想い続けることができれば、その想いはいつか成就する

その日その日感じたことを詩、エッセイ、短歌、日記でつづります。野菜も育ててます。

東北大震災から想う

2011年04月06日 | インポート

 未曾有の大震災が発生してから早、1月近くになろうとしている。地震津波だけならともかく、人災である原発被害まで出てしまった。
 ここに、じゃんけん理論がある。確率の問題であるが、勝ち負けの確率は究極的には勝つか負けるかだから1/2に向かう。まあ、あいこもあるが、それは除いてもよい。
 最初は、勝って勝って勝ちまくることもあるが、やがて、それは、数をかさねれば、勝ち負け半々に落ち着いてゆく。これは、人智を超えた自然の摂理である。この原理をしらずして、原発の効能ばかりを述べて最初は勝ちが多く出たのであろうが、自然は懐が大きい。やがて、しっぺ返しがきて、千年に一度という津波に襲われてしまった。想定外の出来事と言うが、自然に想定外などというものはない。ただ、人間が勝手に想定を決めただけである。自然は無限である。だから、畏敬の念を人はいだく。
 信仰も同じような物だと想う。物ではないので心のありようも無限である。
 想定すること自体が間違っていると想う。千年に一度という考えもおかしいと想う。人は未来を過去を考察して考えるが、未来は過去を超えることがある。想定がつかないのである。ならば、今後は、防波堤をつくるのでなく、高台に移転するしかない。
 科学技術について、粋を集めた原子力発電所であっただろうが、想定外の出来事がおこれば、もう、お手上げだった。これからの科学技術は自然を理解する。自然と共に生きるための科学的考察に限定する。地球生態系の中でそれを理解するために使う。間違っても、地球上にないような化学薬品を作ったり、無機質な物を生み出したりしないようにしたい。
 小学校3年生から、一応理科という教科をならうが、科学の前に自然とはその科学を包括する大きなものだと言う畏敬の念をそだてなければならない。宇宙の目からみれば、一見正しいように見えて、科学ほどまやかしで、薄っぺらいものはないのかも知れない。自然界こそ、私たちのフィールドなのだから、その範囲内での科学であるという観念こそが大事であるといえる。そう考えると原子力はどうも必要ないと想う。
 よく、物を沢山消費すると、税金を払うから、国の財政が潤うようになると言う。その考えが堂々と巷で言われているが、消費が美徳だというおかしな理論から来ているなと前々から想っていた。それが、やたらに地球の生態系を脅かしているという考えに結びつかないのかなと想う。
 そういう思いがある間は、自然のしっぺ返しから、人類は免れることはないだろうと想う。自然に感謝する。自然こそ最大の教師、自然から学ぶという謙虚な姿勢。自然には欺瞞やうそはない。事実や現象があるだけである。
 今こそ、この大震災から色々な教訓を学び取り、自然をよき友とし、自然を理解するためにこそ科学を使い、それとて、自然の偉大さの前には米粒の大きさにもみたない人間の存在を知ることが大切である。
 自然の前で謙虚になり、なぜここに自分が今存在するかの理由をよくよく考えて見ることが大切である。天寿とか寿命という言葉の意味の深さも考えてみたい。
 自分で自分の人生を生きているようで、どっこい、生かされている自分がいる。生かされている背後にある物に対して畏敬の念を持つ。そのことが大切な気がする。
 形ある物は壊れ、命あるものもやがて死を迎え、流転してゆく。よどみに浮かぶうたかたは、かつ消え、かつ結びて、久しくとどまりたる例なし。世の中 にある、人と栖(すみか)と、またかくの如し。・・・朝に死に、夕べに生まるるならひ 、ただ水の泡にぞ似たりける 鴨長明の『方丈記』の巻頭にもあるではないか。
 経済も今こそGDP→GHPに脱却していかないと、大変なことになる。

 学校教育もIQよりも幸せ指数に変換して行く必要あり。行き着くところまでいかないと、凡人には無理だろうか。いやそんなことはないと信じたい。今こそ、人類が試されている。幸せ指数を追求する学校であれば、どの子もいつも目を輝かせて登校するだろう。勉強ばかりが学校ではないのだから。テストの点数ばかりで生活している子が可哀想だ。

コメント
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