今日の気功の瞑想のテーマです。
『わたしは誰?』
『わたしはどうしてこんなふうに考えるの?』
『わたしはどうして、人が◯◯した時に、あるいは◯◯と言った時に、こんなふうな気持ちになるの?』
『わたしはどうして、人から◯◯と言われた時に、あるいは◯◯をされた時に、こういう反応をしてしまうの?』
決められた動作を順序通りにしている間に、いろんな負の感情を体と心の中から外に出します。
哀しみ、怒り、心配、恨み、過剰な喜び。
それを、鮮明な色をイメージしながら息を吸い、ひとまず特定の内臓の中に閉じ込め、それを特定の音と一緒に外に吐き出します。
その後、体の外側を手のひらで払い、埃を取り払うように、それらの負の感情を払い落とすのです。
そうやって、できるだけ空にした体と心で瞑想をします。
わたしは誰?と自分に聞いた時、胸がコトンと小さく波立ちました。
そして、そのすぐ後に、そうだ、ほんとにわたしは誰なんだろう……と、しみじみと思ったのです。
気功の時間のほとんどは、素足で床に立っています。
膝を軽く曲げ、全体的にリラックスしていますが、丹田の周りにしっかりとした玉を持ち、床についた足裏は地球にどっしりとおろされていて、地中に向かって太い生き生きとした根が伸びており、頭のてっぺんは見えない糸で天から軽く引っ張り上げられています。
まさに、天と地の間に存在している、どちらにもスウッと伸びてしっかりとつながっている生き物という感じです。
体の中にいろんな動きからのエネルギーが流れ込んできたのを、口から吐き出したり、強く飛び跳ねることで体の表面から出したりするのだけれど、
そういうくり返しをしている間に、どんどんと、くよくよ思っていたことや怒り、心配事や哀しみが、色が抜けて、どんどん薄まって、しまいには不透明な霧のようになって消えていくような気がするのです。
そのような状態の時に、「わたしは誰?」と自分に聞いたのでした。
感情が抜けている時に、この言葉を口にすると、こんなにもしーんとした気持ちになるんだなあ……とびっくりしました。
昨日書いた記事の文章が、パアッと甦ってきました。
それと同時に、自分のその時の気持ちや反応を思い出しました。
どうしてなんだろう……と、ひとつひとつを思い出しながら、自分に問いかけてみました。
すると……、
あの子があれでいいのなら、それでいい。
息子があれでいいのなら、それでいい。
いや、それがいい。
まず先に気分を害してしまったわたしは、彼らのいいところを見ようと思えなかったなあ。
きっとそういうわたしは、なんだか意地悪な、いやな雰囲気の空気をまとっていたのだろうなあ。
躾とか常識とかは多分、そういう気持ちでいる人からはなにも学べないのだろうなあ。
まずはそのままを受け入れてくれる人の、言葉ではなく、自然な動作を見ているうちに、時間をかけてだんだんと覚えていくのだろうなあ。
普段からこんなふうに、冷静に、自分のことをしっかりと見つめられている人は、常にしっかりとした軸が自分の中にあることを知っているので、人や周りの事に振り回されたり、感情が揺れ動いたり、どうしたらいいのか迷ったりしないのかもしれないですね。
今日もまた、とても有意義な、いい気功でした。
『わたしは誰?』
『わたしはどうしてこんなふうに考えるの?』
『わたしはどうして、人が◯◯した時に、あるいは◯◯と言った時に、こんなふうな気持ちになるの?』
『わたしはどうして、人から◯◯と言われた時に、あるいは◯◯をされた時に、こういう反応をしてしまうの?』
決められた動作を順序通りにしている間に、いろんな負の感情を体と心の中から外に出します。
哀しみ、怒り、心配、恨み、過剰な喜び。
それを、鮮明な色をイメージしながら息を吸い、ひとまず特定の内臓の中に閉じ込め、それを特定の音と一緒に外に吐き出します。
その後、体の外側を手のひらで払い、埃を取り払うように、それらの負の感情を払い落とすのです。
そうやって、できるだけ空にした体と心で瞑想をします。
わたしは誰?と自分に聞いた時、胸がコトンと小さく波立ちました。
そして、そのすぐ後に、そうだ、ほんとにわたしは誰なんだろう……と、しみじみと思ったのです。
気功の時間のほとんどは、素足で床に立っています。
膝を軽く曲げ、全体的にリラックスしていますが、丹田の周りにしっかりとした玉を持ち、床についた足裏は地球にどっしりとおろされていて、地中に向かって太い生き生きとした根が伸びており、頭のてっぺんは見えない糸で天から軽く引っ張り上げられています。
まさに、天と地の間に存在している、どちらにもスウッと伸びてしっかりとつながっている生き物という感じです。
体の中にいろんな動きからのエネルギーが流れ込んできたのを、口から吐き出したり、強く飛び跳ねることで体の表面から出したりするのだけれど、
そういうくり返しをしている間に、どんどんと、くよくよ思っていたことや怒り、心配事や哀しみが、色が抜けて、どんどん薄まって、しまいには不透明な霧のようになって消えていくような気がするのです。
そのような状態の時に、「わたしは誰?」と自分に聞いたのでした。
感情が抜けている時に、この言葉を口にすると、こんなにもしーんとした気持ちになるんだなあ……とびっくりしました。
昨日書いた記事の文章が、パアッと甦ってきました。
それと同時に、自分のその時の気持ちや反応を思い出しました。
どうしてなんだろう……と、ひとつひとつを思い出しながら、自分に問いかけてみました。
すると……、
あの子があれでいいのなら、それでいい。
息子があれでいいのなら、それでいい。
いや、それがいい。
まず先に気分を害してしまったわたしは、彼らのいいところを見ようと思えなかったなあ。
きっとそういうわたしは、なんだか意地悪な、いやな雰囲気の空気をまとっていたのだろうなあ。
躾とか常識とかは多分、そういう気持ちでいる人からはなにも学べないのだろうなあ。
まずはそのままを受け入れてくれる人の、言葉ではなく、自然な動作を見ているうちに、時間をかけてだんだんと覚えていくのだろうなあ。
普段からこんなふうに、冷静に、自分のことをしっかりと見つめられている人は、常にしっかりとした軸が自分の中にあることを知っているので、人や周りの事に振り回されたり、感情が揺れ動いたり、どうしたらいいのか迷ったりしないのかもしれないですね。
今日もまた、とても有意義な、いい気功でした。