常住坐臥

ブログを始めて10年。
老いと向き合って、皆さまと楽しむ記事を
書き続けます。タイトルも晴耕雨読改め常住坐臥。

梅雨明け

2020年07月16日 | 日記
長雨がやっと先が見えてきたようだ。週末には前線がぐっと南下して雨は小休止、そのご一気に北上して、梅雨明けになる、という予報が出ている。梅雨前線というのは、大陸の冷たい高気圧と南の太平洋高気圧の間にできる。この前線に向かって湿った空気が流れ込んで、雨になる。梅雨の間は、冷たい空気と暖かい空気のせめぎ合いで、今年は両者ががっぷりと組みあって停滞した。これが、長雨や大雨になった背景である。ここへ来て、この二つの気団に、変化が現れはじめた。太平洋高気圧が次第に勢力を強めはじめて、週明けの頃には、前線がおおきく北へ持ちあがれる。

こうなると、一気に夏の盛りになる。四万六千日というものがある。寺の縁日のひとつで、この日に参詣すると、四万六千日分の功徳があるとされる。7月10日ごろにあたるが、寺ではほうづき市などが催される。そればかりではない。金魚屋、風鈴屋、灯篭屋、虫屋などの屋台がならんで、参詣帰りの客で賑わいを見せた。夏の風物詩である。コロナ禍の最中にある今年の縁日はどんな様子でったであろうか。

夏の海に行かなくなってから久しい。海パンを穿いて、裸足で熱い砂の上を歩いて、氷水を買いに行った記憶だけが残っている。
「沖には今日も夥しい夏雲がある。雲が雲の上に累積している。これほど重い光りに満ちた荘厳な質量が、空中に浮かんでいるのが異様に思われる。その上部の青い空には、箒で掃いたあとのような軽やかな雲が闊達に延び、水平線上にわだかまっているこの鬱屈した雲を瞰下ろしている」(三島由紀夫『真夏の死』
こんな、夏空が、あと少しで見られるようになる。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

2020年07月14日 | 日記
今年の梅雨は雨の日が多い。梅雨といえば雨が多いと決まっているが、空梅雨の年もあるし、適度に梅雨の晴れ間がやってくる。この2週間というもの、陽ざしがほぼなく、ずっと雨の日だ。そんななか、稲の分結が進んだ。田の緑は一段と濃くなって、もう2週間も経つと出穂が始まる。考えて見れば、田植えしてから、刈り取りまでは4か月という時間で稲は一生を終えるので、田を半月ぶりでみたりすると、その様子の変わりように驚くのも当然である。

ここの引っ越してからもう40年も経つが、当時はまだ建物の周りには田が多く残っていた。子どもたちの夏休みが始まると、夕涼みに表にでると、田の畔に蛍が飛ぶのが見えた。捕まえて家に持ってきて観察して楽しんだこともある。少しばかり荒地があって雑木や草むらに雉が住み着いていた。「ケーン、ケーン」という澄んだ鳴き声で目を覚まされたのも、今となっては懐かしい。それよりも、田植え後の蛙の合唱は、田がなければ聞くことができない。

刈り取って米を収穫する以外に、田からは様々な副産物が採れる。街うちの田では、無理だろうが、ドジョウ、タニシ。それからイナゴ。これらは、泥を吐かせたり、手間をかけた佃煮にすることによって貴重な栄養源になる。結婚したばかりの頃、同じ貸家の隣人に誘われて、刈り取った田へタニシ採りに行ったことが忘れられない。しっかり泥を吐かせたタニシは、味噌汁にするとびっくりするような美味であった。

蛍とぶまだ薄闇のやはらかき 能村登四郎
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

風について

2020年07月13日 | 日記
九州で集中的な豪雨である。昨日あたりからややその威力は弱まりつつあるが、まだまだ予断を許さない。その地域に住む人々の、風雨に対する恐怖は想像にあまりある。このような自然の暴走に対しては、人間の力は限りなく小さい。営々として住み慣れてきた家が、一夜のうちに水に流され、裏山の土砂に埋もれたりする。文明が高度の発展を見せている現代ですら、現実は高気圧や低気圧の発生に対して、変化が起きてくれることを祈る以外に、災害を避ける方法は見当たらない。

古代、人々が風や雷をどう考えてきたか、興味があるところだ。風は古代では、人々は目に見えない妖怪と考えていたようだ。山野を歩いて急に寒気がしたり熱が出たりすると、「トウリミサキ行き会った」とか「ミサキカゼに会った」とその原因を風にあると考えた。「ミサキ」とは御先で神を先導するものであった。八咫烏や狐もこのミサキの仲間で、古事記では神武天皇を先導したのは八咫烏である。

ミサキは大きな神から離れ、さまよえる精霊として山野で行き会う人にタタリをするようになる。旅をする人々に恐れられ、やがて不慮の死を遂げた死者の霊もミサキとして恐れられ、埋葬し供え物を祀られるようになった。「梁塵秘抄」で「丑寅みさき怖ろしや」と唄われたのも、このミサキである。

海荒れもまた人々を恐れさせた。北西の風が激しく吹きつのり、海面は荒れて泡立つ。いわゆる「お忌み荒れ」である。セグロウミヘビが砂浜に打ち上げられることがある。人々はこれを龍蛇神として、尊崇の対象になった。この蛇を三宝に乗せて、神殿に供えるは、出雲の神在祭の儀式である。人々は、自然の変異をただ神のなせることと考え、神殿でお祈りをしてタタリから逃れようとした。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

栗川稲荷神社

2020年07月12日 | 日記
上山の阿部鯉屋から東に200mほどのところに栗川神社がある。ここは、山登りの仲間の待ち合わせ場所に使うくらいで、参拝したことも、参道を見学したこともない。春雨庵の近くにあるので、少し歩いて神社のなかを巡ってみた。鬱蒼と茂る樹々のなかに、朱塗りの鳥居が、数え切れないくらいに建ち並んでいる。

この稲荷神社は、備中国庭瀬藩(現岡山県北区)城主松平信通の守護神であった。元禄10年、藤井松平家はここ上山藩へ国替えとなり、この稲荷神の本体も藩主とともに上山へと下ってきた。途中埼玉県久喜の辺りの栗橋で泊っていたが、城主の夢に稲荷神のお告げあった。早く利根川を渡らなければ大変なことになると、いうお告げあった。夜中ではあったが、信通は同道の一行を起こして夜の内に利根川を渡り切った。

そうこうしている内に、一転空はかき曇り、土砂降りの大雨となった。利根川が大氾濫となり、一帯は大きな洪水被害となった。城主は、稲荷神のお告げで一命を救われたのである。これに感激した信通の稲荷神への帰依は厚いものとなり、上山城に着くと、城内に社殿を設け、名を栗橋と利根川の一字づつをとって栗川稲荷神社とした。その名稲荷からも想像できるが、稲作の田の神が後に狐が神の使いであることから、狐が祀られるようになる。狐の尾の形が如意宝珠の形しているところから現世利益に縁起よいとされ広い信仰を集めている。

ウォーキングの効用は、こんな歴史的なスポットに、注目してその由来を調べる楽しめるのも、その一つだ。山形市で始めた「健康マイレージ」にも、歩くための様々な動機付けが工夫されている。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

春雨庵

2020年07月11日 | 日記
小雨のなか上山温泉まで散歩の足をのばした。阿部鯉屋の脇の空き地に車を停めて、松山という町のなかの道を、春雨庵めざして歩いた。5分ほど歩いただけで、民家のなかに隣り合わせて草ぶきの屋根に苔むす庵についた。入館料が要るはずであるが、チケットを売る人もいず、茶室の障子も鍵がなく、開けると狭い茶室を覗くことができる。

聴雨亭とい茶室の脇は、茶庭になっていて、季節の紫陽花が咲き誇っていた。小雨のなかで見る紫陽花はやはり趣きがある。春雨庵は、京都の大徳寺の住職であった沢庵禅師が、流謫の身になってこの地に来て、藩主の好意で建てられた庵だ。茶を点て、雨の音や小鳥の声を聴き、花を愛でながらの生活であった。もちろん高僧であり、禅を究めていたので、藩の人々に、法話を説くこともあったであろう。

花にぬる胡蝶の夢をさまさじと
 ふるも音せぬ軒の春雨 沢庵禅師

春雨庵で沢庵和尚が詠んだ歌であるが、その情景そのままの春雨庵であった。
沢庵和尚が臨済宗の本山の住職という身分で何故、この地へ流されたか。江戸幕府の朝廷の権限を弱め、幕府の権威を高めようとする政策にあった。勅許紫衣というがある。高僧は紫の衣を着るのが最高の権威であったが、天皇がこれを許すことで朝廷の収入減でもあった。幕府は朝廷のこの勅許紫衣を禁じる法度を出した。2代将軍秀忠の時である。これに抗議したのが、沢庵を初めとする京都の高僧たちであった。幕府は法度の禁制を犯したとして、多くの高僧を流罪とした。これが沢庵禅師がここで起居をすることになった由縁である。

沢庵和尚は寛永6年から3年間、3代将軍家光の許しがでるまでこの地にいた。禅を説き、歌や書、茶道などのほか京都の文化をこの地に伝えた。さらに水利、土木、建築設計などの知識も授け、この藩の発展に貢献した。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする