尾瀬には懐かしい思い出がある。まだ入社し
て間もない1970年ころ、同僚にコーラスを
している男がいた。その人が口ずさんでいた
のが中田喜直が作曲した「夏の思い出」であ
った。その歌詞に惹かれて尾瀬の行ってみた
いと、痛切に思った。今日、喜寿を過ぎてな
お山に登り続けるのは、このときの渇望に似
た切な過ぎる思いが、なお心の底に生き続け
ている故であるかも知れない。
夏がきうれば思い出す
はるかな尾瀬とおい空
きりの中に浮かびくる
やさしい影 野の小路
みず芭蕉の花が咲いている
夢見て咲いている水のほとり
しかし、この歌の通り、車のない時代の尾瀬
は遥かな地であった。山登りを初めて、今回
で3度目の訪問であるが、その深い山並みに
抱かれた湿地は、その度に大きな感動を与え
てくれる。
今回は、天気の都合で、9日に至仏山に登り
翌日山の鼻小屋から、富士見平を歩く日程と
なった。
戸倉の駐車場に車を置き、シャトルタクシー
が鳩待峠の登山口に着いたのは、7時15分、
装備を整えて、至仏山への登山を開始したの
は7時38分であった。笹が生える登山道には
木道が敷かれ、その先のダケカンバやコメツ
ガの林は、霧のなかである。「夏の思い出」
に歌われている通り、尾瀬ヶ原は霧の似合う
登山道であった。
深田久弥が初めてこの地を訪れたのは、大正
15年10月である。このとき、深田とその仲
間は利根川をさかのぼり、湯ノ小屋で温泉を
使い、沢筋を詰めて至仏山の頂上を目指した。
今のように木道を敷き、脇の笹や雑草を刈り
払った登山道があるわけではなかった。滝の
飛沫を浴び、渓流を渡渉し、岩に摑まり、露
出して滑る蛇紋岩に足を取られ、息を切らし
ながら登っていった。
我々は霧の中の樹林帯を過ぎ、板敷の階段を登
り、次第に森林限界を超えて、尾根道に上がる。
ここで、日曜日だけに、大勢の登山者が行列を
なして至仏山を目指していることが分かった。
特に目をひくのは、若い世代のグループ登山で
ある。地元の若人に加え、関東、東京方面の人
々が多い。霧の切れ間から、尾根の左に深い渓
や緑の山が顔を出す。しかし目指す至仏山の頂
上はなお霧のなか。
深田のグループは、尾根から頂上を見て素晴ら
しい紅葉に出会ったいる。
「悠揚たる至仏の全容が現れた。満山の紅葉だ。
その間に点点と浮島のように岩石が聳立してい
る。優美な紅葉の色調と、それを緊めるような
峻厳な感じの厳石と、双方相俟って実にみごと
な眺めだった。」深田久弥は、『わが山山』の
「至仏山」の項のこう書き記している。
我々は、行違う登山者とあいさつや言葉を交わ
しながら頂上に向かう。やっと頂上と思うと、
頂上はその先である。2度、3度と頂上を思い
違えた。「今度違ったたら、笑ってしまうね。」
と仲間の一人が言う。先頭に立っていたリーダ
ーが手を差し出して握手を求める。そここそが、
歩き続けた頂上であった。
歩きはじめて4時間あまり、頂上へ着いたの
は11時10分。眼下に見える筈の尾瀬ヶ原も
目の前の燧ケ岳も霧のなかに隠れていた。風
が吹いて肌寒い感じがする。ここでの昼食は
避け、少し下って岩陰で風を避けながらとっ
た。帰路は高天ヶ原を通らず、往路をピスト
ンする。このコースは蛇紋岩が露出して、急
坂な上滑りやすい。多くの登山者が危険を避
け、岩でなく草地を歩くようになったために
荒廃し、しばらく通行禁止であった。近年再
開されたものの、下山でこのコースを使うこ
とは禁止されている。鳩待峠からの登山道で
大きな荷物を背負った歩荷の姿が見られる。
尾瀬では、自然保護の意識が強い。ヘリコプ
ターで荷揚げを減らし、今なお人力による荷
上げが行われている。湿地はもちろんのこと
山中でも木道が多く敷かれている。これも、
人が歩くことで、山の自然破壊を減らす工夫
である。確かに自然の石道に比べると歩きや
すいのだが、木道を歩きなれない身には、や
はり疲れる。15時9分、鳩待峠まで下る。こ
の日は、さらにここから山の鼻小屋までの木
道を歩く。16時20分、小屋着。何よりも汗
を流す風呂がうれしい。このひと風呂で、一
日の疲れも流されていく。5時夕食、この日
も生ビールのジョッキで乾杯。