どこまでだって歩いていけるさ

2012年1月22日 それまでの日記を引き連れてOCN Cafeから移住。
新しい扉の向こうには何があるのだろうか。

友人の決断

2010年05月06日 | 日記
本格的に仕事が再開するのは来週になるのだろう

そういうわけで今日は忙しくはなかったのだが ISMSの会議があった

社長も含めて会議の出席者一同が それぞれ不愉快な気分を抱きながら終わった 

こんな馬鹿げたことで 一日の気分を台無しにして不味いビールを飲むのは私の好みではないので

深くは考えずにおこうと決めながら帰宅した

そもそもその価値もないのだが 仲良し君は あ~これで今日も飲んじゃうんだよな~と

(酒好きではない彼が飲むというのは お姉ちゃんのいる場所でという意味 私とはそもそも飲み方が違うのだが)


自宅近くになって鍵を出そうとしたら 携帯にメールの着信があるのに気がついた

話はそれるが 私はほとんど携帯を見る習慣がない

たまたま気がついた時に見るだけなので 数少ない知人には迷惑をかけているようだけれど


電話をしたら 仕事を辞めるという

まぁ 今までにも何度もあった彼女のことだから さほど驚きはしなかったが・・・ 

ストレスだという

病気のこともあって これを治すのにはこの職場を去った方が良いと判断したようだ

すべて 本人の受け取り方であり 流し方であり 選択である

私だってストレスの中で生きていると言ってみたところで 何の説得力も無いことはよくわかっている

だから それは我侭だとか無謀だとか 逆に羨ましいとか そういった感情は一切沸き起こってこなかった

信じている人間の下した決断は どうであれ 尊重し見守る

これは私が家族から学んだことであり 父とは一番対立した考えでもあったのだが


私は パズル好きである

最近は数独(ナンバープレース)が流行しているが 誕生当初から知っている

ペンシルパズルと呼ばれるものは 他にも数多くある

それをやっていて 面白いことに気がついた

難問になると 仮定を強いられる

仮定が正しいか 正しくないかを判定するのに 何手か先まで進まないとわからないものがあるのだ

矛盾が早く見つかれば 最初の仮定が間違っていたとわかる

ところが 何手先を行こうとも矛盾が見つからない場合がある

仮定が正しかったのか それとも最後の最後で間違いが見つかるのか

仮定が間違いだったとすぐにわかれば良いのにとも思う

間違ってはいないと思いながら進むのも それはそれで不安なものなのだ

(次元は全く違うが 数学における証明も同じようなものらしい)


生きるということもこれに似ているなと 最近感じている

間違ったとわかるまでは 間違いには気がつけない

ただし パズルはやり直すことができる

人生はそれができない

ただ 学んでいくのみだ

どうであれ 正解の人生なんて無いだろうと私は思っている

父が亡くなる前に言った言葉 

俺の人生はまずまずだった

私は このまずまずが 最高に思える

時として 比較級が最上級よりも上をいく表現


彼女の選択が間違いでなかったことを証明するのは 彼女自身の今後の生き方にかかっている

でも私は友人として 少なくとも彼女がこの決断を後悔することはないだろうということだけは確信している
  
コメント
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