想い続けることができれば、その想いはいつか成就する

その日その日感じたことを詩、エッセイ、短歌、日記でつづります。野菜も育ててます。

自然的栽培の野菜

2011年04月20日 | インポート

 自然栽培の野菜の特徴を列記してみる。

①生育がおそくなりできあがりが不揃いとなる。この事は、逆を言えば、個性的な野菜ができあがることにもなる。
②適度に虫食いがあるが、益虫も多くあまり大きな被害にならない。
③周りの自然と調和しているので、食材を味わう時に、その周りの自然もいただく感じになり自然への感謝する心が育つ。情緒を感じながら食することができる。
④自然環境生態系のよい学習素材となる。
⑤植物の旬が分かり植物が自然と一体となって、生態系の中にいるのが自覚できる。
⑥その土地にあった植物しか上手に育たないが、地域の特色がでる。
⑦市場では売れないが、その意味の分かる人に取っては価値のある野菜となる。
⑧見た目は悪いが、栄養価は一般的に高くなる。
⑨その土地や生産者の思いが直に伝わってくる。
⑩周りの気候に対応した野菜の生命力を感ずることができる。
⑪全てが自然と繋がっているという自覚が育ち、自分一人で生きているのではないとわかり、周りへの思いやりが自然と育つ。
⑫雑草1本、虫1匹にも生きる使命があるのだと分かり、かけがえのない生命への畏敬の念が育つ。
⑬生命は時系列的に種を通して繋がっていると思えるようになる。
⑭自分だけはという独りよがりな考えの浅はかさに気づく。
⑮すべて森羅万象は自然の摂理により動いていることに気づく。原子力や化学合成薬品や遺伝子作物、等はとんでもない。科学は自然を理解する為に使いたい。

 以上、ざっとあげましたが、また、暇があったら考えてみたい。

さすが、マッターホルン
最高の自然がそこにある。自ずと然るべくして、そこに鎮座している。
有史以前信仰の対象となる山の神様だ。

クリックすると新しいウィンドウで開きます

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

農園のこの頃

2011年04月19日 | インポート

 子どもの頃よく家に植えていた苺を食べた思い出があった。しかし、いつの間にか、最近は苺の旬がなくなり、いつ花が咲きいつ実がなるのかが定かでなくなっていた。久しぶりに自然の苺が食べてみたくなったのと、本当の苺の旬はいつなのかを知りたくて苺を育ててみた。今が花時である。これから、どんどん実がなっていくと思う。

 キュウリの苗を植えた。周りには感想を防ぐために、抜いた雑草で覆ってある。早くキュウリが食べたい。どうも、最近の風潮としては促成栽培とか売らんが為の野菜作りの為に、自分自身もせっかちになっている気がする。自然栽培の場合は成長が普通よりおそくなるようだ。そのときまでじっと待つ姿勢が大切。もっと、昔はみんなのんびりしていて、我慢強く待っていたようだ。

 去年の人参が残っていた。

 レタスの種がこぼれて苗になっていた。自然の力はすごい。どんなレタスができるか、楽しみだ。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ブログ始めてもう5年

2011年04月18日 | インポート

 思い出してみると、ブログを始めて、もう、5年がすぎました。そう、定年退職2年前です。
 最初が2006年2月24日です。読み返してみると、そのときの、想いが出ています。継続は力です。とにかく、心をいつもVIVIDにして、長い道のりを乗り越えて行こうと思います。歩けば、必ず道が出来ます。歩いたその道からまた、何かを考えたり、気づいたりしながら不確定な時代に足跡を残していけたらと思います。いつか、今までのブログを冊子にでも出来たら素敵だと思っています。90才で詩集を出したおばあちゃんのように、いつも前向きに生きたいと思っています。
 光陰矢のごとし まだ、2,3年前だと思っていまいたが、調べてみましたら5年以上の歳月が過ぎていました。宇宙の時間の流れの中では流れ星のような一生かも知れません。しかし、少しでもいい、自分の光を出しながらその刹那を生きていきたい。いつか、その光もなくなり、星くずになり宇宙空間をさまようことになるでしょう。かけがえのない自分、かけがえのない時代になるように!

 初めてのブログ

想い

2006.2.24 

 初めてPLALAのブログを開設しました。今までは、LIVEDOORのブログをやっていましたが、こちらの方が本格的らしいので入会してみました。色々な使い方があるようですが、だんだん覚えていきたいと思います。 日記を書いていこうか、何にしようか、まだ、決めかねています。人生も2/3近くになろうとしています。後、2年で定年でもあります。しかし、まだ、息子も小5で小さいので、のんびりしている年ではありません。とにかく、気を張って子どもがさし当たり大学卒業の年ぐらい(70才)まではしゃきしゃきでいたいと思います。 何のことでも想い続けることが大切だと思います。自分の想いが想い続けれなくなるときが人生の墓場だとおもいます。いつでも、同じコップが違うように見えるように感性を死ぬまで磨き続けようと思います。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

我が家の食用としての山野草(The fields and mountains grass as a for food in my garden)

2011年04月15日 | インポート

 うどの新芽が春の陽気に顔を出し始めていた。もう、しばらくすると、私はこれを酢みそ和えにして食べるようにしている。季節をそのままいただくのである。周りの自然と一緒に野草を賞味する幸せをかみしめる時期になる。
 また、うどの天ぷらも絶品である。右下にあるのが、ゴボウの葉っぱ、畑に少しばかり植えてある。

  The UDO(japanese name) some bud had started producing of the spring the face cheerfully. Already, when it does for a while, I have tried to eat this in the vinegar miso seeing dressing. It receives season that way. You bite the happiness which naturally and together around appreciates the wild grass and you are time when you close.  In addition, the UDO tempula is an article of superb . Being under the right, the leaf of the burdock, only is planted a little in the field.

 芝桜の手前にあるのが、三つ葉。香りがあり、たまにキアゲハの食草になる。カツ丼やみそ汁に入れると香りがありおいしい。また、汁物にも入れる。母がよく使っていた思い出もある。

 これはノビルである。エシャレットに似ていて味噌をつけて食べる。野の香りが十分な代物である。

   This is [nobiru]. Having been similar to the shallot, applying the miso, you eat. It is the substitute where the fragrance of the field is sufficient.

 これはである。昔はにおいが嫌いだったが最近はよく酢みそ和えにして食べる。ふきのとうもおいしい。

   This is the FUKI(in japanese). Former times we disliked smell, but recently I eat well in the vinegar miso seeing dressing.  It is tasty.

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

孤舟

2011年04月13日 | インポート

 「孤舟」寂しげな言葉のニュアンスを感ずる。作者:渡辺淳一の造語だと思っていたら、確かに広辞苑にも載っていた。「ただ1隻浮かんでいる船」とあった。成る程、定年を終えた初老の男、寂しげに放り出されている船そのものだなと思った。誰でも、一度は味わう心理描写が妻や子ども、ペット、一人の女性、基同僚を配して的確に表現している。

  なるほどな、と、思う箇所がいくつかあった。そんなこともあり、一気に読んでしまった。ストーリーは実に簡潔であった。若い頃読んだ「氷点」のストーリーも単純だったことを思い出した。団塊の世代が男として新たに自立していく姿をどこにでもあるような場の設定をして描いている作品である。


 もし、という仮想の世界が許されるなら、脚本化してメガフォンを取って映画化してみたい気がした。ただ、主役はだれにしようかということになると、なかなかふさわしい俳優は浮かんでこない。やっと、浮かんだのが、国際的俳優、渡辺 健 である。

  If with the world of the imagination which is said is permitted, to script converting, taking the Mega phone, filming, the like air did. Simply, as for the leading part when it means, it will make someone, as for the very suitable actor it does not float. The fact that at last, it floated, the international actor, is the Watanabe Ken.


 4,5年前だろうか、彼が主演の認知症の映画を見たことを思い出した。当時の熱演ぶりが目に浮かぶ。やはり、演ずるなら彼がいいだろう。人生のわびさびも心得ている。そんな彼が主演の「孤舟」の映画もまもなく見られるような錯覚さえ感じる。ストーリーはいたって単純であるが、その年代の背景や真理をうまくとらえている。ただ、娘ほどとしの違う女性に近づこうとする筋書きがあるが、あれはやはりやらせのような気がした。


 定年退職後の旦那を迎える妻の立場は本当にリアルであったと誰もが思うだろう。どちらにしても、退職後は現役の地位や職業を忘れ、人間として丸裸になり、つきあうことが大切であり、男も妻から自立して自分の人生を歩んで行くことが主題であるような気がした。寂しいだろうがそれを受け入れる度量の問題だろうと思う。


 最後までラブラブで寄り添う人がいるのもいいだろう。でも、生まれるときと死ぬときはどちらも一人にならざるを得ないことも心にとめておきたい。

   Also it probably will be good to end for the person who draws close with love love to be. So, when being born, neither becomes one person when dying, not to obtain, in heart would like to stop. 


 されど、人生は素晴らしい、素晴らしくなるよう自分で気づいて行くことである。どっこい、60代もまだ若い、夢を持ち続けていこう夢を持っている間は若い。肉体は衰えるが精神は永遠に年をとらない。

 But, in order for life to be splendid, to become splendid it is to keep becoming aware by its. Also 60 years old are young still, while having the dream which probably will keep holding dream it is young. The flesh becomes weak, but mind does not grow older eternally.

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする