'12年刊行のアンソロジー『君と過ごす季節 春から夏へ、12の暦物語』の中に収録されている、西加奈子さんの『立夏』を読みました。
道草辰雄は、リース会社に勤めている。部署は主にフォークリフトなどの建設機器を扱っている。道草は営業職である。営業職なら外回りだけでいいはずなのだが、人員削減のため、審査もせねばならず、残業は深夜に及ぶ。道草の朝は、布団の上での腹筋運動から始まる。トーストと紅茶の簡単な朝食を食べ、歯を磨き、顔を洗って、背広と言った方がしっくりくるスーツを着る。
「橋元が逃げた!」出社した道草は、上司である蝶田係長がデスクで叫んでいるのを見た。橋元は、この春入社した新入社員である。道草の部署に、新入社員は2人いた。橋元と諏訪である。が、諏訪は短いゴールデンウィークが明けると、出社してこなくなった。橋元も同じパターンであろう。昨日、連絡もなしに会社を休んだのだ。新たに自分の仕事が増えることを予測し、胃を執拗に撫でる者、えずく者、あああああ、と言い続けるもの、部署中の人間が絶望している。道草は五月病などとは無縁であった。販売会社から「はよ審査してくれや」のクレーム、ユーザーからは「金利が高い」のクレーム、職場の人間からも多々お叱りを受けることはあったが、橋元や諏訪のような五月病にはならなかった。それどころか、夏を迎える準備を始めた若葉や、遅ればせながら芽吹き始めた木々を愛でている際、うっかり時が過ぎるのを忘れてしまうことがあり、これが世に言う五月病か、なんと風流な、と思った次第である。「リチャードさん、二番に土方さんから電話です。」事務の琴山みづえが声をかけてきた。土方というのは道草が取り引きをしている、建設機器の製造販売会社社長である。「こらリチャードはよ審査せんかいこないだの件やどないなっとんねん!」「吉川工業様の件ですね。先日お話しした通り、頂戴した書類に記入漏れがございまして、改めてそちらに記入していただいてからの審査になります。」(中略)「こっちの無理を聞いてくれて金利が高いとはいえそれ以上のサービスをしてくれるのんも知っとる。」「ええ、ええ。」「いつもありがとう!」電話を切って、琴山みづえをちらりと見ると、山のような書類にホッチキス止めをしている最中であった。逆三白眼になった目、赤みを帯びた皮膚、道草と同じような天パの頭、道草がリチャードと言われるように、琴山みづえは赤鬼と呼ばれている。よく泣く。
その日は取り引き先を7軒回った。効率よく回ったつもりであったが、2件ほど愚痴やクレームに付き合い、社に戻ったのは夜の23時だった。戻ってからも、数件仕事が残っている。社に戻ったら、吉川工業から書類が届いていた。土方のためにも、今日中に審査せねばなるまい。道草は社でできる限りのことをし、あとは家に持ち帰って作業をすることに決めた。部署には、道草の他に植田という男が残っていた。「リチャード、お前まさか、帰るんか。」「はい、終電もありますし、残りは家で作業をしようと思いまして。」「知ってる、お前が眠る時間を削って家で作業してるんは知ってる。俺が言うとるんはお前この薄暗い社内に、娘に2ヶ月も会えていない俺を残して帰るんかいう、こ、と!」(中略)「植田さん、僕、終電も逃したようですし、残ります。」「知ってるお前リチャードやったらそう言うてくれること知ってる!」「ええ、残りましょう」「いつもありがとう!」道草は植田と共に会社近くのコンビニに行き、夜食を購入した。植田は道草が残ったのが嬉しいのか、きゃーきゃー言いながらおにぎりを選んでいた。だが、自ら残れと言った植田は、2時頃になると「しんどい」と言い残し、タクシーで帰って行った。道草は仕方なく、会社から6駅の自宅まで、歩いて帰ることにした。この半年ほど、部署の電気を消すのは、いつも道草の役目である。街路の木々はしんと静まり返り、ぽっかり浮かんだ月が、優しく目を射す‥‥。
テンポのよい独特の会話が魅力的でした。西さんのいい面が出た短篇だと思います。なお上記以降のあらすじは、私のサイト「Nature Life」(http://www.ceres.dti.ne.jp/~m-goto/)の「Favorite Novels」の「西加奈子」のところにアップしておきましたので、興味のある方は是非ご覧ください。
→Nature Life(http://www.ceres.dti.ne.jp/~m-goto)
道草辰雄は、リース会社に勤めている。部署は主にフォークリフトなどの建設機器を扱っている。道草は営業職である。営業職なら外回りだけでいいはずなのだが、人員削減のため、審査もせねばならず、残業は深夜に及ぶ。道草の朝は、布団の上での腹筋運動から始まる。トーストと紅茶の簡単な朝食を食べ、歯を磨き、顔を洗って、背広と言った方がしっくりくるスーツを着る。
「橋元が逃げた!」出社した道草は、上司である蝶田係長がデスクで叫んでいるのを見た。橋元は、この春入社した新入社員である。道草の部署に、新入社員は2人いた。橋元と諏訪である。が、諏訪は短いゴールデンウィークが明けると、出社してこなくなった。橋元も同じパターンであろう。昨日、連絡もなしに会社を休んだのだ。新たに自分の仕事が増えることを予測し、胃を執拗に撫でる者、えずく者、あああああ、と言い続けるもの、部署中の人間が絶望している。道草は五月病などとは無縁であった。販売会社から「はよ審査してくれや」のクレーム、ユーザーからは「金利が高い」のクレーム、職場の人間からも多々お叱りを受けることはあったが、橋元や諏訪のような五月病にはならなかった。それどころか、夏を迎える準備を始めた若葉や、遅ればせながら芽吹き始めた木々を愛でている際、うっかり時が過ぎるのを忘れてしまうことがあり、これが世に言う五月病か、なんと風流な、と思った次第である。「リチャードさん、二番に土方さんから電話です。」事務の琴山みづえが声をかけてきた。土方というのは道草が取り引きをしている、建設機器の製造販売会社社長である。「こらリチャードはよ審査せんかいこないだの件やどないなっとんねん!」「吉川工業様の件ですね。先日お話しした通り、頂戴した書類に記入漏れがございまして、改めてそちらに記入していただいてからの審査になります。」(中略)「こっちの無理を聞いてくれて金利が高いとはいえそれ以上のサービスをしてくれるのんも知っとる。」「ええ、ええ。」「いつもありがとう!」電話を切って、琴山みづえをちらりと見ると、山のような書類にホッチキス止めをしている最中であった。逆三白眼になった目、赤みを帯びた皮膚、道草と同じような天パの頭、道草がリチャードと言われるように、琴山みづえは赤鬼と呼ばれている。よく泣く。
その日は取り引き先を7軒回った。効率よく回ったつもりであったが、2件ほど愚痴やクレームに付き合い、社に戻ったのは夜の23時だった。戻ってからも、数件仕事が残っている。社に戻ったら、吉川工業から書類が届いていた。土方のためにも、今日中に審査せねばなるまい。道草は社でできる限りのことをし、あとは家に持ち帰って作業をすることに決めた。部署には、道草の他に植田という男が残っていた。「リチャード、お前まさか、帰るんか。」「はい、終電もありますし、残りは家で作業をしようと思いまして。」「知ってる、お前が眠る時間を削って家で作業してるんは知ってる。俺が言うとるんはお前この薄暗い社内に、娘に2ヶ月も会えていない俺を残して帰るんかいう、こ、と!」(中略)「植田さん、僕、終電も逃したようですし、残ります。」「知ってるお前リチャードやったらそう言うてくれること知ってる!」「ええ、残りましょう」「いつもありがとう!」道草は植田と共に会社近くのコンビニに行き、夜食を購入した。植田は道草が残ったのが嬉しいのか、きゃーきゃー言いながらおにぎりを選んでいた。だが、自ら残れと言った植田は、2時頃になると「しんどい」と言い残し、タクシーで帰って行った。道草は仕方なく、会社から6駅の自宅まで、歩いて帰ることにした。この半年ほど、部署の電気を消すのは、いつも道草の役目である。街路の木々はしんと静まり返り、ぽっかり浮かんだ月が、優しく目を射す‥‥。
テンポのよい独特の会話が魅力的でした。西さんのいい面が出た短篇だと思います。なお上記以降のあらすじは、私のサイト「Nature Life」(http://www.ceres.dti.ne.jp/~m-goto/)の「Favorite Novels」の「西加奈子」のところにアップしておきましたので、興味のある方は是非ご覧ください。
→Nature Life(http://www.ceres.dti.ne.jp/~m-goto)