サントリー・サウンド・マーケット (FM東京? 1980年代)
熱唱の記録 第4回 「エディット・ピアフ」
役名:語り
サウンド・マーケットと言う番組で、5回に渡って放送された「熱唱の記録」の中の1話、 エディット・ピアフのお話です。
<キャスト>
語り:納谷悟朗
エディット・ピアフ:太田淑子
ピアフの独白や唄の歌詞などを太田さんが担当し、悟朗さんはナレーションを演っていらっしゃいました。
ピアフの伝記に音楽を組み合わせた物です。
ナレーションは全編を通して入っており、切れは、ややソフトですが、いつもの名調子を聞かせて下さいました。
ピアフの独白では、太田さんはいつもより低めの声です。(アッコちゃんやリボンの騎士と違って大人の雰囲気でした!)
***
エディット・ピアフは本名、エディット・ジョアンナ・ガション。
1915年パリ生まれ。
ピアフとはスズメの意味で、1934年、150センチ足らずの彼女が、18歳でキャバレーに出演する時につけられた芸名だと言う。
生きる事の悩み、人を愛する事の喜びや悲しみを歌いあげたエディット・ピアフ。
彼女の歌は全て、ジャック・クレベールの詞の様に彼女自身の心の叫びだった。
1960年10月はじめ。
ピアフはパリのオリンピア劇場で、カムバック公演をしたいと望んでいた。
が、体調がすぐれなかった。
長年に渡る不摂生がたたり、全身がぼろきれの様になっていた。
2年ほど前から、地方巡業のステージでは、悲惨な状態が続いていた。
歌っている途中で声が出なくなったり、目が見えなくなり、倒れそうになった。
幕が下りると、気を失ったピアフのもとに、医者が駆けつける、と言った事が何度も繰り返された。
果たしてオリンピアのステージで歌い通せるだろうか。
作詞家のミッシェル・ヴォケールに連れられ、シャルル・デュモンが自作の曲を持って、ピアフを訪ねた。
アメリカ人の画家、ガング・デイビス(?)と別れてから、彼女の心は満たされていなかった。シャルルは心の傷を癒してくれそうだった。
ピアフは、オリンピア劇場では、デュモンの曲をメインにしようと決心した。
ピアフの友人の作曲家、マルグリット・モノーの作品を押さえて、17曲中、14曲がデュモンの曲でしめられた。
ピアフはそれほど彼を評価し、愛したのだった。
ピアフのフランス語の語りも所々に入っていました。
途中から太田さんの声が被る構成です。
「人生で一番大切な物は、愛だと思う。
他人への愛。自分の仕事への愛。
たとえ信じ愛した人から裏切られたとしても、その事で別の人を愛せなくなってしまったらダメね。
愛があれば苦しみだって耐える事が出来るのよ。」
新たな愛を得て、ピアフのオリンピア再起に微かな明かりが見えてきた。
デュモンと二人で歌う「恋人達」
***
ピアフにはシャルル・デュモンの前にも、沢山の恋人が居た。
彼女が才能を認めて、愛し、世に送り出した男達。
シャルル・アズナブール
ジルベール・べコー
フランシス・レイ
ジョルジュ・ムスタキ
1958年、ピアフが自動車事故にあった時、ハンドルを握っていたのは、ムスタキだったという。この頃まだ無名だったムスタキは、ピアフに「ミロール」の詩を捧げている。
そしてピアフによって見出された大スター、イブ・モンタン。
モンタンは1944年頃、カウボーイ姿でウェスタンを歌っていた。
ある日、ピアフは彼の歌を聞きに行った。
楽屋を訪ね、レパートリーを変える様に忠告した。
この世界で一番素晴らしい物は、たった一つだけ。
それは愛の歌なのよ、ってね。
しばらくして、歌を一つ作った。「バラ色の人生」
当時モンタンに夢中だったと言う。
ピアフが激しく愛した男がもう一人いる。
ボクシングのチャンピオン、マルセル・セルダン。
ピアフ自身が、彼によって、自分の人生が変わったと言うほど、彼の生き方は影響力があった。
セルダンが、かなり年長のボクサーと対決した事があった。
ノックアウトで勝負を決めようとしたが、挑戦者が、試合を続けさせて欲しいと頼んだ。
そこでマルセルは、ポイントで点を稼ごうとした。
すると観客が野次を飛ばし始めた。
マルセルは受け流した。
どんなに野次られても、あんなに嬉しい事はなかった。
どんな時でも、人に親切にしてあげようと言う気持ちを忘れてはいけないと思う、とピアフに語ったという。
ピアフとマルセル・セルダンとの出会いは、1947年ニューヨークでのことだった。
セルダンはアメリカでの最初の試合の準備に余念がなかった。
ピアフはアメリカ公演のリハーサル中だった。
その真っ只中で、二人は恋に落ちた。
ピアフのアメリカ公演は大成功だった。
1957年カーネギーホールでのピアフの「枯葉」(英語)をここで紹介していました。
1年後、1948年9月21日、ニューヨークのマディソン・スクエア・ガーデンで、チャンピオン、トニー・ゼールに挑戦したマルセル・セルダン。
リングサイドの一番目の席にピアフがいた。
第12ラウンド、マルセルは世界ミドル級チャンピオンになった。
が、翌年1949年10月28日、マルセルは急死。パリ~NYの飛行機が墜落したのだ。
その夜、ニューヨークのキャバレー、ベルサイユでステージに立ったピアフは、この歌はマルセル・セルダンだけに捧げると言って、「愛の賛歌」を歌った。
***
オリンピア劇場のカムバックを控え、稽古に告ぐ稽古の日々が続いた。
1960年12月26日、ついにオリンピア公演の幕が上がった。
ピアフにとって、不安が去った訳ではなかった。
歌っている最中に倒れはしないか。
声が最後まで出るだろうか。
聴衆を熱狂させ、感動を与える事が出来るだろうか。
たとえ声が出なくなっても、倒れても、自殺行為だと言われても構わなかった。
舞台こそ私の命なんだから。
ピアフは甦った。
「私の友達ルシアン」で、歌詞を間違えて最初から歌い直しても、誰もとがめる者はいなかった。
聴衆の拍手はやまなかった。
ピアフ復活のオリンピアリサイタルは、病院に閉じ込められた女の、狂気じみた叫びと笑いが入る「白衣」と言う曲で幕を閉じた。
大成功にも係わらず、ピアフにはすでに死の予感があったのか。
***
翌1962年、20歳年下のギリシャ青年、テオ・サラポと結婚。
その1年後、1963年10月9日に帰らぬ人となった。
48歳だった。
1960年のオリンピア公演で、1曲だけピアフが作詞した曲があった。
作曲はシャルル・デュモン。
歌を捧げた相手は、マルセル・セルダン。
「美しい恋の物語」
***
私は、エディット・ピアフはあまり良く分からないのですが、シャンソンをもっと聴いてみようと思わせる構成でした。
悟朗さんのナレーションも、とても良かったです。
熱唱の記録 第4回 「エディット・ピアフ」
役名:語り
サウンド・マーケットと言う番組で、5回に渡って放送された「熱唱の記録」の中の1話、 エディット・ピアフのお話です。
<キャスト>
語り:納谷悟朗
エディット・ピアフ:太田淑子
ピアフの独白や唄の歌詞などを太田さんが担当し、悟朗さんはナレーションを演っていらっしゃいました。
ピアフの伝記に音楽を組み合わせた物です。
ナレーションは全編を通して入っており、切れは、ややソフトですが、いつもの名調子を聞かせて下さいました。
ピアフの独白では、太田さんはいつもより低めの声です。(アッコちゃんやリボンの騎士と違って大人の雰囲気でした!)
***
エディット・ピアフは本名、エディット・ジョアンナ・ガション。
1915年パリ生まれ。
ピアフとはスズメの意味で、1934年、150センチ足らずの彼女が、18歳でキャバレーに出演する時につけられた芸名だと言う。
生きる事の悩み、人を愛する事の喜びや悲しみを歌いあげたエディット・ピアフ。
彼女の歌は全て、ジャック・クレベールの詞の様に彼女自身の心の叫びだった。
1960年10月はじめ。
ピアフはパリのオリンピア劇場で、カムバック公演をしたいと望んでいた。
が、体調がすぐれなかった。
長年に渡る不摂生がたたり、全身がぼろきれの様になっていた。
2年ほど前から、地方巡業のステージでは、悲惨な状態が続いていた。
歌っている途中で声が出なくなったり、目が見えなくなり、倒れそうになった。
幕が下りると、気を失ったピアフのもとに、医者が駆けつける、と言った事が何度も繰り返された。
果たしてオリンピアのステージで歌い通せるだろうか。
作詞家のミッシェル・ヴォケールに連れられ、シャルル・デュモンが自作の曲を持って、ピアフを訪ねた。
アメリカ人の画家、ガング・デイビス(?)と別れてから、彼女の心は満たされていなかった。シャルルは心の傷を癒してくれそうだった。
ピアフは、オリンピア劇場では、デュモンの曲をメインにしようと決心した。
ピアフの友人の作曲家、マルグリット・モノーの作品を押さえて、17曲中、14曲がデュモンの曲でしめられた。
ピアフはそれほど彼を評価し、愛したのだった。
ピアフのフランス語の語りも所々に入っていました。
途中から太田さんの声が被る構成です。
「人生で一番大切な物は、愛だと思う。
他人への愛。自分の仕事への愛。
たとえ信じ愛した人から裏切られたとしても、その事で別の人を愛せなくなってしまったらダメね。
愛があれば苦しみだって耐える事が出来るのよ。」
新たな愛を得て、ピアフのオリンピア再起に微かな明かりが見えてきた。
デュモンと二人で歌う「恋人達」
***
ピアフにはシャルル・デュモンの前にも、沢山の恋人が居た。
彼女が才能を認めて、愛し、世に送り出した男達。
シャルル・アズナブール
ジルベール・べコー
フランシス・レイ
ジョルジュ・ムスタキ
1958年、ピアフが自動車事故にあった時、ハンドルを握っていたのは、ムスタキだったという。この頃まだ無名だったムスタキは、ピアフに「ミロール」の詩を捧げている。
そしてピアフによって見出された大スター、イブ・モンタン。
モンタンは1944年頃、カウボーイ姿でウェスタンを歌っていた。
ある日、ピアフは彼の歌を聞きに行った。
楽屋を訪ね、レパートリーを変える様に忠告した。
この世界で一番素晴らしい物は、たった一つだけ。
それは愛の歌なのよ、ってね。
しばらくして、歌を一つ作った。「バラ色の人生」
当時モンタンに夢中だったと言う。
ピアフが激しく愛した男がもう一人いる。
ボクシングのチャンピオン、マルセル・セルダン。
ピアフ自身が、彼によって、自分の人生が変わったと言うほど、彼の生き方は影響力があった。
セルダンが、かなり年長のボクサーと対決した事があった。
ノックアウトで勝負を決めようとしたが、挑戦者が、試合を続けさせて欲しいと頼んだ。
そこでマルセルは、ポイントで点を稼ごうとした。
すると観客が野次を飛ばし始めた。
マルセルは受け流した。
どんなに野次られても、あんなに嬉しい事はなかった。
どんな時でも、人に親切にしてあげようと言う気持ちを忘れてはいけないと思う、とピアフに語ったという。
ピアフとマルセル・セルダンとの出会いは、1947年ニューヨークでのことだった。
セルダンはアメリカでの最初の試合の準備に余念がなかった。
ピアフはアメリカ公演のリハーサル中だった。
その真っ只中で、二人は恋に落ちた。
ピアフのアメリカ公演は大成功だった。
1957年カーネギーホールでのピアフの「枯葉」(英語)をここで紹介していました。
1年後、1948年9月21日、ニューヨークのマディソン・スクエア・ガーデンで、チャンピオン、トニー・ゼールに挑戦したマルセル・セルダン。
リングサイドの一番目の席にピアフがいた。
第12ラウンド、マルセルは世界ミドル級チャンピオンになった。
が、翌年1949年10月28日、マルセルは急死。パリ~NYの飛行機が墜落したのだ。
その夜、ニューヨークのキャバレー、ベルサイユでステージに立ったピアフは、この歌はマルセル・セルダンだけに捧げると言って、「愛の賛歌」を歌った。
***
オリンピア劇場のカムバックを控え、稽古に告ぐ稽古の日々が続いた。
1960年12月26日、ついにオリンピア公演の幕が上がった。
ピアフにとって、不安が去った訳ではなかった。
歌っている最中に倒れはしないか。
声が最後まで出るだろうか。
聴衆を熱狂させ、感動を与える事が出来るだろうか。
たとえ声が出なくなっても、倒れても、自殺行為だと言われても構わなかった。
舞台こそ私の命なんだから。
ピアフは甦った。
「私の友達ルシアン」で、歌詞を間違えて最初から歌い直しても、誰もとがめる者はいなかった。
聴衆の拍手はやまなかった。
ピアフ復活のオリンピアリサイタルは、病院に閉じ込められた女の、狂気じみた叫びと笑いが入る「白衣」と言う曲で幕を閉じた。
大成功にも係わらず、ピアフにはすでに死の予感があったのか。
***
翌1962年、20歳年下のギリシャ青年、テオ・サラポと結婚。
その1年後、1963年10月9日に帰らぬ人となった。
48歳だった。
1960年のオリンピア公演で、1曲だけピアフが作詞した曲があった。
作曲はシャルル・デュモン。
歌を捧げた相手は、マルセル・セルダン。
「美しい恋の物語」
***
私は、エディット・ピアフはあまり良く分からないのですが、シャンソンをもっと聴いてみようと思わせる構成でした。
悟朗さんのナレーションも、とても良かったです。