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三崎亜記『コロヨシ! !』

2010-04-25 15:10:00 | ノンジャンル
 三崎亜記さんの'10年作品『コロヨシ! !』を読みました。
 樹(いつき)は高校2年生。床の上に置かれた、羽子板の羽に似た塵芥と呼ばれるものを、手に持った箒のようなもので跳ね上げて、腰につけた袋に収めていく様子を採点して争う「掃除」という競技をしています。この「掃除」は、国家管理の元、高校の3年間の間にだけすることを許されている競技で、国家の直轄校が圧倒的に強く、樹のいる一般校は全国大会で出場することで精一杯という状態です。樹は小さい頃から秘密裏に祖父から掃除を教えられ、自分の技に自信を持っていましたが、最初に出場した州大会で直轄校のレベルの高さを思い知らされます。それからは顧問から出される無理難題の訓練を樹は克服し、また謎の指導者からの手紙に従い、一年下の後輩の偲との血の滲むような練習の結果、2年の冬の大会で全国大会に出場することになります。そしてそこで、自分の父が掃除を国技にするために、直轄校が一般校に負ける場面を作る計画を立てていて、その実現のために自分が全国大会の八百長試合に出場させられていることを樹は知るのですが、偲とともに、これまでの自分たちの掃除への思いを試合にぶつけていこうと決意するのでした。
 歴史小説のような過剰とも思われる細部にまでわたる描写、異常に多い登場人物、そして470ページにも及ぶ分量に辟易して、途中からは飛ばし読みしてしまいました。樹と偲の間にやり取りされる感情や、樹の幼馴染みである梨奈の造形などに、ほとんどリアリティを感じることができなかったのも、この小説にノレなかった原因だと思われます。リアルな状況の中であり得ないことが起こり、そこからドラマが始まるというのが、これまでの三崎さんの作品の魅力だったのですが‥‥。この作品を読んで失望した方も、これだけで三崎さんを判断することなく他の三崎さんの作品を是非読んでみてほしいと思います。誉田哲也さんの武士道シリーズが好きな方にはオススメかも。

フリッツ・ラング監督『復讐は俺に任せろ』

2010-04-24 15:43:00 | ノンジャンル
 フリッツ・ラング監督の'53年作品『復讐は俺に任せろ』をDVDで見ました。
 警察の犯罪記録部にいたダンカンが拳銃自殺します。生前の彼は元ギャングで今は資産家のラガーナに買収されていて、その事実を書いた検事当ての手紙を残しますが、ダンカン夫人はその手紙を手にすると口止め料としてラガーナから金をもらうことにします。殺人課の刑事バニオン(グレン・フォード)は、「黙想の家」というバーのホステスであるルーシーから、ダンカンが誰かから金をもらっていて別荘まで持っていたという情報をもらいますが、数日後ルーシーは拷問の痕がある死体で発見されます。捜査をやめろという自宅への脅迫電話に怒ったバニオンは、ラガーナに目星を付けて直接彼の邸宅へ行き挑発しますが、今度は数日後バニオンの車に爆弾が仕掛けられ、バニオンの妻は車もろとも爆殺されます。復讐の鬼と化したバニオンは、聞き込み調査でついに「黙想の家」に出入りするラリーという男が爆破の手はずを整えたことを知り、「黙想の家」に乗り込みます。そこでラリーを見つけることはできませんでしたが、たまたまそこで女性に乱暴していたラガーナの子分のヴィンス(リー・マーヴィン)を見つけ、ルーシー殺しの話題を振ると、ヴィンスは逃げるように立ち去ります。そこに残されたヴィンスの情婦デビー(グロリア・グレアム)はバニオンに惹かれてホテルまで付いていきますが、ヴィンスの元に帰ると嘘がばれ、顔に煮えたぎったコーヒーを浴びせられます。病院からバニオンの元へやってきたデビーは、ヴィンスの命令で手下のラリーがルーシーを殺し、バニオンの車を爆破する手配をしたことを語り、バニオンはデビーをホテルにかくまった後、ラリーの元へ行き、全てを告白させますが、自ら殺すことはできず、裏切り者としてヴィンスらに処刑させるに任せます。ラガーナはラリーを川に沈めたと報告するヴィンスにデビーも殺せと命じますが、デビーは単身ダンカン夫人の家に乗り込み、夫人を射殺して、夫人に何か起こったら自動的にマスコミに公開する手はずになっていた、ダンカン夫人が隠し金庫に保管していた、ラガーナと警視長官らの不正を告発するダンカンが書いた書類を公開させ、次にヴィンス宅でも待ち伏せして、帰ってきたヴィンスの顔に煮えたぎったコーヒーを浴びせかけます。デビーはその場でヴィンスに撃たれますが、駆けつけたバニオンはヴィンスを追い詰め、結局殺すことなく彼を警察に引き渡します。ラガーナと警視長官が起訴された後、バニオンは昇進し仕事に復帰するのでした。
 冒頭の、机の上の拳銃のアップは同監督の『暗黒街の弾痕』を想起させる素晴らしいショットで、バニオンに挑発された後のラガーナのバストショットはドクトルマブゼにソックリでした。室内シーンのカメラの流れるような動きも見事の一語につきます(ちなみに撮影はチャールズ・ラングでした)。バニオンの妻の爆殺シーンとコーヒーを浴びせる2つのシーンの衝撃は何度見ても薄まることはないのですが(実際爆殺シーンではカメラが激しく揺れます)、グロリア・グレアムが登場するシーンは以前見た時よりも陳腐に感じられました。復讐の鬼と化すグレン・フォードの目の暗い輝きと、リー・マーヴィンの狂暴性だけでも見る価値のある映画だと思います。映画が好きな方なら文句無しに楽しめる一編です。なお、上よりも詳細なあらすじは、私のサイト「Nature Life」(http://www.ceres.dti.ne.jp/~m-goto)→「Favorite Movies」→「Fritz Lang(フリッツ・ラング)」の場所にアップしておきましたので、興味のある方は是非ご覧ください。

久しぶりに聴いた木住野さんのアルバム『Nocturne』

2010-04-23 13:59:00 | ノンジャンル
 私事で恐縮ですが、私は現在老人介護のためのデイサービスで働いています。去年の末に職場が変わったのですが、新しい職場のスタッフ中に、かつてハーモニカの全国大会で優勝した経験のある方がいらっしゃり、彼女は現在デイサービスの利用者をメンバーとしたハーモニカ倶楽部の活動をされています。たまたま私がピアノを弾けることを知った彼女はデイサービスのレクの時間に3ヶ月に約一回の割合で行われる倶楽部の発表会の時の伴奏の仕事を私に振ってくださり、そのおかげで数週間前から、私は約40年ぶりに自宅で毎日ピアノに触る生活を始めました。
 その時に振ってくれた伴奏曲以外にも、かねてから自分で弾けるようになりたいと思って楽譜を買っていた、木住野佳子さんの「Danny Boy」、グレン・グールド版のバッハ「ゴールドベルグ変奏曲」、そして誰の演奏という訳でもないのですが、やはりバッバの「主よ、人の望みの喜びよ」を練習しているのですが、原曲を確認したくなり、今朝、棚の奥にしまわれたままだった木住野さんのCD『Tenderness』『You Are So Beautiful』そして『Nocturne』を聴いたところ、『Tenderness』に収録されている「Danny Boy」を始めとする各曲の素晴らしさ以上に、「Nocturne」に収録されているクラシックの演奏の数々に魂が揺さぶられる想いがしました。以前に聴いた時には聞き取れなかった音のひと粒、ひと粒の美しさ、そしてその流れに時には涙するほど感動し、時には猛烈に自分で弾いてみたいという欲望に捕らわれたりもしました。ちなみに演奏されている曲は、ショパンの「ノクターン第20番 遺作」、ドビュッシーの「月の光」(「ベルガマスク組曲」より)、同じくドビュッシーの「2つのアラベスク第1番」、サティの「3つのジムノペディ第1番」と「お前が欲しい」(「お前が欲しい」は木住野さんによるアレンジが入っていたように感じました)、シューマンの「トロイメライ」(「子供の情景」より)です。サティの「ジムノペディ」などは何回も耳にしていたにもかかわらず、今までそれほどいい曲だと思ったことがなかったので、この曲の良さが分かるほどに自分が成熟できたのかなあとも思ったりしました。
 ということで、早速これらの曲のスコアを今日買ってきてしまいました。また、木住野さんのライヴを、東京に住んでいた時によく通った「Body & Soul」へ近いうちに聞きに行きたいとも思ったりしています。木住野さんを未だご存じない方、木住野さんの「Nocturne(ノクターン)」、オススメです。

木村敏『時間と自己』

2010-04-22 18:57:00 | ノンジャンル
 朝日新聞で紹介されていた、木村敏さんの'82年作品『時間と自己』を読みました。去年には26版が出版されていることから見て、ベストセラー本のようです。
 「もの」と「こと」の区別、離人症者を具体例にして語られる「こと」としての時間、分裂病者・鬱病者の時間、躁病者の時間などが説明されています。私が30年前の大学生時代に現役の教授をされていて、難解な著書「世界の共同主観的存在構造」を読ませていただき何とか理解することができた廣松渉さんの「こと」理論、ベルグソンの「時間」と「持続」、ハイデッガーの自己存在論、アリストテレスの時間論、ハイデッガーのアリストテレス解釈、サルトルの「対自」概念、ドストエフスキーによる癲癇の描写、それ以外にも多くの精神病理に関する理論が紹介され、またその説明への肉付けがなされています。
 ベルグソンの時間理論もハイデッガーの自己存在論も30年前にも理解しようと頑張ったのですが、結局何も判らず、今回の本でもやはりダメでした。ただ、私たちが時間を時計で確認する際、今何時何分何秒かを理解しようとするのではなく、「あとどれだけ」時間があるか、「もうどれだけ」時間がたったか、という捕え方をしているという指摘や、分裂病(統合失調症)は、遺伝的な素質を持って生まれた人が、幼児期に家庭内での不幸な対人関係の中に置かれた場合に発症しやすいという事実、分裂病の特徴的な症状には「被影響体験」(自分が他者に操られているように感じる、そもそも自己の存在が希薄である感じ)や「つつぬけ体験」(自分の内面が周囲の人に見透かされている、公開されていると感じる感じ)があること、分裂病者は相手に対して特有のぎこちなさを感じていて(「間がもたない」「流れに乗れない」などと表現される)、いつも真剣で遊びや余裕の精神に乏しいといった雰囲気を持っているということなどは、今後の生活をしていく上で大変参考になりました。そして何よりも、鬱病者は一般に消極的で中庸と慎重さを好みやすく、あるべき未来を「これまでのつつがない延長」と考える傾向にあること、躁病の発症は近親者の死と葬式に誘発されることが多く、躁病者にとっての現存在は永続的な祝祭で、それを妨害されると極度の怒りに捕われるという指摘から、もしかしたら私は実は鬱病でも躁鬱病でもないのかも、と思ったりもし、また「精神病という事態は、多くの身体疾患とは違って、われわれのだれもが持っているそれ自体異常でもなんでもない存在の意味方向が、種々の事情によって全体の均衡を破って極端に偏った事態にすぎない」という指摘も、私たちに生きる勇気を与えてくれるものでした。精神病に悩む人に是非読んでもらいたい本です。(難解なので、判る部分だけを拾い読みするという手もあると思います。)オススメです。

アンソニー・マン監督『ララミーから来た男』

2010-04-21 11:22:00 | ノンジャンル
 アンソニー・マン監督の'55年作品『ララミーから来た男』をDVDで見ました。
 「撮影に協力してくれたニューメキシコ州の住民に感謝します」という字幕。連発銃を持ったアパッチに襲撃されて弟を殺されたロックハート(ジェームズ・スチュワート)は、連発銃をアパッチに売った白人を突き止め復讐するために、運び屋をやりながらある町に辿り着きます。知り合った若い女性バーバラに塩湖の塩が無料であることを聞き、ララミーへ積んで戻ろうとすると、その町を牛耳るバーブ牧場の息子デイヴが手下たちとともにやってきて、自分たちの塩を勝手に盗もうとしたと言いががりをつけ、ロックハートを馬で引きづり、馬車をすべて燃やし、その上に馬もすべて殺そうとしますが、そこへトラブルメイカーのデイブの監視役であるヴィック(アーサー・ケネディ)がやって来てデイブを連れて帰ります。ロックハートは町に戻ると、そこにやって来たデイヴを殴り倒し、止めに入ったヴィックとも乱闘となります。デイヴの父でバーブ牧場主でもあるアレック(ドナルド・クリスプ)は、ロックハートに馬車などの弁償代を上回る金を支払った上で町をすぐに出てくれと彼に頼みますが、ロックハートは拒否して町に留まり、2日以内にアパッチが連発銃を200丁手に入れるとの情報を得て、銃の隠し場所を捜しまわります。デイヴは彼を殺そうとしますが、反撃され右手に傷を負います。デイヴの手下に囲まれ捕まったロックハートはデイヴに右手を撃ち抜かれてしまいます。デイヴは連発銃を隠していた岩山の頂上にヴィックと行き、アパッチに引き渡そうとしますが、感情の行き違いからヴィックはデイヴを射殺してしまいます。アレックは犯人をロックハートと思い込み復讐に向かいますが、返り討ちされロックハートは無実を主張します。やがてアレックは帳簿上の不正を発見し、ヴィックに説明を求めますが彼の説明に納得がいかず、自ら武器の隠し場所と思われる岩山の頂上に向かいます。ヴィックはそれを止めようとしますが、アレックが聞こうとしないため、崖からアレックを突き落としてしまいます。ロックハートによって発見されたアレックは一命を取りとめ、ロックハートが探している男がヴィックであることをロックハートに教えると、ロックハートは岩の頂上でアパッチに合図を送っているヴィックを捕え、登ってくるアパッチたちに向かって銃を積んだ馬車を落として撃退し、ヴィックにその場を去らせます。ヴィックは銃をもらえなかったアパッチたちの怒りを買って射殺されます。ロックハートは無事復讐を果たし、バーバラにララミーで待っていると告げて町を去るのでした。
 以上のあらすじだけでも人間関係が錯綜していることが分かっていただけると思いますが、これ以外にもアレックの元許嫁の女牧場主とか、ロックハートを襲う謎の男(ジャック・イーラム)などのエピソードもあり、長い長い西部劇でした。また、登場人物たちは決して笑わず(笑うのは女牧場主ぐらい)まさに50年代のアメリカを象徴する重苦しさを感じた映画でもありました。蓮實先生が盛んに言う「アンソニー・マンの坂」についても意識的に見たのですが、険しい岩山へ馬で登っていくシーンや、崖から人や物が落ちるシーン、ロックハートとその仲間のチャーリーが会うのもやはり岩山の上といった感じで、確かに岩山の坂を舞台として導入することで映画的な空間が実現されていたように思います。50年代の鬱屈した雰囲気を味わいたい方には特にオススメです。