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斎藤美奈子さんのコラムその119&前川喜平さんのコラムその80

2022-07-26 12:09:00 | 日記

 恒例となった、東京新聞の水曜日に掲載されている斎藤美奈子さんのコラムと、同じく日曜日に掲載されている前川喜平さんのコラム。

 まず7月10日に掲載された「暴力と言論」と題された前川さんのコラムを全文転載させていただくと、
「街頭演説中の安倍元首相が殺害された。犯人がどんな不満を抱いていたのか知らないが、決して許されない犯罪だ。
 暴力と言論は両立しない。僕は官僚を退職後、言論界の隅っこに居場所を得て、安倍政治を批判し続けてきた。無力感を感じることも多いが、発言をやめないのは、政治や社会を変えるのは言論だと信じるからだ。
 暴力は暴力を生む。暴力が強まれば、その暴力に対抗する暴力も強まる。テロが広がればテロ対策という名の国家の暴力が強まる。社会の中に暴力が溢(あふ)れると自由な発言が成立する空間が消えていく。言論が消滅すれば民主主義は死ぬ。
 日本の近現代史を振り返れば、1930年代初頭に政界や経済界の要人の暗殺が相次いだ。果ては陸海軍の軍人がテロを起こした。それは議会政治の衰退と表裏の関係にあった。ヤジも飛ばさずいきなり発砲した犯人の態度には、「問答無用」と犬養首相を殺害した五・一五事件の海軍将校と重なるものを感じる。
 暴力の増長は言論の衰退によって起こる。何も説明しない政治家、空疎な国会審議、権力への批判を忘れたマスメディア。言葉では何も解決しないという思いが人を暴力に走らせる。
 言論の衰退と暴力の増長の悪循環を止めるには言論を立て直すしかない。だから今言論が委縮してはいけないのだ。」

 また、7月13日に掲載された「遺志を受け継ぐ?」と題された斎藤さんのコラム。
「安倍元首相が銃撃された事件。11日の本欄では宮古あずささんが「自由な言論や民主主義への脅威」として論じられることを疑問視し、12日の特報面では高村薫さんが「『言論封殺』などと報じたのは非常に違和感がある」と述べた。
 私の考えもお二人に近い。事件の背景が十分判明していないうちに事件の方向付けを行うのは危ない。五・一五事件や浅沼稲次郎襲撃事件と並べて論じるのも、なんだか連想ゲームである。
 一方、単なる連想ゲームとはいえないが、元首相と世界平和統一家庭連合(旧統一教会)との結び付きだ。逮捕された容疑者は、母親が教団にのめり込んで家族が破壊され、教団と安倍氏がつながっている。もしこれが彼の妄想なら、理不尽は逆恨みである。が、教団幹部も元首相が教義に賛意を示し、関連団体にメッセージを送ったことは認めている。信教の自由ですむ話だろうか。
 参院選顎の会見で岸田首相は「安倍元総理の遺志を受け継ぎ、拉致問題や憲法改正など、ご自身の手で果たすことができなかった難題に取り組んでいく」と述べた。
 これも一種の宗教的なメッセージである。なぜ安倍氏の遺志を受け継がなくてはいけないのか。それを決めるのは主権者だ。政治の場で横行する宗教的な言説。政教分離も原則はどこへ行ったのだろうか。」

 そして、7月17日に掲載された「国葬には反対だ」と題された前川さんのコラム。
「なぜ故安倍晋三氏を国葬にするのか、全く納得がいかない。葬儀は弔いの儀式だ。弔いとは死者を悲しみ悼むのは人の心だ。国が葬儀をするということだ。僕は自分の心を動員されたくない。だから国葬には反対だ。特に安倍氏の国葬には大反対だ。憲法を破壊し、日本の立憲政治を堕落させた人だからだ。
 岸信介氏も含め歴代首相経験者の葬儀の通例である内閣・自民党合同葬なら、僕の心まで動員されないから、そこまで反対はしない。
 岸田首相が挙げた国葬の理由は、どれもこれも理由になっていない。「憲政史上最長」の在任期間が国葬に値するとは言えない。戦前最長だった桂太郎は国葬になっていない。「国内外から幅広い哀悼、追悼の意」というが、多くは社交辞令、外交辞令だ。「日米基軸の外交」は戦後の首相全員に当てはまる。「日本経済の再生」は事実に反する。「暴力に屈せず、民主主義を断固として守り抜くという決意を示す」というが、安倍氏を追悼することがなぜ民主主義を守る決意表明になるのか。
 国葬の本当の理由は、自民党内おきたいというの親安倍勢力を繋(つな)ぎ止めておきたいという党内政治だ。国民を巻き込まないでくれ。」

 どれも一読に値する文章だと思います。


立山芽以子監督『ムクウェゲ 「女性にとって世界最悪の場所」で闘う医師』

2022-07-25 05:14:33 | 日記

 立山芽以子監督の2021年作品『ムクウェゲ 「女性にとって世界最悪の場所」で闘う医師』を「あつぎのえいがかんkiki」で観ました。

 パンフレットの「イントロダクション」を一部加筆修正して転載させていただくと、
「アフリカ大陸、コンゴ民主共和国・東部ブカブ。
この地は「女性にとって世界最悪の場所と呼ばれている。
20年以上の間、
ここでは40万人以上の女性たちがレイプの被害を受け続けている。
その年齢は6カ月の赤ん坊から72歳の老人まで及ぶ。

膣が裂けるのはまだマシで、ひどくなると腸が体外に飛び出す重傷を負う女性までいる。
その女性たちの多くを無償で治療してきたのが婦人科医、デニ・ムクウェゲである。
彼のパンジ病院には、肉体的、精神的な傷を負った女性たちが運び込まれてくる。
年間で2500人~3000人。なぜ、このような犯罪が後を絶たないのか。

この地にはレアメタル、スズなど豊かな鉱物資源が埋まっている。
武装勢力はその利権を得るために、性暴力という武器をつかい、
個人の欲求とは異なる、組織的な性暴力。
ある時、ムクウェゲ医師は
「レイプを受けた女性の娘がまたレイプを受けてきた。
その根源を断ち切らない限り、コンゴの女性たちに平和は訪れない」と気づいた。
そして、この地で起きていることを世界に訴え始めたのである。
しかし、その勇気ある行動によって、自身の命を狙われることになる。

2018年、長年の活動にたいしてノーべ、ル平和賞が授与された。
しかし、ムクウェゲ医師の闘いは終わることなく、今も続いている。
本作はその闘いの日々を追ったドキュメンタリーである。
私たちが生きる、同じ世界で起きていること。
決して他人事と思ってはいけない現実がここにはある。」

 ムクウェゲ医師はまた、コンゴで不法に採掘されているレアメタルやスズの8割が日本のスマートフォンに使われていることを指摘し、日本を訪れた際、そのことを訴えていました。また彼は「利他」という日本語を気に入り、日本人のその精神に期待するとラストで述べていました。そして何らかのアクションおw日本でも起こしてほしいと。
 私にできることは、ここに文章を書くことぐらいですが、一人でも多くの方がこの文章に触れ、それをきっかけに「Change . org」で署名活動を始めるほか、街に出てデモを行うなど、様々な運動が起こることを期待したいと思います。
 監督の立山芽以子さんはTBSに所属するディレクターのようです。やっぱりTBS、恐るべしです!!
 またパンフレットには先に紹介した「イントロダクション」以外にも、「監督のメッセージ」、「プロダクション・ノート」、ムクウェゲ氏によるノーベル平和賞受賞スピーチ、同じくムクウェゲ氏による東京大学基調講演スピーチの抜粋、コンゴ民主共和国の歴史、ムクウェゲ氏の略歴、現在認定NPO法人開発教育協会(DEAR)事業主任であり、MPO法人アジア太平洋資料センター(PARC)理事である八木亜起子さんの寄稿、「語り」を担当した常盤貴子さんの感想が掲載され、800円という値段が信じられないほどの充実ぶりを見せていました。


アリソン・エルウッド監督『ローレル・キャニオン 夢のウエストコースト・ロック』&アンドリュー・スレイター監督『エコー・イン・ザ・キャニオン』

2022-07-24 06:33:09 | 日記

 アリソン・エルウッド監督の2020,年作品『ローレル・キャニオン 夢のウエストコースト・ロック』&アンドリュー・スレイター監督・共同脚本の2018年作品『エコー・イン・ザ・キャニオン』を「あつぎのえいがかんkiki」で観ました。どちらの映画もハリウッドから車で10分ほどの丘の上にある住居「ローレル・キャニオン」に住み、60年代半ばから70年代前半まで活躍したロック・アーティストを描いたドキュメンタリーです。

 前作に登場するアーティストは、ジョニ・ミッチェル、クロスビー・ステルス・ナッシュ&ヤング、バッファロー・スプリングフィールド、ザ・バーズ、ザ・ママズ&パパス、ザ・ドアーズ、アリス・クーパー、ザ・モンキーズ、ラヴ、ザ・タートルズ、ジャクソン・ブラウン、リンダロンシュタット、J・D・サウザー、イーグルス、ロニー・レイット、リトル・フィート、ザ・フライング・バリット・ブラザースなどで、特にジョニ・ミッチェル、クロスビー・スティルス・ナッシュ&ヤング、ザ・ママズ&パパス、ザ・ドアーズ、ジャクソン・ブラウン、リンダ・ロンシュタット、イーグルスが強くフィーチャーされ、単なる音楽映画というよりも、いい意味で「哲学的」で「歴史的」で「情動的」な映画となっていました。
 後者は、現在から60年代中頃から70年代前半を照射した作品で、扱われていた主な作品・アーティストは、ビートルズをコピーしたモンキーズ、ザ・バーズ、ザ・ママス&パパス、ビーチ・ボーイズの『ペット・サウンズ』、またそれに影響されてできたビートルズの『サージェント・ぺバーズ~』、バッファロー・スプリングフィールド、そしてジャック・ドゥミ監督の映画『モデル・ショップ』でした。ちなみに当時のアーティストたちにインタビューし、またトリビュート演奏をしていたのは、ボブ・ディランの息子ジェイコブ・ディランでした。
 そしてこの2作品を観ることによって、私は帰宅するとすぐに、アマゾンで、『ペット・サウンズ』と『サージェント・ペパーズ~』を買うはめになってしまいました。それだけ喚起力に優れた映画でした。


ジャン=リュック・ゴダール監督『気狂いピエロ』

2022-07-23 01:32:45 | 日記

 ジャン=リュック・ゴダール監督・脚本・台詞の1960年作品の4Kレストア版『気狂いピエロ』を「あつぎのえいがかんkiki」で観ました。
 サイト「映画ウォッチ」の「ネタバレあらすじ」に一部加筆修正させていただくと、
「舞台は1960年代のフランス、パリ。フェルディナン(ジャン=ポール・ベルモンド)は、裕福な妻マリア、そしてまだ幼い娘と共に生活を送っていました。しかしその恵まれた生活がフェルディナンには退屈でしかなく、離婚することすら面倒で、空虚な毎日が続いています。
 そんなある夜、フェルディナンは嫌々パーティーに出席することになりました。娘の子守として友人フランクの姪、マリアンヌ・ルノワール(アンナ・カリーナ)がやって来ます。
 渋々家を出たフェルディナンは、退屈なパーティーに嫌気が差して1人先に帰宅します。パーティーにはアメリカの映画監督サミュエル・フラーがいてモーパッサンの『悪の華』の映画化を考えていると話していました。そして家で待っていたマリアンヌはもう帰る地下鉄もないので、フェルディナンが車に乗せ、彼女の家に向かいました。2人は色々なことを語り合い、以前、恋人同士だったこと、そして今でも愛し合っていることを確認します。
 マリアンヌはフェルディナンのことを「ピエロ」と呼んでいました。フェルディナンはその度に訂正します。マリアンヌを自宅に送り届けたフェルディナンは、そのまま彼女と一夜を共にしました。
 翌朝。目を覚ましたフェルディナンは、マリアンヌが用意してくれた朝食を上機嫌で食べます。しかし彼女の家には異様なものがありました。ハサミを首に突きたてられた男の遺体です。そこへ訪ねてきた男をマリアンヌは今度は頭を殴って倒します。
 2人は罪から逃れるため、着の身着のままで家から飛び出します。2人はガソリンスタンドで従業員に暴行を加え、ガソリン代を踏み倒します。更に事故に見せかけて車を燃やしたり、盗んだりして逃げ続けました。マリアンヌは、南仏に住む兄フレッドを訪ねようと提案します。
 逃避行の末、フェルディナンとマリアンヌは海辺で2人きりの生活を始めました。文学を愛するフェルディナンは本を何冊も買い求め、読書に没頭しています。創作のような日記も書いていました。フェルディナンにとっては不満の無い生活でしたが、マリアンヌは退屈でなりません。
 うんざりしたマリアンヌは、ここを出たいと言い出しました。2人は金を稼ぐため、アメリカ人相手にベトナム戦争をテーマにした芝居を披露します。金を多めに奪ったマリアンヌは、我慢出来ずに街に戻りました。
 フェルディナンが1人で過ごしていると、マリアンヌから助けを求める電話がかかって来ます。フェルディナンが慌てて駆けつけると、室内にはハサミで首を刺された小男の遺体がありました。フェルディナンが動揺していると、2人組のギャングが現れます。
 彼らは自分達の仲間を殺害し、金を奪って逃げたというマリアンヌを探していました。マリアンヌの悪事を知らないフェルディナンは、拷問の末に解放されます。心身ともに疲弊しつつも、フェルディナンはマリアンヌを探し続けました。
 フェルディナンとマリアンヌの再会はトゥーロンの港でした。マリアンヌの方もフェルディナンを探していたと言います。彼女はフレッドと合流していました。フレッドは武器の密売を行っているらしく、マリアンヌに請われてフェルディナンもギャングとの取引に加担させられます。
 しかしマリアンヌは金を受け取ると、フェルディナンを置き去りにしてフレッドと逃げてしまいました。フェルディナンは2人を追いかけ、射殺。その後、顔に青いペンキを塗りたくり、ダイナマイトの束を巻きつけます。マッチの火が導火線に移り、慌てて消そうとしても間に合いませんでした。ダイナマイトが爆発し、この映画は終わりを迎えます。

 ヒッチコックのバーナード・ハーマンを彷彿とさせる音楽、引用に次ぐ引用からなるベルモンドのモノローグ、そして映画的引用(サミュエル・フラー、ベルモンドによるミシェル・シモンのモノマネ、ジャン=ピエール・レオ、ジーン・セバーグ)を含む、原色が美しい映像、それぞれが独立しながら有機的なつながりを持ち、まさに「映画」、それも情動的な(ヒッチコックやトリュフォーが言うところの「パッショネイト」な)究極の「映画」を現出させていました。
 そしてこの映画のなりよりも魅力的な点はアンナ・カリーナの存在で、彼女はこの映画の中で2曲の歌を歌い、また人を二人殺し、最後にはベルモンドに殺されてしまうのですが、彼女が主役でなければ、当時のシネフィル(映画狂い)は、あれほど熱狂しなかったに違いありません。
 この映画は今まで私も何度も見ているのですが、見るたびに新しい発見があり、まさに生きている映画なのだと思いました。