ウィンザー通信

アメリカ東海岸の小さな町で、米国人鍼灸師の夫&空ちゃん海ちゃんと暮らすピアノ弾き&教師の、日々の思いをつづります。

いったいわたしは誰なのか?

2010年11月15日 | ひとりごと
今日の気功の瞑想のテーマです。

『わたしは誰?』
『わたしはどうしてこんなふうに考えるの?』
『わたしはどうして、人が◯◯した時に、あるいは◯◯と言った時に、こんなふうな気持ちになるの?』
『わたしはどうして、人から◯◯と言われた時に、あるいは◯◯をされた時に、こういう反応をしてしまうの?』

決められた動作を順序通りにしている間に、いろんな負の感情を体と心の中から外に出します。
哀しみ、怒り、心配、恨み、過剰な喜び。
それを、鮮明な色をイメージしながら息を吸い、ひとまず特定の内臓の中に閉じ込め、それを特定の音と一緒に外に吐き出します。
その後、体の外側を手のひらで払い、埃を取り払うように、それらの負の感情を払い落とすのです。

そうやって、できるだけ空にした体と心で瞑想をします。

わたしは誰?と自分に聞いた時、胸がコトンと小さく波立ちました。
そして、そのすぐ後に、そうだ、ほんとにわたしは誰なんだろう……と、しみじみと思ったのです。

気功の時間のほとんどは、素足で床に立っています。
膝を軽く曲げ、全体的にリラックスしていますが、丹田の周りにしっかりとした玉を持ち、床についた足裏は地球にどっしりとおろされていて、地中に向かって太い生き生きとした根が伸びており、頭のてっぺんは見えない糸で天から軽く引っ張り上げられています。
まさに、天と地の間に存在している、どちらにもスウッと伸びてしっかりとつながっている生き物という感じです。
体の中にいろんな動きからのエネルギーが流れ込んできたのを、口から吐き出したり、強く飛び跳ねることで体の表面から出したりするのだけれど、
そういうくり返しをしている間に、どんどんと、くよくよ思っていたことや怒り、心配事や哀しみが、色が抜けて、どんどん薄まって、しまいには不透明な霧のようになって消えていくような気がするのです。

そのような状態の時に、「わたしは誰?」と自分に聞いたのでした。
感情が抜けている時に、この言葉を口にすると、こんなにもしーんとした気持ちになるんだなあ……とびっくりしました。

昨日書いた記事の文章が、パアッと甦ってきました。
それと同時に、自分のその時の気持ちや反応を思い出しました。
どうしてなんだろう……と、ひとつひとつを思い出しながら、自分に問いかけてみました。

すると……、

あの子があれでいいのなら、それでいい。
息子があれでいいのなら、それでいい。
いや、それがいい。
まず先に気分を害してしまったわたしは、彼らのいいところを見ようと思えなかったなあ。
きっとそういうわたしは、なんだか意地悪な、いやな雰囲気の空気をまとっていたのだろうなあ。
躾とか常識とかは多分、そういう気持ちでいる人からはなにも学べないのだろうなあ。
まずはそのままを受け入れてくれる人の、言葉ではなく、自然な動作を見ているうちに、時間をかけてだんだんと覚えていくのだろうなあ。

普段からこんなふうに、冷静に、自分のことをしっかりと見つめられている人は、常にしっかりとした軸が自分の中にあることを知っているので、人や周りの事に振り回されたり、感情が揺れ動いたり、どうしたらいいのか迷ったりしないのかもしれないですね。

今日もまた、とても有意義な、いい気功でした。

 
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これぞまさしく姑根性、なのか?

2010年11月14日 | 家族とわたし
昨夜、Rukkoちゃん一家に会いにミツワに向かっている途中、息子の拓人から電話がかかってきた。
珍しいこともあるもんだ。
「かあさん、今日帰ろっかな~」
「へ?」
「今日の食いもんなに?」
「食いもんって……今わたしはビルとミツワに向かってドライブ中~」
「えっ?!」
「なので、今日の食いもんはミツワのフードコート!おほほっ!」
「おほほって……」
「いきなりなによ?なんか食べとうなったん?」
「え、うん、まあ」

電話の向こうの息子の横に、誰か居る気配。しかも、これは多分女の子。彼の盛り上がり方でわかる。

「ま、そういうことで、わたしは今夜はな~んも作らへんけど、冷蔵庫の中に食べもんはいっぱいあるから適当にしたら?」と言って電話を切った。

Rukkoちゃん一家と楽しく会食して、買い物もして、高速に乗った途端、「ブルーのホンダアコードを見つけたら911って」と旦那がブツブツつぶやくではないか?!
なんのこっちゃと思い質問すると、なにやら電光掲示板にそう書かれてあったらしく、「誘拐か爆弾テロかな……」と、さらに恐ろしいことを言うので、ナンバーもわからないので見ても仕方が無いのに、目は黒っぽい色のホンダの車を追いかけてしまう。
そして家に着くと……ぎょえっ!あれってあれって、のホンダちゃうん?!
家の目の前に停められてある車にソロソロと近寄り、それからおもむろに、けれどもいつもよりも慎重に、ドアのキーを開けようとする旦那。ドキドキ……。
「ただいまぁ~」「あ、おかえりぃ~」「???」
なんのこっちゃない、拓人が友人の女の子の車(ホンダのアコードではなくシビックでした、ハハハ)に乗っけてもらって帰ってきていた。
なにやら美味しそうな匂いがプンプン漂っている。牛丼?
「なんで牛丼やねん?!ビーフシチューやっちゅうねん!」


うちの息子達はどちらも、ガールフレンドをうちに連れてきては、腕をふるって料理を作る。
それはとってもいいことだと思う。そういうふうな男になって欲しいと思い、いろいろと教えたりもした。

けれども気になるというか、なんかひっかかることがふたつ、ある。

まずひとつめは、初対面の日に、自分のことを一切紹介しようとしないこと。
「こんにちわ」とか「お邪魔してます」とかは言う。言わない時もある。けれども、「はじめまして、わたしは◯◯といいます」とは決して言わない。
なので、名前を知るにはまず、息子達がその子の名前を呼ぶのを聞く。
そういうのをいかがなものか?と、以前息子達に聞いたことがあった。
すると、彼らは一様に、「シャイやから」と言う。ふむ……恥ずかしがり屋さんね……。
中には、顔も見せたくないほどの極度の恥ずかしがり屋さんもいた。その子は、数回家にやって来た後に、やっと挨拶してくれた。

そしてふたつめは、これは多分、本当に余計なお世話なのかもしれないが、
うちに来て、彼らの好きな物を作って食べる際、椅子に座ったままビクとも動かず、おしゃべりしながら料理が出来上がるのを待ち、食べ、そして自分が食べた食器すらも片付けない。
全部息子達なのである。
そういう約束になっているのか、その夜はたまたま順番だったのか、とにかくお姫様のように、与えられた食べ物を食べ、そして部屋から出て行く。
そのことについても、やはり尋ねてみたことがあった。
「あのさあ、なんで手伝わへんのかなあ~って思うこと自体が古いんちゃう?」は恭平。
「別にええやん」は拓人。
ふむ……働いてるあんたらがそれでええのなら別にええんやろな。


やっぱりこれって、思いっきりの姑根性なんだろうか?
わたしの中の常識が、もうこの現代には通用しないんだろうか?
それとも、彼らのことがなんだかスッと受け入れられないのは、単にわたしが、思い込みのメルヘンの世界に暮らしているからか?

拓人はクイーンズのアパートに戻る直前に、台所を8割方片付けていった。
今日こそは、来週1週間分ぐらいのおかずを作りだめしておこうと張り切って台所に入り、洗い終わった食器を棚に収めようとしたら、ゲッ!めちゃギトギトやん!
適当洗いをしたらしく、脂汚れが取れないままの食器が山積み……。
ため息を一つついて、洗い直しをし、それからガスコンロの周りのギトギトも拭き取り、あちこちの掃除をした。

料理をしている間も、料理をし終わった後も、台所周りはきれいでないとだめ!
これは父から何度も何度も教えられたこと。実際に父は、調理と片づけが同時に終わるのを何回もして見せてくれた。
なのでわたしの脳みその中には、その教えがしっかり入り込んでいて、だから料理を作る時も、できるだけ周りをすっきりさせてから始めたいと思ってしまう。
でも、そういうことこそ、わたしの勝手なので、それを人に押し付けようとは思っていない。人は人、わたしはわたしなのだから。
なんてえらっそうに語ってはいるが、実は旦那と暮らし始めた頃、このことで何度も何度も言い合いをした。
 
『やり方の違いは、人の数だけある』
『仕事を分け合ってやりたいのなら、その人のやり方も尊重しなければならない』

最初の結婚で、全くそれまでと違う習慣のルツボの中に飛び込んで、散々学んできたはずのことだったけれど、今度こそは自分の好きなように、などという自我が、抑え込んできた分ムクムクと噴き出してきたのだろう。
再びの精神修行……が始まり、今だにわたしは修行中……やれやれ……。

こういう、なんでもなさそうな日常の心の有り様を学ぶことは、学校の勉強よりはるかに難しいもんなんだなあ。


それでもなあ……なんだかモヤモヤな日曜日なのであった。


*おまけ

例のホンダアコードの件ですが、旦那が家に戻ってすぐに地元のニュース局で調べたところ、認知症のお年寄りがその車に乗って家から出てしまった、ということで、その人を探し出すための電光掲示板なのでした。
誘拐でも爆弾でもなく、ホッとしました。そのご家族にとってはホッとするどころのことではないのですが……。
そして、旦那は思いっきり見落としていましたが、その掲示板にはちゃんと、車のナンバーも載っていたようです。
しかも色は青ではなくてシルバー……一台途中で青のホンダを見っけたのですが、通報しなくて良かった……いやはや……。
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ありがとうRukkoちゃん!

2010年11月13日 | 友達とわたし
ブログ友達のRukkoちゃん一家が、オハイオ州のお家から、はるばるニュージャージー州まで来てくれました。10時間のドライブです。
15才の娘ちゃんと11才の息子くんが、英検の筆記試験に合格したため、今回は二次試験の口答面接を受けにやって来たのでした。
それにしてもすごいなあ……15才にして準一級、11才にして二級、わたしなんて中学校の時に三級を受けたっきりで、その後全然進まずじまいだったし……。

オハイオは空気がきれいで、どこまで見渡しても平らな土地には、トウモロコシと大豆の畑が広がっていて、住んでいる人達ものんびりしていて……、
なので、ならず者がウジャウジャしているニュージャージーの道路は、高速であろうが普通の町中であろうが、かなり走り心地が悪そうです。

待ち合わせは米国に暮らす日本人家族のメッカ『ミツワ』のフードコート。今夜は初対面!きゃ~!

ブログというのは本当に不思議なワンダーワールド。
多分、ブログというものがこの世に存在していなかったら、絶対に知り合えないはずの人達と、こうやって実際の世界で出会えるのだから……。
毎日のようにお互いの暮らしを覗きっこしているので、お隣さんより誰より、もしかしたら旦那さんより詳しいわたし。
それはうちの旦那にも言えることで、今夜も「彼女(Rukkoちゃん)がまうみに尋ねていることを自分は知らない……夫なのに……」と、苦笑いしておりました。

Rukkoちゃんの旦那さんの仕事のこと、娘ちゃんのマーチングバンドのこと、息子くんのおじいちゃんの懐かしい話、秋田の話、
中でも、何千℃にもなるドロドロに溶けた鋼鉄の色のこと、熱さ、そしてそれと対照的な、秋田(旦那さんの実家)の豪雪の話。
Rukkoちゃん家族全員、こちらに来るまで住んでいた日本の福島県の方が秋田県より寒い!と断言するのを仰天しながら聞いているわたしに、いったいどうしたらそんなことになるのか、いろいろと実際の経験も交えて説明してくれました。
雪が降ると暖かい。そして、その雪も1メートルほども積もると、その中に野菜などをズボッと突っ込んで保存することもできる……すごい!
話は尽きないけれど、それぞれに頼んだ夕食も食べ終わったし、なによりメッカでの買い物がまだ終わっていないRukko家、ダラダラと引き止めてはいけない、ということで、名残惜しい気持ちを抑え、明日の試験の健闘を祈りつつ、「またいつか会おうね~」と約束しながらお別れしました。

Rukkoちゃんは、そりゃもう優しそうな、ブログを読んでいる人はご存知の通り、料理もお菓子もパンもクラフトも、なんでも上手に作れるスーパーママ。
旦那さんは、家族をしっかり支えることなんてあったり前じゃいっ!という、男気のあるおとうさん。
娘ちゃんは、ただ今輝きに輝いている、とてもしっかりしていて賢い美人さん。
息子くんは、もうただただ可愛くて、懐かしくて(恭平のちっちゃい時の雰囲気がして)、思わず頭をクリクリしちゃいました。
彼は、山頭火のラーメンを今回どうしても食べる!と決めて来たそうで、イクラ丼&チャーシューラーメンのセットを、30分待ちですよ、と言われても辛抱強く待ち、一番最後にやってきたそれを、ニコニコ顔でパクパク食べていました。
喜びを隠しきれない子供の顔っていいですねえ~……久しぶりに見て、なんだかとっても幸せな気持ちになりました。
うちの旦那も「いい家族やな」とポツリ……。
みんなそれぞれに、日本からオハイオに移り住んでからの苦労や試練はあっただろうけれど、あの家族だったらきっと、皆で支えたり励ましたりしながら乗り越えてきたんだろうなあ……と確信できる、ほんとにすてきな家族なのでした。

Rukkoちゃんが渡してくれたすてきなお土産。彼女の手作りの刺繍画。縁起物のふくろうさんです。


ありがとう!わたしの机の真ん前に飾らせてもらいました。


そしてそして、事もあろうに、こんな遠出を前にして焼いてきてくれた手作りパン!美味しそうです!



Mちゃん、Kくん、明日、頑張ってね!
おとうさん、また運転ご苦労さんです!
Rukkoちゃん、いっぱいいっぱいありがとう!
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群青の空の下で

2010年11月13日 | ひとりごと
しょうもないことにカッとしてるわたしを、群青色の空が笑てた。

 

すっかり枯れた木の枝が、子供のイタズラ書きみたいに見えた。

なんでカッカしたかというと、こないだの舗装工事の際に、外されて他の場所にポイ捨てされてあった長いホースを、旦那がまた元の位置に付け直してくれたんはよかってんけど、その付け方がめっちゃええ加減で、後で使うことになった時にちゃんとうまいこと使えるように、なんて考えがどこにも見当たらへん、どうしようもなくめちゃくちゃやったから。

天気もええこっちゃし、ちょっと花に水あげとこ思てホースを引っ張ったら、先の1メートルぐらいが自由になるだけで、あとはもう大蛇のどくろ巻き状態。
いろいろと抵抗してみたけど、これは時間の無駄やとわかり、念のために長靴に履き替えた。
なんせうちの水まきホース、強い水圧と極寒の冬に耐えられるよう、ゴワゴワで固いのなんのって。
なので、ちょっとでもこんがらがると、それを解きほぐすのにえらい手間と知恵が要る。
そんなホースを、後ろと前の庭で使えるよう、もともと長いのに、それを2本、つなぎ合わせてあるからもっと難儀。
ということで、そのつなぎ目をまず外して、1本ずつ解きほぐすことにした。
外す時はもちろん器具を使う。留め金の部分は、か弱いわたしの力ではウンともスンとも動かんから。
案の定、溜まってた水がシュウッ!と勢い良く飛び出してきて、あっちゃこっちゃびしょ濡れ。まあええわ、これは想定内。
ごっつぅ固いゴワゴワのホースが、知恵の輪みたいにこんがらがってるのを、なんとかほぐせはしてんけど、濡れたホースに例の松の針みたいな枯れ葉が一面にくっついてて、それが何回も刺さって痛いのなんのって……この時点でかなり怒り度上昇なり。

だいぶ時間がかかったけど、とりあえずこれで次回は平和な気持ちで使えそう。


やれやれ……世の中にはこんなしょ~もないことやのうて、命に関わるような重大で深刻な問題を抱えて、それが自分ではどうしようもないことで、どないしたらええんやと、頭を抱えたり怒りを感じてる人達がいっぱいいはるというのに。
自分もちょっと昔には、その中のひとりでもあったというのに、ほんで、そんな時のわたしは、あんたらはええなあ、そんなしょうもないことがおっきな問題で、ほんでも恥ずかし気もなく怒れて……などとため息つきながら小馬鹿にしてたりもしたのに、
よう言われることやけど、ほんま、人の気持ちなんて、その人とおんなじ身になってみやなわからんもんやなあ。

などと、ようわからん反省をしながら、せっかくカメラを持ち出したんやしってことで、うちの通りの落ち葉候補の激写。
 

あんたは置物か?実は、両手の下に、食べ残りの木の実を隠して、盗られんかしらと緊張しているの図。
大丈夫、安心しとき。わたしが撮ってるのはあんたの姿で、あんたの食べ残しのグチャグチャになった木の実なんか盗りとうないし……。


こんなふうにせっせせっせと、忙しく枯れ葉の中に頭を突っ込み、ひたすら木の実を探します。


なんやうるさいなぁ~と思て上を見上げたら、鳴き声に似合わんちっちゃい鳥さん。


ええなああんたらは。こんなきれいな空を自由に飛べて……。

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Cutta Cutta

2010年11月12日 | 家族とわたし
ホラービデオではございません!純粋な観察と実証のための動画です。


『水をがぶ飲みする犬とは対照的に、猫はヒゲやあごを濡らしたり容器からこぼしたりすることなく優雅に水を飲む。
マサチューセッツ工科大学、バージニア工科大学、プリンストン大学の研究者4人はその仕組みを調べるため、飼い猫が水を飲む様子を何時間もかけて観察。
さらに猫の舌のロボットを作り、動画サイトのユーチューブで大型のネコ科動物も観察した。

その結果、猫は舌の先を後ろに丸めてアルファベットの「J」のような形で真っすぐ下に伸ばし、先端が水面に触れると同時に、目を見張るような速さで舌を引っ込めていることが判明した。
この瞬間、舌と水面との間に水の柱ができ、猫が口を閉じるとその水柱の上端が口に入って水を飲める仕組みだった。

この水柱は重力の均衡が保たれており、慣性の法則で容器に戻る。猫は平均すると毎秒4回のペースでこの動作をくり返す』

事の始まりは、マサチューセッツ工科大学(MIT)のローマン・ストッカー准教授は3年前の朝、飼い猫が牛乳をぴちゃぴちゃと飲んでいるのを眺め、「なぜ牛乳は重力に逆らって猫の口に入るのか」と疑問を抱いたことだそうです。

うちにも猫がいます。
もう12年も一緒に暮らしているので、いろんな動作に見慣れています。
何度見ても惚れ惚れするもの、びっくりするもの、ずっこけるもの、愛らしいもの、憎ったらしいものなどなど、いろいろありますが、やはりこの、水飲みの動作に関しては、いつもおぼろげながらに「いったいどないして口の中に入ってんのやろ……」と疑問に思っておりました。
実に見事に、どこも濡らさずに、うちの息子達よりもうんと上手に飲むんですから。

舌が真っすぐに水入れに向かって下りていくのはよく目にするのですが、なにしろわたしなので、「なんでやろなぁ~」で終わってしまうわけです。
あ、でも、一度真似してやってみたこともありました!真っすぐ突っ込むところまで。結局周り中ビチョビチョになりましたが……。
ところがっ!
やっぱり科学者や工学者の思考はそんなところで留まらないのですねえ~。実に3年もの月日をかけて研究し、動作の解明をしてしまった。

ちょっと次の機会は、じぃ~~~っと見物させてもらいまっさ。ウヒヒ。

え?なんやの?そのイヤラシい目つきは。またなんか企んでるな、かあちゃん。


めっちゃイヤにゃ予感……。

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しまうま林檎

2010年11月12日 | ひとりごと
今朝はちょっと豪勢?に、ベーコンエッグとレーズン&ウォールナッツパンと旦那コーヒーで朝ご飯。

ベーコンエッグ担当はわたし。先にベーコンを4枚焼いて脂をしっかり出し、余分な脂を吸い取ってから、丸く縁取ったベーコンの間に卵をポトリ。
これがなぜか旦那のお気に入り。世にも美しいベーコンエッグだと、思いっきりフツゥ~なのに褒めてくれる。

どれも美味しくて、お腹もほどほどに満たされ、幸せなのだけど、やっぱりどうしても脂っぽい。
こういう時のお腹には、やっぱり林檎!
オーガニックのフジ林檎がまだ一個残っているはず。
オーガニックという言葉を信じるならば、皮付きでガリガリ齧ってもオッケー。余計にお腹に良さそう。

などと思いながら、食後のパソコンをしていると、台所に残っていた旦那が「林檎いる?」と聞いてきた。
「うん!」
「はい、これ、しまうま林檎!」

適度な食感と適度な繊維質が同時に楽しめるための『しまうま』なのだそうな……
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米国わびさびとモヒカン事情

2010年11月11日 | 米国○○事情
今日は晴れ晴れ、とっても気持ちのいい秋の日

遊び場でじぃ~っとカタマッているモヒカンリス。

自分の体の一部を、こんなふうに活用できるあんたがうらやましいよ……

さて、そろそろ生徒達が来る時間だと、部屋の中を整えていると、壁にこんなわびさびが……。


心がすぅ~っと落ち着いたのでした。

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眠れよい子よ

2010年11月11日 | 家族とわたし
旦那は悩んでいる。
鼻がすっきりと通らないこと。
空気や食べ物のアレルギーと、ポリープと、慢性の蓄膿との付き合いが子供の頃からずっと続いていて、この半年間は特に、そのためからか朝まで続けて眠れなかったり、眠りが浅いために少しの物音で起きてしまったり、だから疲れが残って体調が優れない。
わたしの更年期がうつったか?などと冗談を言っていた頃はよかったが、だんだん不眠度が増してきて、もしかしたら自分は睡眠時無呼吸症候群にかかっているのではないか?と疑い始めた。

鼻の中の問題は、ドイツ人の坊さんで友人のDが、ドイツに帰省した際に、診察室で簡単に、しかもあっという間に、ポリープを切除してもらってすっかり良くなったという話をしたのを聞いて、それと同じことをこちらでもしてもらえるかどうかを調べたりしていた。
前からかかっている耳鼻科の医者は、とにかく手術などよりも、ステロイドの治療法を勧めるばかりで、旦那の希望はまだ叶わずじまい。
そこで、睡眠時無呼吸症候群の心配を医者に相談すると、アプノモニターという検査機器を使って自宅で検査する方法があるけれど、もちろんこちらは日本と違い、ヤクザな保険会社から供給される保険しか持てないので、もちろんそんな物に保険などきかず20万円の費用がかかる。と言われた。
↓これです。


でもその前に、別のステロイドを試してみなさい、と言われて、今度は飲み薬として摂取することになった。

毎日毎晩、患者の健康と自分の鼻の問題を、休み無く考えている旦那を横で見ていると、どうしてもわたしなどは考え過ぎて余計に病気を作ってるのではないか?などと思ってしまうのだけど、不眠については、地獄の半年間を過ごした経験者として、深く深く同情している。
もし本当に、彼の言うように、鼻の問題が無くなればちゃんと眠れるのであれば、どんなにお金がかかっても(といってもやっぱり限度はあるけど……)、治療を受けさせてあげたいとも思っている。

ただ……ただね、一言言わせてもらうとね、肝心な努力をまだやってないことがね、わたしにはちょっとひっかかっている。
それは、発酵させた物を食べないようにする、というもの。
味噌や納豆は避けられても、ワインとコーヒーはどうしてもやめたくない。ビールもたまに飲みたい。チーズも食べたい。
旦那はこの嗜好品をまだ一度も、完全に絶ったことはない。した方がいいとわかっているのだけれど、やめた後の精神的苦痛を想像するだけで恐ろしいようだ。
患者には結構厳しい先生だけど、こんなふうに嗜好品絶ちに躊躇する患者の気持ちもとっても理解できる先生なのである。ふむ……。

そんなこんなのすべてを見守りながら、なんとか良くなって欲しいと願っているのだが、ゴチャゴチャと細かいことにこだわったり悩んだりしている姿を長いこと見ていると、やっぱりなんとなくイライラしてしまったりする。
もっと優しく、もっと思いやりを持って接してあげなければとは思うのだけど……。


そして昨日の夜中に、なぜだかわたしの目がパチンと覚めた。時計を見ると3時46分。あっちゃ~……こんな時間に覚めたら面倒なことになるやぁ~ん!と思いつつも、横で寝ている旦那の息づかいが気になって、少し様子を見ていた。
いい感じいい感じ。今夜はよく眠れてるみたい。
あれ?それにしても静かやな。ちょっと静か過ぎやないのかな。え?息してる?ちょっとちょっと!息してる?!
もしかして、マジで、無呼吸状態なわけ?
眠気がサッとどこかに行ってしまい、音をたてないように細心の注意を払いながら、少しずつ少しずつ旦那の近くににじり寄っていった。
IKEAの、ハンパ物コーナーで買った格安の羽毛布団は、少しでも動くとパサパサと乾いた音がして、そんな音でも起きてしまう旦那なのだ。
やっと近くまで寄って、耳をダンボ状態にしても、一向に音が聞こえてこない。泣きそうになって、とにかく胸のあたりの動きを探ってみた。
軽く、触れるか触れないかのところで手のひらを当てていると、あ、動いている!確かに、微かに、上下に。
ホッとして、けれどもしばらくの間、そうやって手のひらを彼の胸の辺りにかざしていた。
わたしの手のひらから出る温かみが、彼の呼吸をもっと楽にしてあげられそうな気がした。

結局わたしは6時ぐらいまでそうやって、旦那の息の状態を見ていた。
これじゃまるで、人間アプトモニターだよ……。
でもまあ、旦那が無事に、無呼吸などにならずに、朝まで心地良い眠りを持つことができてよかったよかった。
などと思いながら眠りについたのだけど、目が覚めた時の疲労感ったらない!ボロボロ!今日は9人の生徒の日なのに……。
なんて愚痴らなかったらカッチョいいのだろうなあ~。




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落ち葉掃き

2010年11月10日 | お家狂想曲
ポールとピンキーのカエデの木が色づき始めました。この界隈では一番奥手です。


今はもう空っぽになってしまったけれど、また新しい家族がここに暮らし始めるまでの間、彼らが住んでいたままの世界が続きます。

お向かえの、今売りに出ている家の奥のカエデも、こんなにきれいに色づいてきました。ということは、まだまだ新しい落ち葉候補達が控えていることになります。


けれども、さすがにもう我慢ができなくなって、せめて玄関までの間だけぐらいはきれいにしておこうと、落ち葉掃きを始めました。
松の針のような落ち葉と、大きなカエデの葉やポンちゃん(桜)の葉で埋め尽くされていた道が、ようやく姿を現してくれました。


ここまでの時点で既に汗がダラダラ。今日はエクセサイズのクラスが無い日なので一石二鳥です。
 

階段の上に置いてあったカボチャはとうとうこんな姿に……。


二本のでっかい歯形からいって、きっとリスとグラウンド・ホッグのお腹を満たしているのだと思います。

一緒に外に出てきて、お手伝いをしてくれるショーティ。芝の刈り込み?……いえいえ、お腹の整腸のためにせっせと草を食べているのです。


ちょっとクラクラしてきたし、手のひらも水ぶくれができそう(どんなに柔い体なんじゃ?)だったので、そろそろここらへんで……と思っていたら、いきなり旦那も外に出てきて、サラエでガァガァ掃き始めるではありませんか?!
え?まじ?
こちらに引っ越してくるまでの9年間、実に9回の秋、庭の掃除なんてどうしてやるんだ?とばかりに、全く手伝ってくれなかった旦那が、自分から率先して、草引き、芝刈り、垣根の剪定などなどをやってくれるようになりました。
まるで別人?

せっかくなので、道路前の方にも手を延ばし、とりあえずだいたいのところまで掃除しました。


葉っぱが無くなると、芝生の枯れた所が見えて、ちょっとみすぼらしい。
でも、写真の中にもある、ポールんちの、十号花火のような巨大カエデがこれからまだまだ落ち葉を作るので、もう一回は大掃除が必要のようです。

今日の掃除で、わたしが頭の先から足の先まですっぽり入る大きな落ち葉用紙袋が4袋、いっぱいになりました。
焼き芋したらおいしいやろなあ~……うっとり
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本当の気持ち

2010年11月10日 | ひとりごと
また、ひどい話の夢を見た。
昨日の寝しなに読んでいた本の中にとてもいいことが書かれていて、足元の湯たんぽもほどよく温かく、ほのぼのとした気持ちですぅっと眠りについた。
だからからか、朝6時半前に一度目が覚めた。
そしてまた7時に目が覚めて、わたしは多分、その時に起きておけばよかったのだ。


母がいた。そして大学生の拓人がいた。
母と拓人とわたしは、三人一緒に、どこか知らない電車の駅に着いていた。
そこは都会ではないのだけれど、電車の駅周辺だけが妙に大規模な建物が建っていて、おまけに地下にも数階、駅につながる通路やエレベーターやエスカレーターがあったりした。
拓人はその駅がある町のどこかで開催されているクラスか催し物に参加することになっていて、気がつくと居なくなっていた。
母は,わたし達を連れて行きたい所があるようで、いつものように注意深く、どの線のどの時間の電車に乗ったら間に合うか調べ、余分なお金を払って、特急に乗れるように切符を買ってくれた。

母とわたしは、そのややっこしい場所を少しでも把握しようとあちこち歩き回ったのだけれど、歩けば歩くほどわけがわからなくなる迷路のような構図になっていた。
こんなんじゃ、電車のホームを見つけるのは大変だなあと心配になってきた時、母が急に、「あ、もう時間が無い。そろそろ行かんと間に合わへん。拓人はどこよ?」とパニックになり、わたしはとにかく落ち着かせようと、彼女だけを先にホームに行かせることにした。
そして、駅前の広場の一角にある、急に大勢の学生達が降りてくるようになったバス停の方に向かって歩いていった。
何台のバスが到着しても、一向に拓人が降りて来ない。
もう間に合わない。時間が無い。今頃ホームに居る母は、やって来る電車に乗るべきかどうか決められずにイライラしているに違いない。
もうあと数分しか無いという時になって、降りてきた生徒の中に、ようやく拓人の姿を見つけた。
怒鳴りつけて、とにかくついてくるように叫びながらやみくもに走り回った。

ところが、どうにもこうにも道がわからないのだった。
エスカレーターを上りきると、そこは行き止まりだったり、通路を走り抜けると、全く別の店の中に入ったりした。
さすがに観念して、電車を諦めた途端、どうしようもない怒りが腹の底からこみ上げてきた。
拓人の服を引っ張り、建物の外に出て、獣のうめき声のような泣き声と一緒に、「なんで?なんで?なんで?」と叫びながら拓人を押し倒し、事もあろうに素手で彼を叩き続けている最中に目が覚めた。


起きた時、頭が固い物で押しつぶされているように痛んだ。
心臓が恐ろしいぐらいに早打ちしていて、息が苦しかった。
なによりも、気分が最低の中の最悪だった。

いったいこの夢は、わたしに何を言おうとしているのだろう。
一番先に考えたのはこのことだった。
わたしはいったい、どうして、こんな夢を見たのだろう。
わたしの無意識の海底には、どうしてこんなにも酷い話が埋もれているのだろう。

少しだけパニック状態が治まってくると、今度は母と拓人の間にある、本当は深くなんかないんだけれど、本人達は深いと思い込んでいる溝について考えた。
彼らはある事があって以来、お互いに心を開かなくなってしまった。本当は愛しているのに、そのことが見えなくなってしまった。
それはわたしにとってはとても悲しいことだけど、わたしが中に入って心配しても仕方の無いことなので、努めて忘れていたつもりだった。
あの夢の中でわたしはきっと、またいい関係に戻りつつあった彼らを見て、ホッとしていたのかもしれない。
母の前で、拓人に失態を演じて欲しく無かったのかもしれない。
また誤解がひとつ増えるか、この場合は誤解ではなく、彼が時間に疎かったのは事実なんだけど、そのことを過剰に怒るであろう母の反応が恐かったのかもしれない。
とにかくわたしは、心のバランスを計っている糸がプツンと切れたように、母から渡された電車の切符を握ったまま息子に襲いかかっていった。
起きた後も、自分の手のひらに叩いた時の痛みがまだ残っていて、それが辛くて涙が滲んだ。


拓人は毎日、会社で必死で働いている。
一人暮らしもまずまずうまくいっている。
会社の中では、グングンと頭角を現し、前回のプロジェクトでは組織の上の上の方まで名前を轟かせた。
働き始めてまだ半年も経っていないのに、彼独自のプロジェクトを任されて、今はとにかくそれを無事に終えることに没頭している。
出る釘はどんどん引っ張り上げる。アメリカの経営方式のいい部分が、彼をどんどん育ててくれている。

母は、白内障の手術を受けた後、思っていたようには症状が改善しなかったばかりか、前には無かった問題に悩まされている。
けれども体調はまずまず。機嫌もまずまず。口癖だった「生きていてもしょうがない」は一切口にしなくなった。


わたしが今読んでいる本の著者が、くり返し訴えている。
自分を尊ぶ気持ち、自身についての肯定的な考えがどんなに大切か。
良い人を演じたり、他人のために何かをしたりすることによって、自分には価値がないという思いを隠している。
価値が無いという考えは、健康に否定的な影響を及ぼす。

だからわたしが昨日の寝しなに考えたのはこういうことだった。
もっと正直に、いい意味で無邪気に、けれども自分の言動が巻き起こす物事についてはきちんと責任を持ち、暗い思考を心の中から追い出そう!
 

そんなわたしが、どうしてこんな夢を見たんだろう……。
コメント (2)
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