蓮實重彦先生が著書『映画時評 2009-2011』の中で絶賛している、是枝裕和監督・脚本・編集の'11年作品『奇跡』をWOWOWシネマで見ました。実際に映画を見てみて、この映画に関しては前著の158ページから162ページで語られていること以上に、私の方で特に付け加えることもないと思いましたが、構図の的確さ、編集の見事さには感心させられたものの、画面が(音楽についても)つい“叙情”に流れる傾向にあることについてはは、個人的な趣味として、あまり惹かれなかったと正直に申し上げておきたいと思います。なお、蓮實先生の著書は現在、定価税込1995円で新品が入手できます。
さて、先週の火曜日と水曜日('12年11月6日~7日)に、栃木県の足尾銅山跡と日光を訪ねてきました。
朝5時30分に自宅を出発し、相模湖ICから中央自動車道へ、その後、圏央道、関越自動車道を乗り継ぎ、前橋ICで一般道へ降りて、国道17号、国道50号で東に向かい、県道69号、県道78号、国道122号で北上。途中、銀山平方面へ左に曲がると、自宅から約4時間30分で、銀山平キャンプ場へ着くことができました。天気はあいにくの雨。人っ子1人いない中、傘を差しながら、最初の目的地、足尾銅山・小滝旧坑口付近にある“中国人殉難烈士慰霊碑”に到着。「大平洋戦争末期、中国から強制連行されて来た257名が、足尾銅山の労働に従事し109名が殉難された」との日光市による説明板があり、そこから立派な石段を登ると、高台の上に高さ5m以上はあると思われる立派な石碑があり、まずその大きさに圧倒されました。そこからは庚申川の渓谷の見事な紅葉も見られ、その素晴らしい立地に感動さえ覚え、石碑に向かって手を合わせて石段を下ると、登る時には気づかなかった、説明文が刻まれたこれまた立派な石版が左手に置いてありました。
そしてそこから、庚申川沿いに道を下っていくと、右側に青い小さな鉄橋がかかっていて、その橋を渡り、旅館“かめむら別館”の裏に回ると、そこには立派な“猿田彦神社”があり、そのあまりの立派さに私は思わず手を合わせました。(この時は雨がかなり強くなって、空も暗く、人気のない空気の中で、とても無気味な“お参り”となってしまいました。)
また橋を渡って戻り、川沿いに道を下っていくと、やっと次の目的地“小滝旧坑口(小滝旧坑跡)”が左手に見つかりました。道の左側の下の方に、やっと人が通れるぐらいの四角い穴が岩に開いていて、それが金網で塞がれ、横に説明板が掲げられているといったものです。そこからまた少し下って行くと、左に“小滝坑口(小滝坑跡)”があり、こちらは数メートル四方の四角い穴が開いていて、穴の周囲も石とコンクリートによってきちんと固められ、それが木の扉で塞がれ、その前には侵入を阻む鉄パイプが縦横に張り巡らされていました。そこからは昔トロッコで鉱石を運び出していたようで、坑口の前には立派な鉄橋がかかり、かつてそこにレールが敷かれていただろうことを想像させてくれました。そこの道路をはさんで手前右には、大きな岩壁がくり抜かれて凹面をなしている場所があり、そこには“旧小滝火薬庫跡”の説明板がありました。
そこから一旦駐車場に戻り、自動車で数分道を下って、“小滝の里園地”の駐車場に車を停め直し、徒歩で道を少し戻ると、登った道の右側に“小滝浴場跡(坑夫浴場跡)”があり、説明板とともに、石で囲まれた丸い凹みが屋外に残っていました。(当時は屋根、あるいはこの“浴場”を室内とするための小屋が立てられていたのかもしれません。)そこから下り、“小滝の里園地”に戻ると、下る道の左側には小滝選鉱所の跡があり、当時の建物の土台のレンガや石垣が残っていました。説明板では、ここに製錬所もあったと書かれていましたが、わたらせ鉄道の間藤駅前の地図によると、もう少し先の右の別の場所に製錬所があったと書かれていて、場所が一致しなかったのですが、間藤駅前の地図の場所には、製錬所があったと思われるような場所は探しても見つからず、おそらく現地の説明板の方が正しかったのでは、と思いました。(明日へ続きます‥‥)
→Nature Life(http://www.ceres.dti.ne.jp/~m-goto
さて、先週の火曜日と水曜日('12年11月6日~7日)に、栃木県の足尾銅山跡と日光を訪ねてきました。
朝5時30分に自宅を出発し、相模湖ICから中央自動車道へ、その後、圏央道、関越自動車道を乗り継ぎ、前橋ICで一般道へ降りて、国道17号、国道50号で東に向かい、県道69号、県道78号、国道122号で北上。途中、銀山平方面へ左に曲がると、自宅から約4時間30分で、銀山平キャンプ場へ着くことができました。天気はあいにくの雨。人っ子1人いない中、傘を差しながら、最初の目的地、足尾銅山・小滝旧坑口付近にある“中国人殉難烈士慰霊碑”に到着。「大平洋戦争末期、中国から強制連行されて来た257名が、足尾銅山の労働に従事し109名が殉難された」との日光市による説明板があり、そこから立派な石段を登ると、高台の上に高さ5m以上はあると思われる立派な石碑があり、まずその大きさに圧倒されました。そこからは庚申川の渓谷の見事な紅葉も見られ、その素晴らしい立地に感動さえ覚え、石碑に向かって手を合わせて石段を下ると、登る時には気づかなかった、説明文が刻まれたこれまた立派な石版が左手に置いてありました。
そしてそこから、庚申川沿いに道を下っていくと、右側に青い小さな鉄橋がかかっていて、その橋を渡り、旅館“かめむら別館”の裏に回ると、そこには立派な“猿田彦神社”があり、そのあまりの立派さに私は思わず手を合わせました。(この時は雨がかなり強くなって、空も暗く、人気のない空気の中で、とても無気味な“お参り”となってしまいました。)
また橋を渡って戻り、川沿いに道を下っていくと、やっと次の目的地“小滝旧坑口(小滝旧坑跡)”が左手に見つかりました。道の左側の下の方に、やっと人が通れるぐらいの四角い穴が岩に開いていて、それが金網で塞がれ、横に説明板が掲げられているといったものです。そこからまた少し下って行くと、左に“小滝坑口(小滝坑跡)”があり、こちらは数メートル四方の四角い穴が開いていて、穴の周囲も石とコンクリートによってきちんと固められ、それが木の扉で塞がれ、その前には侵入を阻む鉄パイプが縦横に張り巡らされていました。そこからは昔トロッコで鉱石を運び出していたようで、坑口の前には立派な鉄橋がかかり、かつてそこにレールが敷かれていただろうことを想像させてくれました。そこの道路をはさんで手前右には、大きな岩壁がくり抜かれて凹面をなしている場所があり、そこには“旧小滝火薬庫跡”の説明板がありました。
そこから一旦駐車場に戻り、自動車で数分道を下って、“小滝の里園地”の駐車場に車を停め直し、徒歩で道を少し戻ると、登った道の右側に“小滝浴場跡(坑夫浴場跡)”があり、説明板とともに、石で囲まれた丸い凹みが屋外に残っていました。(当時は屋根、あるいはこの“浴場”を室内とするための小屋が立てられていたのかもしれません。)そこから下り、“小滝の里園地”に戻ると、下る道の左側には小滝選鉱所の跡があり、当時の建物の土台のレンガや石垣が残っていました。説明板では、ここに製錬所もあったと書かれていましたが、わたらせ鉄道の間藤駅前の地図によると、もう少し先の右の別の場所に製錬所があったと書かれていて、場所が一致しなかったのですが、間藤駅前の地図の場所には、製錬所があったと思われるような場所は探しても見つからず、おそらく現地の説明板の方が正しかったのでは、と思いました。(明日へ続きます‥‥)
→Nature Life(http://www.ceres.dti.ne.jp/~m-goto