教育勅語
1891年(明治24年)1月、東京の第一中学校(第一高校の前身)では、前年の10月30日に発布された「教育勅語」の奉読式が行われた。校長が勅語を読み上げた後、教授、講師、学生が一人ずつ壇上で最敬礼する。▼職員で3番目に登壇した若い英語の教師は、キリスト者としての自己の良心に従って礼拝しなかった。学生たちから非難の声が上がり、新聞も書きたてた。青年は職を追われた▼世に知られる「内村鑑三不敬事件」。内村の家のガラスは投石で割られ、病身だった妻は。伊籐整は「日本文壇史」に記している。教育勅語は、その後50年以上、全国の学校と子どもの心を統べる。(26・5・1日北海道新聞「卓上四季」より)。
道新のこの記事を読み父の話を思い出した。父は長い事小・中学校の校長をしていて、一番大変だったこととして話してくれたのが次の話です。
▼式典には校長が壇上で教育勅語を来賓、生徒、父兄の前で読み上げるのですが、この時、うやうやしく教育勅語を持って壇上に届けるのが教頭の仕事でした。父はおもむろに開いて見ると、教育勅語は逆さまに運ばれてきていたというのです。当時一字でも読み違えたりすると官憲が聞き耳を立ていて、何かがあると校長職を追われる時代でしたから、大変だったと言います。壇上で持ちかえるのは字を読み違える以上に許されるものではなく、同じく職を追われますので、やむなく逆さまのまま読んだと言います。冷や汗ものです。日ごろ空んじていたので、なんとかその場を切り抜けたといいます。
▼この話はいつ聞いたのか思い出せませんが、奇異な話として記憶は新しいのです。終戦を迎えたのはカムイラビットの小学校2年生の時で、小学校は尋常小学校といっていました。その時、教育勅語、御真影を保管していた場所が奉安殿(校舎の正面通路の横に入ったところにあった)で、その前を通る際はお辞儀をして通過したのでした。二宮金次郎の銅像も校庭にありました。
終戦とともに奉安殿は廃棄され、御真影、教育勅語も処分させられました。父はその時御真影も教育勅語もこっそり自分が預かって居るうちに、その学校を去りました。家には仏壇がありましたが、それが奉安殿に置かれていた御真影、教育勅語の入れもの(扉付きの棚)だったのです。父の老後を世話した兄の所にあったのですが、仏壇を立派な物にした時、奉安殿の棚は偶然にもカムイラビットの家に来ることになったのです。我が家の仏壇として今でも使われています。
▼教育勅語には実物と練習用とがあり、二つとも兄の元(北見市在住、兄は3年前に亡くなりました)に今でもあります。教育勅語は父が亡くなってから、兄の所に保管されてあることを知ったのです。父は教育勅語のことについて家に持ってきているとは一言も話してくれませんでした。貴重なものなので、後世に残されるべきものとなるでしょう。
▼父はどの様な実績を持ったのかよく聞いてはおりませんが、カムイラビットが生まれた年に勲章を戴いたとの事で、そのことがカムイラビットの名前となっております。勲章の勲を取り「勲(いさお)」と名付けられました。カムイラビットの名は三好勲です。
▼いつものブログとは様子が違いますが、カムイラビットの記録としてしたためました。
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