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足尾銅山跡と日光への旅・その2

2012-11-18 05:24:00 | ノンジャンル
 澤井信一郎監督・共同脚本の'98年作品『時雨の記』をWOWOWシネマで再見しました。始めは以前に見たかどうか定かではなかったのですが、吉永小百合さんが魚を2匹買うシーンで、前に1度見たことを思い出しました。見事な“ショット”からなる映画で、構図も見事なら、時に陰影深くなる照明と撮影も見事、雨や雪、時雨の降り方なども見事で、久石譲さんの音楽もこれまた見事。秋の嵯峨野から始まり、春の吉野で終わる美しい“メロドラマ”は、時としてショットとショットがぶつかる素晴らしい“活劇映画”にもなっていましたが、主演の吉永小百合さんと、渡哲也さんがあまり“映画的”な役者さんではないのが惜しまれる映画でもありました。

 さて、昨日の続きです。
 そこからしばらく下ると、対岸に石垣が見え、それがおそらく“小滝医局跡”と“中国人捕虜収容所跡”だと思われました。(建物は一切残っていないように見えました。)そしてもう少し下ると、左に石垣が現れ、それが“小滝小学校”と“第三中学校”の跡地で、中学校は左側の石垣の上、小学校はその右側の石の階段をかなり登ったところにかなり広い平地が作られていて、そこに小学校の校門の跡が残っていて、それに隣接する“新長屋”の跡にも平行に並んだ長い材木(おそらく土が流れるのを防ぐために置かれたと見られる)が残っていました。
 またしばらく下ると、対岸にまた立派な石垣が見え、それが“畑尾鉱員住宅跡”だと思われ、そこからもう少し下ると、右側に本日第2の目的地である“朝鮮人供養塔”の看板がありました。そこは自動車道から少し林を入った中にあり、そこここに、ただ卒塔婆が幾つか立てられているだけで(しかも、そのうちのいくつかは木に立てかけられた状態でした)、そのうちの一群の前に石を積んで作られた小さな祭壇があるだけで、“中国人殉難烈士慰霊碑”の立派さと比べて、そのあまりの質素さに唖然とするばかりでした。卒塔婆をよく見ると、そこには「朝鮮大学校歴史地理学部二学年 一九?六年 七月四日」という雨にかすれた文字や「二00六年」の後にハングル文字が書かれているものがあったりして、祭壇の脇に作られた掲示板のような木組みには千羽鶴が掛けられていたりもして、最近もここを慰霊のために訪れている方たちがおられることが分かり、私も手を合わさせていただきました。
 そこから車でかなり下ったところの左側には、“宇都野火薬庫跡”と思われるものがあり、廃墟化した木造の小屋と、「場内禁煙」「関係者以外立入禁止」の看板がゲートに掲げられていて、ゲートの手前には、石でできた水槽と思われるものも残っていました。
 その後、車に乗って国道122号に戻り、北上していくと、左側に「足尾建設(株)」という看板が立つ、立派な石垣でできたゲートがあり、これが足尾銅山の本丸であったことが分かりました。ゲートは半開きになっていましたが、「この柵内は鉱山施設です。一般の方の立入りは、お断りします。 古河機械金属株式会社 足尾事業所」という看板があり、内部の建物はすべて廃墟化しているように見えました。
 そこを過ぎ、“田元”の交差点を左折して県道293 号を北上すると、やがて右手に“わたらせ鉄道”の終点・間藤駅が見えてきます。それを過ぎ、三叉路を右折、次の三叉路に着くと、そこには廃墟化した巨大な足尾製錬所があり、まだ真新しく見える緑色の鉄橋がそこから間藤駅の方へ向かって伸びていました。その三叉路を左折し登っていくと、やがて左に“本山動力”(おそらく当時は変電所だったと思われる)の廃墟(モルタル造り)があり、その奥には“本山医局跡”(木造家屋の廃墟)がありました。そしてそのもっと奥には、“本山坑口跡”があり、それは鉄柵で侵入を阻まれた空地の奥にある、コンクリートでできた3つの大きな口坑道口で、その黒々とした口が何とも無気味だったのですが、その向かいには“本山鉱山神社”についての説明板があり、参道と思われる石畳が奥の山へと通じているのでした。(またまた明日へ続きます‥‥)

 →Nature Life(http://www.ceres.dti.ne.jp/~m-goto