排水溝に抜けた毛がダーッとたまった。
風呂上がりに足に違和感を感じてみたら、親指の爪が直角に欠けていた。
横の指の爪も,付け根の一角を除いてボロッと取れた。
爪の付け根がふわりと浮いていた。
まさか湯上がりに爪が外れるなんていう経験は無かったので、本当にびっくりした。
髪の毛は最初は3センチに切った。モンチッチみたいに。
それでも抜けて抜けてしょうがないので、坊主にした。
密集していなければならないところの髪が、全体的に地肌が見えてきている。
後ろの円形脱毛症はだんだん生えてきた。
それが全部放射能とかに関連づけるようなことはブログに一切書いていない。
それはわからないんだからわからない。わからないんだから個人が決めつけることではない。
いろんなデーターを残して、採血の医療データやどうにもならない症状をどんどん残していくことで、ある一定のサイクルというのが見えてくる。
あるいはサイクルではなく、どんどん悪くなる一方かもしれないが、
自分は120才まで生きるつもりでいて、マイナス思考は全くない。
次は何が出てくるのかな、という興味がある。
毎日、今日も無事に朝を迎えたなと思いながら生きている。
正月の朝、主人がトイレから叫びながら走って来た。「おちょこ一杯分の鼻血が一気に出た」と言った。
一気に出て一気に消える、気持ちの悪い出方。
なんともいえないが、彼は鼻血が出るようなタイプではなかった。
子供が鼻血を出すというコメントが多かったのだが、鼻血を出すのは子供だけではないのか?と思った。
甲状腺ホルモンの低下がある。
のんびりと経過を観察していく、という考えでいる。
高校時代からの親友が12月31日に来た。ウィッグを被っていた。
10月9日に会った時には、ちゃんと自分の髪の毛を結っていた。
42才の健康な女性が、バーコードの50代の男性の頭髪のような状態になっていた。
彼女とご主人も、だるくて仕方がないと言っていた。
倦怠感が全然抜けず、家事をする気にもならない。
最終的に思うには、日本の医学で原因がわからないという以上、特に被曝とか放射能ということに偏った考え方を持っているわけでは決してない。
もしも同じような症状の方がいらしたら、ということで、ブログで呼びかけてみたら結構な反響があった。
わたしも、わたしも、わたしも……東京とか神奈川とかいろいろあった。
300キロという想像は外れてなかったかなと思う。
経過観察をしながら体調を記していったものがブログになった』
******* ******* *******
以上の症状をまとめ、木村真三氏に伝えた上で、見解を聞く。
放射線による影響なのか、放射線をまき散らされたということに対するストレスなのか、または他の要因によるものなのか。
木村氏
「まず考えられるのは、ストレスによる自己免疫疾患の反応の一種だということ。
放射線に対する恐怖というものが、時間を置いて、極度のストレスを受けた後になって出てくる可能性が充分ある。
ストレスも原発事故が由来している。
そういう意味では、放射能ではなくても、原発事故の被害者である、ということは確か。
ただ、放射線に対しては個体差があるので、放射線への感受性がとても強かったりするのかもしれないし、内部被曝の影響がとても強いかもしれない。
南相馬でも、地域によっては残留放射線量がかなり違う。
実際、3月28日に、浪江町から相馬の方に県道15号線を通って行こうとしたが、それでも分断されて裏道を通っていった時に、150マイクロシーベルトパーアワーもあった。
その近くに住んでいるのなら、放射線の影響を考えられる」
岩上氏
「残留放射線の影響よりもまず、ストレスの方の仮説をとった理由はなにか?
ストレスがそれほど大きな影響を与えるものなのか。想像がつかない。
そこまで身体に出ている場合、精神的にもボロボロになっているはずではないのか」
木村氏
「ストレスに強い人間からはわからない。
個体差が相当ある。
うさぎなどは、飼い主が居なければ寂しくて死んでしまうということがある。
感受性が強い場合、自己抑制がなかなかコントロールがつきにくい。
自己免疫疾患が起きると、歯とか髪とかを今まで自分の身体として認識していたものを外敵としてしまい、攻撃するようになる。
ストレスによって腎臓病にもなる」
岩上氏
「ニコニコ笑って明るく過ごせば良い。などと言って回っている人もいるが」
木村氏
「一概には否定できないが、現場を見て、現場の方々を知ったら到底言えることではない。
実データを明らかにしてそれを元に自分で判断する、ということが大事」
******* ******* *******
木村氏の見解を受けて。
『もう最初から、だめだと思っていたので、ストレスは感じていない。
屋内退避が2ヶ月あったが、なにもすることがないので、置いていかれた犬にシチューご飯を作って配って歩いた。
一緒に居る時間が夜しかなかった主人と、「一緒に居る時間が増えて良かったね」と言い合っていた。
ストレスというのはどうやって発生するのかな、と思っていた。
政府や東電に対する怒りは、現実とは全く違うことが行われていたり言われていたりすることに感じたが、それで怒り狂うということは無かった。
お役所仕事を長年経験してきたので、またこんなことやってるな、というぐらいに思っていた。
公務員として勤務していた時の方が、よほどのストレスがあった。
縄張りとかエリアとかがあって、その時のストレスと比べたら、1対1京ぐらいの違いがある。
交通事故で死のうが、ガン系なので癌にかかって死のうが、いずれなんらかの理由で人は死ぬ。
因果関係が本当にわからないのであれば、自分がなにかしらの原因で死んだ時は、(クリーンネネルギーにシフトしている)ドイツに移送して検体して調べてもらいたい。
今後の資料としてぜひ残してもらいたい』
ここからはブログ主のわたしの気持ち。
彼女のインタビューの内容を書き起こしながら、思い浮かべていたことは、ただただこれが現実なんやということ。
彼女は、最初の一週間の政府の対処の狡猾さとまずさに、疑心暗鬼を超えるものを感じ、あえて残ることにした。
『政府の言う通りにしていたらいったい身体がどうなるか、ということを残していくのがわたしにできるささやかな抵抗だった』
この言葉に込められた彼女の気持ちに思いを馳せてみる。
自分の身体をモルモットにして、現れるであろう疾患を待つ。
疾患はどれも、驚くほどに急に現れ、痛みや倦怠感で彼女を苦しめる。
痛みを許容することが特に苦手なわたしには、そんなことを抵抗の手段にするやなんて到底できん。
彼女は、ストレスは無いと言い切ってはる。
そやから、そのことについてどうのこうの言えへん。
木村氏が言うてはったように、もともとストレスというものに対してものすご強い人もいる。
木村氏の見解にも、厳しい現実が潜んでる。
あれだけの、まさに被曝後の症状と酷似している状態の人に、まず第一に原発事故が引き起こした恐怖などのストレスが原因の、自己免疫疾患と思われる。
と、そう言い切らはった木村氏。
これはきっと、そういう症状に現在悩まされている人達、あるいは、近い将来、遠い将来に、悩まされるであろう人達が遭遇する現実や。
被曝と疾患の関連性は、彼女が言うように、わからないというのだからわからない、今だにそんな状態。
それが、被害に遭うてる人達にとって一番かなん現実。
こんな惨い現実があっていいのかと思うけど、ほんまにそれが現実なんやと思う。
そやからこそ、政府も東電も、知らんふりしてやりたい放題できるんやと思う。
それがほんまに悔しい!腹の底から忌々しい!
とにかく、誰がどういうふうに決めて行動するにせよ、そこには動かし難い、ほんで変えることのできん現実が厳然と存在してるってこと。
人でなしの政府やったり、身体に現れる症状やったり、そのことについてストレス性の自己免疫疾患やとか、放射線の影響やとかと他の人間が判断したり、
その、もう戻れへん、変えようのない、放射能物質にひどく汚染されてしもた日本という現実。
その現実によって、彼女みたいに、実際に、心身を攻撃されてしもてる人達を、なんでわたしらは同じ国の人間として助けたられへんの?
そんなんあかんやん!
赤ん坊も子供も、それから動物も、自分らからは行動できんもんを守ったらなあかんやん!
もう10ヶ月も見捨ててしもてんねんで!
わたしらはもっと、できることあるはずちゃうか?