結城嘉美『やまがた植物記』は、大変面白い植物エセーである。著者の結城嘉美氏は、学校の先生のかたわら、教員植物科検定試験に合格し、山形中学で長年博物科を教えた。その後山形市教育長、山形博物館長を歴任、いわば山形の植物学の泰斗である。そのなかに、「われもこう」という一項がある。私はこのブログに3年ほど前、歌手のすぎもとまさしが歌う「吾亦紅」に惹かれ、一文を書いた。この文が共感を呼んだと見えて、この文にアクセスする人がいまだに続いている。結城嘉美氏によると、ワレモコウの分布は、関東から宮城、岩手へと北上したが、山形には限られたところしか分布しないめずらしい種類であったらしい。
今では、山辺の農家で栽培されていたり、山形野草園の遊歩道の道ばたに生えているのを容易に見ることができるが、この項に書かれている昭和33年頃は、これを見つけることが貴重なことであった。結城氏へ仙山線の高瀬駅の付近に吾亦紅が野生しているという知らせが、友人の土井敬正さんから届いた。その場所は、戦時中のにわかごしらえの飛行場の跡で、山形刑務所の建設が始まっていた桑畑の一角であった。その場所で行き会った二人が探して見つけた吾亦紅は、わずか三株であった。この場所に置いておけば、絶滅も危惧されたので、二人は一株づつ持ち帰って自分の庭に植えた。
羽前には一株で候吾亦紅
結城氏はこんな風にしゃれて、二人で笑ったと書いてある。縁は異なもので、私はこの土井敬正先生の家に間借りしていた。会社勤めをして間もなくの頃、薬師町で千歳公園の近くに土井宅の一室を借りた。同じ間借りに、大学の研究者で若き大川健嗣さんもいられたように記憶している。土井先生は私立の高校の先生で寡黙で、いつも鉢植えの植物の世話をしているような人であった。同じ年ごろの息子もいて親しくなったがその後何十年も会ったこともない。土井宅にいたのは昭和39年頃であるから、持ち帰った吾亦紅は庭の隅で増えていたに違いない。当時植物には何の興味もなかったので、それがあったことを見たことも聞いたこともない。