想い続けることができれば、その想いはいつか成就する

その日その日感じたことを詩、エッセイ、短歌、日記でつづります。野菜も育ててます。

遠い親戚より近くの他人

2014年12月22日 | エッセイ

 遠い親戚より近くの他人という言葉がある。実際に頼れるのは近くにいる人だ。私も今年は班長と副自治会長をやっている。班員は7戸自治会は170余戸から成り立っている。コミュニティのあり方も昔と確かに変わって来ている。災害もいつ襲ってくるかは分からない。そのとき、地域とある程度の関わりが常日頃からできていないと困ると言うことは3.11でも体験済みだ。

 昨日、班の会合を開いた。最近は班員が全員集まることが少なくなっている。これでは、いけないと言うことで、時期班長さんと相談して年に最低一度は集まり近況を話し合うことが大切だね。ということになり会合を持った。

 そこで、決めた最低限のルールとして慶弔関連の班員が死亡した時の対応だ。
遺族はまず、班長に連絡する。班長は自治会長に遺族の意志をつたえる。そのとき、葬儀の内容をどうするかを遺族は班長に連絡する。家族葬にするのか、否か等を明確し、遺族から要請があれば班員は会計と受付を手伝う。それと、地震のとき、どの家も異常がなければ、黄色い旗を玄関に掲げるということだ。もし、出ていないうちがあったらその家に確かめに行くことになっている。

 葬式なんて自分とは縁がないと思っていたが、少しずつ考えていかなくてはと思いつつある。現実、葬儀には大きな金銭的な負担がかかって来ている。葬儀のあり方も時代と共に変遷してきている。宗教の自由もある。どういう葬儀にするのかは遺族の思いを尊重するのはいうまでもない。それが、民主主義だから。先日、我が家でも義母の葬儀が行われた。姉夫婦が喪主となり家族葬で実施した。ごくごく内輪だけの親族が集まったが、あれもいいなと思った。幸い私なんぞも次男でもあり、自由が効く。自分の事は自分で決めていきたい。

 田舎で困ることはややもすると、旧来の伝統にとらわれることである。時代は流れ、変わっていくのである。芭蕉の不易流行という言葉もある。不易な部分は残し、流れに任せる部分は変えていく。反面、郷に入っては郷に従う部分でうまくいく場合もある。それはそれでいいとして、お互いが窮屈になるような事は変えていく必要がある。伝統の良さは残しながら戦後の民主主義のよい面はどんどん取り入れていく必要がある。

 幸い、我が班は全員よそからの集まりである。新しい考え方で班のコミュニティを今後も、みんなで集まり、話し合うことで決めていきたいと思う。

 時代が変わってきても、遠くの親戚よりは近くの他人という言葉は生きている。公共の福祉と基本的人権の調和の観点から、現代流にアレンジしてどうこの辺の枠組みを作っていくかみなさんと考えていきたい。

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