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上野昴志『成瀬巳喜男の1960年代と現在』その2

2019-04-09 18:54:00 | ノンジャンル
 昨日の続きです。
 
 では当時の映画界での評価はどうだったのか。これが、現在の感覚からすると驚くほど低いのである。その一つの目安として、「キネマ旬報」の年間ペストテンを例に20位以内に入っている成瀬作品を以下に挙げてみる。まず60年の『女が階段を上る時』が14位、『娘・妻・母』が19位、64年の『乱れる』が19位、66年の『女の中にいる他人』が10位、遺作となった67年の『乱れ雲』が4位という具合で、あとはみな30位以下である。1951年の『めし』が同誌のベスト2になって以来、翌52年には『稲妻』が2位で『お母さん』が7位、53年には『あにいもうと』が5位、54年は『山の音』が6位で『晩菊』が7位、55年は『浮雲』がベストワン、56年は『流れる』が8位というように、50年代前半においては、ベストテンの常連だった観のある成瀬作品に対する評価が、60年代においては、ガタっと落ちるのである。
 「キネマ旬報」の新作評などに見られるのも、同じような傾向である。淀川長治の「のれんの古い大旦那」という言葉にもあるように、誰もが成瀬が大家であることを前提としながらも、物語の食い足りなさや、視点の古さを不満として述べたてるというような格好になっているのだ。たとえば、「成瀬の演出は、上等の銘茶のような味を随所に見せるけれども、結局において作者自身、トコトンまで人物を批判し、自分の主張を通すだけの勇気を持たない・・」(清水晶『妻として女として』評・「キネマ旬報」289号)というようなのが、その典型であろう。60年代においても比較的評価が高く、いま見ても成瀬の果敢な挑戦という感じがする『女の中にいる他人』などについても、小倉真美は、これをスタンダード版で製作したことを高く評価し、葬式のシーンにおいて小林桂樹が草笛光子の視線を感じるカット処理に「成瀬らしい的確さ」を見ながらも、ラストが「女の中にいる他人として痛切に迫ってこない」といい、その理由を、「成瀬的諦念」が、「告白後の夫と妻のエゴイズムの戦いに切り込」ませなかったためではないかとするのである(「キネマ旬報」408号)。
 こういった文章を読むと、思わず、「成瀬的諦念」とはいったい何か?といった反問を口にしたくなるが、しかし小倉真美の評は、ほかの成瀬作品の場合でも常に具体的なシーンの描写や演出に言及している点において、同時代の批評のなかで際立っているし、その点で現在の「キネマ旬報」などの新作批評の類より優れているといってもいいかもしれない。だが、そのことより、これらを見ていていまさらながら思うのは、映画ジャーナリズムにおける評価が、まず何よりも「新しさ」ということに価値の基軸を置いているということである。新しい題材や新しいテーマ、あるいは新しい才能や新しい表現といったことが、常にまず最初に求められ、評価されるのだ。もちろん、これは映画に限らず商業的なジャーナリズムの宿命というべき姿勢だろうが、そのことが、すでに戦前において名声を確立した成瀬巳喜男のような大家に対しては、ことさらマイナスに作用するのであって、そして、1960年代というのは、経済的な好況とそのさらなる展開としての高度成長に支えられて、文化・芸術・風俗の領域において、「新しさ」がより重要な価値となった時代だった。映画の場合はさらに、スタジオシステムの崩壊に直面した危機意識が、それに拍車をかける。そこから、思いもかけぬようなトンチンカンな評価ということもなかば必然的に出てくる。(また明日へ続きます……)

上野昴志『成瀬巳喜男の1960年代と現在』その1

2019-04-08 18:37:00 | ノンジャンル
 国立映画アーカイブが2005年に開催した「生誕百年特集 映画監督 成瀬巳喜男」のパンフレットに寄せられた上野昴志さんの『成瀬巳喜男の1960年代と現在』を全文転載させていただきます。

 たとえばいま、成瀬巳喜男の映画について考えるとして、『女が階段を上る時』、『娘・妻・母』、『夜の流れ』、『秋立ちぬ』の4作品を並べて云々するというようなことをするだろうか。題材から入っていくとすれば、『娘・妻・母』と『秋立ちぬ』を並べて比較したり、『女が階段を上る時』と『夜の流れ』を対比するというようなことになるかもしれぬが、それにしても、「成瀬巳喜男というようなのれんの古い大旦那が、ショッピングセンターの若旦那のような川島雄三と組んで」(淀川長治「キネマ旬報」264号)作った『夜の流れ』を、純然たる成瀬作品として語るのには躊躇するだろうし、いずれにせよ、強いてこれらを横並びにして考えるよりは、作られた時代に関係なく、もっと自由に対比させたり連関させるにふさわしい作品を選ぶのではないだろうか。
 こと改めてそんなことをいうのは、現在のわれわれが立っている場所と、これらの作品が、新作として登場してきたそのときとでは、同じ作品を問題にするのにも明らかな違いがあると思われるからである。この4作品は、1959年から60年にかけて製作・公開されているが、そのとき、同時代において1作ごとこれらに対するのと、1930年から67年までの37年間にわたる作品を、見られないものがあるとしても、とにかく成瀬作品として一望のもとに見渡しつつ考えるのでは、大きく隔たっているのである。これは、たんに時間的な隔たりではない。時代の変化を含めての映画をとりまく環境や、そのなかでの観客の意識や批評のあり方において、亀裂といってもいいほどの隔たりがあるのだ。それが、どのようなものだったのかを探ることで、成瀬が生きていた60年代と現在の差異を考えてみたい。
 実際、自分自身のこととしても、45年前に成瀬をどう見ていたのかはっきりと思い出すことができない。この4作品についても、『女が階段を上る時』はたしかに見た記憶があるが、それ以外はどうだったのか、はなはだ心許ない。まして、そこからどんな印象を受けていたのかとなると、さらに曖昧になる。ただ『女が階段を上る時』は、大学に入ったばかりの自分には銀座のバーなど知る由もなかったものの、高峰秀子が登っていく階段や、仲代達也がグラスを磨いているカウンターなどは、新宿あたりのトリスバーでもあれに近い造作は見ていたから、感じはよくわかったし、その薄暗い光線のなかに浮かび上がる高峰や仲代の顔は、なぜかのちのちまで長く記憶に残っていた。また、高峰の部屋における森雅之の顔や、高峰が加藤大介の家を訪ねていってその妻と話をしたあとの呆然とした立ち姿、そして、その地方に転勤になる森雅之を高峰が送っていったときの夜の駅の佇まいなどは、どうかした拍子にふと記憶の映像に甦ってきたりもしたが、それ以上に意識的にこの作品について考えようとはしなかったし、友だちなどと映画の話をするときに話題にのぼるようなこともなかった。
 ごく平凡なことだが、そんな折りに話題にのぼったのは、ゴダールであり、レネやルイ・マルやワイダや大島渚や吉田喜重であった。むろん、成瀬巳喜男という監督を知らなかったわけではないけれど、『浮雲』(1955年)の監督だということは知っていた。高峰秀子や森雅之のどこか疲れたような顔の記憶が、『女が階段を上るとき』の印象につながっていたと思うのだが、これ自体が、わたしの偽記憶でないという保証はない。だいたい、『浮雲』が公開されたとき、わたしは中学生だったのだから、常識的に考えればそのとき見ているはずはないのである。にもかかわらず、これが強く記憶に残っていたのは、両親がしきりにこの作品を話題にしていたからである。それを傍らで耳にしたわたしが、好奇心に駆られてこっそり親に隠れて見に行った可能性がないでもない(親に隠れて映画に行くのは、当時の中学生にとって当たり前のことだった)が、かりにそうだったとしても、中学生のわたしが『浮雲』に感動することはなかっただろう。もしかしたら、見たことすら後悔しながら、それでも高峰や森の顔の記憶につきまとわれていたかもしれない。だが、むろん、それも定かではない。(明日へ続きます……)

写真と資料で見る成瀬巳喜男映画の世界

2019-04-07 18:50:00 | ノンジャンル
 国立映画アーカイブが2005年に開催した「生誕百年特集 映画監督 成瀬巳喜男」のパンフレットに載った文章と写真をここに再録しておきたいと思います。

「豊田四郎監督に続いて、「生誕百年特集」の第3弾として今号と次号で特集するのは、成瀬巳喜男監督である。
 哀歓に満ちた女性の生き様に眼差しを注ぎ続け、“女性映画”の名手とも呼ばれた成瀬監督は、饒舌な台詞を排し、登場人物たちの視線のやりとりや小さな身ぶりの積み重ねによって情感あふれるドラマを練り上げてゆく独自の演出法で知られる。その手法は、ナンセンス喜劇を中心とした無声作品に携わった松竹蒲田撮影所、そこから移籍して野心的な演出を志したP.C.L.(後に東宝)の各時代を経由して培われた。やがて撮影監督の玉井正夫、美術監督の中古智といった東宝撮影所の名スタッフたちの協力を得て、個々の作品に映画芸術の一つの到達点ともいえる輝きを与えることになる。映画が繊細な光と影の芸術であることを改めて教えてくれるこれらの作品群は、いまや世界的な評価を得るに至っている。
 フィルムセンターは、1979年8月に当時としては最大規模の回顧特集を開催したが、それから四半世紀以上の歳月を経た生誕百年の本年、新たに収蔵されたプリントを加え、61作品でこの偉大な映画監督を回顧する。
 今号では、成瀬監督の作品にまつわるスチル写真や撮影時のスナップ写真、プレス資料を通じて、その作品世界を味わっていただけるような構成とした。(協力:川喜多記念映画文化財団)」

フレデリック・ワイズマン監督『ニューヨーク、ジャクソンハイツへようこそ』

2019-04-06 17:52:00 | ノンジャンル
 先日アテネフランセ文化センターで、フレデリック・ワイズマン監督・編集・録音・製作の2015年作品『ニューヨーク、ジャクソンハイツへようこそ』を観ました。
 公式サイトから文章を転載させていただくと、
「通りを歩けば英語以外の言葉がたくさん聞こえる。世界中からの移民とその子孫が暮らし、167もの言語が話され、マイノリティが集まり、エスニックな味と多様な音楽があふれる町、ジャクソンハイツ。『ここがニューヨーク?』と聞きたくなるけれど、実はニューヨークがニューヨークであるために、なくてはならない町だ。その理由は? そして今、その町のアイデンティティーが危機に瀕しているとしたら?(中略)
 本作でワイズマンの視点はジャクソンハイツのあらゆる場所、あらゆる人に向けられる。教会、モスク、シナゴーグ、レストラン、集会、コインランドリー…。地域のボランティア、セクシャル・マイノリティ、不法滞在者、再開発の波にのまれる商店主たち…。町を徹底して見つめることで、さまざまな人間が見えてくる。社会も歴史も見えてくる。What is アメリカ? ここに生きる市井の人々は、変化に直面し、時に憤りながら互いの悩みを話し合い、決して希望を諦めない。長年にわたってアメリカを観察し、記録し続けてきたワイズマン監督の面目躍如たる“町ドキュメンタリー”の傑作がここに誕生した。」

 189分にわたる大作でしたが、あっと言う間に見終えました。

かわなかのぶひろ『映画術の創始者 D・W・グリフィス』その2

2019-04-05 18:57:00 | ノンジャンル
 昨日の続きです。
 誘拐された子供が樽に詰められ河を流れるという処女作の『ドリーの冒険』(1908年)では、そのプロットはともあれ、まだアップもシーン途中でのカメラポジションのチェンジも行なわれてはいない。1909年の『小麦の買い占め』では、冒頭、種を撒く人を捉えたショットの美しさに目を惹かれる。グリフィス作品の大半を撮影したG・W・ピッツァーによる構図の素晴らしさである。このあたりからカメラポジションは頻繁に切り換えられるようになり、1911年の『女は嘲笑した』では、赤ん坊のアップが挿入されるショットに目を惹かれる。「スターダム」の著者アレグザンダー・ウォーカーによると、グリフィスは1908年の『黄金を愛するゆえ』(For Love of Gold)で、心の中にあるものを俳優の顔で表現しようとカメラを近づけたのがアップの最初であるというが、今日のように頻繁に使われているわけではない。むしろクロス・カッティングで盛り上げたり、カメラのポジション・チェンジによる視点の移動が、次第に闊達になってくる。
 1912年の『大虐殺』ではインディアンにかこまれた幌馬車隊と、救いに駆けつける軍隊のクロス・カッティングはもちろんのこと、俯瞰の大ロングと戦闘のまっただ中にカメラを据えたショットの切り返しによって、カメラは人間の視点を超えたところに立ってしまう。丘の中腹に据えられたカメラの前に、二頭のオオカミを配し、眼下の戦闘を捉えるのだ。オオカミが去ると、次にクマが横切るというこのショットはじつに印象深い。
 いっぽう、漁に出たきり戻らない夫を待ち続ける妻の姿を、寄せては返す波を背景にたんたんと描く、1910年の『不変の海』や、廃鉱を捨てて荒野を彷徨う3人の女性を、絶えず吹き荒ぶ砂嵐を背景に捉えた、1911年の『女性』では、カメラやカッティングの技術に目を奪われがちなグリフィス作品の俳優に対する演出を堪能させてくれる。この2作の神秘的ともいえるシンプルさには大いに魅せられた。
 グリフィスの俳優達は(作品がそうであるように)目的に対して直線的に動かない。いわゆる段取り芝居にはない「間」があるのだ。その素晴らしい「間」と表現技術の噛み合いは、1919年の長篇『大疑問』で堪能できる。リリアン・ギッシュの動きと、それを捉えるカメラの素晴らしさ。マスキングや背景の照明を落として俳優の表情をきわだたせる技法にふれると、映画になぜ色彩や言葉がついたのだろうと舌打ちしたくなる。これぞまごうかたなき映画である。日常の現実原則とは異なる世界なのだ。
 当日の上映はピアノ演奏つきである。これから映画を手がけようという若い世代にとってはけだし必見の機会といえよう。