想い続けることができれば、その想いはいつか成就する

その日その日感じたことを詩、エッセイ、短歌、日記でつづります。野菜も育ててます。

無用の用

2011年04月23日 | インポート

 昔から「無用の用」という言葉があります。老子や荘子のいった言葉らしいのですが、その方がいわずとも、その事実は存在していたのです。ただ、それに気づいていなかったのです。
 木は登るものだと思うのですが、実は、下りるときが一番難しいのです。学級の発表も発表する人のことは誰もが注目しますが、実は聞いてくれる人が大事なんです。そのことを忘れると大変なことになります。
  授業の成立も発表者を中心にして展開される研究授業の分析が多いのですが、1/40人が発表すると聞いている人は39/40人な訳です。しかし、発表する人はよくしゃべりますが、聞いている人は黙って聞いているか、何か変わったことを考えているかも知れません。黙って何も言わずにじっとしている人がいるから、発表者が引き立って見えるのです。授業を芸術的に分析すればいいのです。人生は芸術だといった人もいます。PL教団御木徳近です。そんな本を若い頃読んだことが今浮かんできます。
 人間も同じです。万物の霊長などと、威張っていると周りの自然が安定しているからこんなことがいえるわけです。その辺が、最近の学校では気づいていないし、あまり、教育されていないような気がします。今後はその辺に視点を当てて学校を再点検する必要があるかもしれません。社会も同じです。
 空間があるから、立体も引き立ちます。キャンバスのリンゴの絵も無地の場面がそのリンゴを引き立てているのです。芸術を考えればその辺のことは自明の理でしょう。その、リンゴの位置を微妙に変えるだけで受け手の印象はすごく変化します。いつでもリンゴと地は相対関係時なっています。だから、私はいま学校教育が絶対評価に傾いていることに反対の態度です。人間の幸せは絶対値より相対的なものです。幸せを価値の中心に据えるとやはり人は相対的に感ずるのだと思います。今まで1g持っていたとします。それに、もう1gを加えれば倍重くなったと感じます。しかし、100g持っていたところから1g加えても1%増えただけなので、あまり体では増えた感じがしないのです。その辺が絶対値では同じでも相対的には殆ど増えたと感じないでしょう。その辺に幸せ感を理解する要諦があるのではないかと思います。
 経済で20才の頃、ならったことに「限界効用逓減の法則」といのが、あります。まさに、それをいっているのだと思います。
 今、世の中は益々、のりしろの部分、無用の用の部分、空間やゆとりの部分が(効率化や合理化、学力アップ面から)減少して来ています。益々、小学1年生なんかの親や子を見ていましても、追い立てられて来ています。親も子もストレス社会です。もっと、大きな心で親や教師は子どもたちを見てあげることが大切です。
 勉強が出来なくったっていいじゃないですか。子どもの目が生き生きさえしていれば、大切なのはすぐ出来ることではなく、好奇心を持って、自分から主体的に外部にアプローチして行くことです。すぐ咲く花もあるし、10年に一度咲く花もありましょう。中には、花を咲かせない植物だってあるのです。どれも、存在価値があると、自然界から認められています。
 知能指数ではなく幸せ指数が生活する上では大切です。余りにも、今の世の中この事の大切だが忘れ去られています。
 貧乏でもいい。貧乏ということばも最近では聞かれなくなってしまいました。みんなが、貧乏だから貧乏を不憫に感じなかったのです。
  昔、「名もなく貧しく美しく」という、高峰秀子主演の映画を見たような気がします。まさにそのタイトルのような価値観の世界が展開されていた時代がありました。幸せはあくまで、人それぞれの心が決めることです。
 法と道徳という言葉があります。法は外面を規制しますが、法が整備されても必ずしも人は幸せにはならないのです。心が病んでいてはだめなんです。
  震災を機会に本当の幸せとは何かをもう一度考えて見たいです。戦後世代以後は大きな時代の区切りがなくなってしまいました。東北大震災をまた、一つの時代の区切りとして日本人が考えることができれば、その教訓も生きて来ると思いますが、どうも、現実、原子力発電はドイツのようになくなって行かないようです。戦後65年の経済大国から東北大震災を機に精神大国になろうではありませんか。ドイツはいち早く脱原発を決めました。日本も正しい選択を子孫の為にもして行かなくてはなりません。


  今思うと、私が20年前浜松の学校から、異動して来た学校が、原発のある地域の小学校だったと言うことも何かの因縁かも知れません。原発のすぐそばまで家庭訪問に言ったことを思い出します。縁とは異なものです。生前母が進めた会社が中電でした。当時は原発はなかったと思いますが、強電には興味がなかったので就職しなかったことが懐かしく思い出されます。

 ところで、デジタルテレビもいいですが、最近のテレビ番組も殆どがお笑いタレントが出ている番組が多く、年のせいかなとも思いますが、言い番組が内容に思います。昔はラジオはよかったなとつくづく思います。もっと、ラジオ番組をどこでもユビキタスで聞こえるような基盤整理にお金をNHKも回して欲しいです。お金をかけなくてもエネルギーを使わなくてもラジオ番組ならいくらでのその気になれば充実させることができるのに、NHKは一体どこに目を向けていのか分かりません。団塊の世代にとってラジオは目にも優しいしながら族もできるしいいと思うのですが、経済の論理で動いている政治が悪いのでしょうか。私たちの住んでいる地域ではカーラジオはよく聞こえますが、部屋の中ではFMのNHK位しか聞こえません。デジタルテレビの財源をもっと、ラジオに振り向けて欲しいです。デジタルラジオもきっといいでしょうね。災害にも乾電池一つで動くし省エネで健康にもいいですね。世の中どうなっているか、行く末心配です。そろそろ、沢山消費して経済を活性化すると言う考えから脱却をしないといけないと思います。そんなマジックに踊らされないで、省エネで自然と仲良くする社会、精神生活の豊かさはお金で買えません。どうにかならないのかと考えるときがあります。NHKや東電も公共性のある会社ですが、目をむく方向が少しずれている気がいたします。図体が大きくなり恐竜絶滅の運命をたどらなければいいのですが、東電では下請け下請けで仕事をやっている方式が色々構造的に問題を生んでいるようです。また、NHKも同じように庶民のささやかな声が届きにくい構造ができているようです。民主主義の社会ですので民の声をもっと、取り入れて欲しいと思います。難しい時代です。

 

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地震は地球のあくびである

2011年04月23日 | インポート
 先日、大震災前の保安員の広報誌を見てみた。誰一人として、あんなに大きな地震を予知している人はなかった。天下泰平の中の、保安員の座談会だった。誰一人としてあんな大震災に気づいている人がなかった。あの冊子を、震災後に見て、昔、タイタニック号が歴史を巻き戻してみれば、氷山にぶつかるというのに、中では連日、宴を催している姿と似ているなと思った。人の造り出したマシーンは科学は自然の畏敬の世界を超えてしまった。万物の霊長人間ではないのだ。すべての生物や物質は時系列的に変化している中で存在しているのだ。
 東電しかり、政府しかり誰一人としてあんな大きな地震やそれに伴う震災を予想だにしていなかったのだ。だが、事実は冷酷そのものである。確実に沢山の命を奪ってしまった。後の祭りである。
今後、絶対、地球の生態系をくずような物を作ってはいけない。わたしなら、そう考えるが、まだ、原子力を存続させたい人が多数と聞く。実際の現場を見たり震災で肉親を亡くした人たちは絶対反対だと思う。全ての国民が東北の震災の現状を見るべきだと思う。私も近いうちに言って、現地の人の気持ちにそってみたいと思う。
 今年の修学旅行は現地を見て若者が今後の人生をどう向き合っていくか考えて見るのがいい。しっかり目を開いて現状を見つめる必要がある。あれは、東京大空襲よりひどいと言っていた人がいた。まさに、空前の出来事だった。私の近くにも浜岡原発がある。何かおこれば、真っ先に避難の対象になる場所だ。
 科学は自然を理解し自然と共生してゆくために使って欲しい。ことあれば、人智の及ばないマシーンを作り上げた人間の浅はかなところであろう。
 short cut、 効率化、能率化、 画一化、何でも早く早くとせかせる世の中、規格化されすぎている社会、もっと、のびのび考えればいいのではないか。本来は地震は地球のあくびであったはずだ。それを震災にさせたのは誰だ。 試験管の中でだけ原理原則を見いだそうとしている科学の浅はかさ、いずれも大自然の中のちっぽけな人間の存在を肥大化して考えている。

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