地元で古くから愛読されている新聞が「室蘭民報」である。
幼い頃から我が家にも、毎日朝と夕に配達されていた。
私も時々それを広げて読んだ。
今、その地元紙の土曜日文化欄に、
「随筆『大手門』」がある。
そこに同人「落書きの会」のメンバーが、
執筆を継続している。
早いもので、私も同人に加えてもらって4年が過ぎた。
昨年8月以来になるが、
12月26日に私が書いたものを載せて頂いた。
本文と、それに対する友人からの、
身に余る反響を記す。
* * * * *
小さな遊園地にて
特別支援学級の子ども達と都内の小さな遊園地に行った。
園内ではどの子にも希望する乗り物を体験させたいと、
先生らが付き添い小グループに分かれた。
さて、3年生のA君だが、どの乗り物を見ても首を横に振った。
口数は少ないが意志は明確だった。
誰が声をかけても、1つとして乗ろうとしなかった。
とうとう校長の私と2人、ベンチに座っていることになった。
次第に時間を持てあました。
手をつなぎ園内をウロウロした。
私が乗り物を指さし「乗ろうよ」と誘っても、
A君は黙って通り過ぎた。
ところが、メリーゴーランドの横に、
『動くハウス』と書いた小さな家の形をしたものがあった。
ドアが開いていた。
2人でのぞいた。
中には長椅子が向かい合っていた。
壁には大きな花の絵があり、明るい感じだった。
A君はその部屋に入った。
「これがいいの?」。
A君はうなずいた。
手をつないだまま並んで椅子に腰かけた。
しばらくして、数人のグループが向かいに座った。
すぐにベルが鳴りドアが閉まった。
部屋は左右に動き出した。
急に横にいたA君が手を放し私の前に立った。
険しい目だった。
何も言わず私をたたき始めた。
ハウスはだんだん大きく揺れた。
私は座ったまま上体を動かし、突然の攻撃をさけた。
前の席から「A君!やめなさい」「座りなさい」と声がとんだ。
でも、A君はハウスの動きが止まるまでやめなかった。
私は分かった。
動くなんて思ってなかったのだ。
なのに部屋が動き出した。
「こわい!」「動く乗り物って言ってない!」。
私が憎くなった。
その後、動きが止まったハウスを出ると、
A君は急に大声を出して泣いた。
肩がブルブル震えていた。
「お家動くよって、言えばよかったね」。
私は何度も言った。
A君は小さくうなずいてくれた。
しばらくして、私たちは再び手をつなぎ最初のベンチへ戻った。
泣きやんだA君が座りながら、私の目をのぞき込んで訊いた。
「動かない?動かない?」。
「動かないよ!動かないよ!」。
そう答えながら、今度は私が泣きそうになった。
【友人からのメール】
うるうるしてきました。
そうなんだよね。
そうでなくても怖い遊園地。
でも、動かないベンチを教えてくれた校長先生、
良かった良かった、A君。
いつも素敵な綴り方を、
伊達市民の方々は、
幸せな心持ちをいただけているのですね。
* * * * *
さて、先週土曜日の「随筆『大手門』」の筆者は、
同人『楽書きの会』の主宰である南部忠夫先生だった。
先生は、この欄の執筆を始めた21年前よりずっと、
奥様への自宅介護の日々を綴ってきた。
今回の題を見て、急に鼓動が激しくなった。
* * * * *
刀折れ、矢尽き
南部 忠夫
日々介助に明け暮れていた。
ーーいる。と現在形で書いていたものが
「いた」と過去形になった。
21年間自宅介護を続けたが卒業する事となった。
7月初旬、今まで動いていた人間が
ソファから立ち上がれなくなった。
どう努力しても肝心の左脚が効かなくなってしまった。
ケアマネージャーさんと相談して
救急車で入院ということにした。
受け入れてくれる病院が見つからず
隣町の市立病院に入院させてもらった。
有り難くて病院がお社(やしろ)に見えた。
紆余曲折があって、
当市の病院に転院させてくださった。
何より困ったのは面会が
厳しく制限されていることで、
2週間に一度、15分間のみという状態で、
患者にも家族にも不安と苦痛がのしかかっていた。
どちらの病院の診断名も、
自立は困難だということを暗示していた。
自立が不可能なら自宅介護は出来ない。
家に連れて帰って来れないとなると、
終の棲家となる施設を探さなければならない。
伊達中グランドの斜め向かいに、
大きな施設が建設中であった。
家からも近いし、その施設に入れないかと願った。
心優しい主治医のお陰で念願が叶い、
新施設の老健に入居が許された。
12月1日に病院から老健への引っ越しとなり、
安住の地を得た。
21年間の自宅介護と手を切る我が家にとっても
記念すべき日となった。
* * * * *
21年に及んだ自宅での介護が、ついにできなくなった。
その経過を先生の筆は、じつに淡々と書き記していた。
急展開の中で様々な窮地があった。
そこから救われた時の心境を、
「病院がお社に見えた」「心優しい主治医のお陰」と言う。
いつものように、変わらない謙虚な姿勢に脱帽した。
しかし、どこを探しても先生の無念さがない。
その全てを題・『刀折れ、矢尽き』に込めたのでは・・・。
秘めた激しさが、いつまでも心に響いた。
この山並みが好き ~ 紋別岳
幼い頃から我が家にも、毎日朝と夕に配達されていた。
私も時々それを広げて読んだ。
今、その地元紙の土曜日文化欄に、
「随筆『大手門』」がある。
そこに同人「落書きの会」のメンバーが、
執筆を継続している。
早いもので、私も同人に加えてもらって4年が過ぎた。
昨年8月以来になるが、
12月26日に私が書いたものを載せて頂いた。
本文と、それに対する友人からの、
身に余る反響を記す。
* * * * *
小さな遊園地にて
特別支援学級の子ども達と都内の小さな遊園地に行った。
園内ではどの子にも希望する乗り物を体験させたいと、
先生らが付き添い小グループに分かれた。
さて、3年生のA君だが、どの乗り物を見ても首を横に振った。
口数は少ないが意志は明確だった。
誰が声をかけても、1つとして乗ろうとしなかった。
とうとう校長の私と2人、ベンチに座っていることになった。
次第に時間を持てあました。
手をつなぎ園内をウロウロした。
私が乗り物を指さし「乗ろうよ」と誘っても、
A君は黙って通り過ぎた。
ところが、メリーゴーランドの横に、
『動くハウス』と書いた小さな家の形をしたものがあった。
ドアが開いていた。
2人でのぞいた。
中には長椅子が向かい合っていた。
壁には大きな花の絵があり、明るい感じだった。
A君はその部屋に入った。
「これがいいの?」。
A君はうなずいた。
手をつないだまま並んで椅子に腰かけた。
しばらくして、数人のグループが向かいに座った。
すぐにベルが鳴りドアが閉まった。
部屋は左右に動き出した。
急に横にいたA君が手を放し私の前に立った。
険しい目だった。
何も言わず私をたたき始めた。
ハウスはだんだん大きく揺れた。
私は座ったまま上体を動かし、突然の攻撃をさけた。
前の席から「A君!やめなさい」「座りなさい」と声がとんだ。
でも、A君はハウスの動きが止まるまでやめなかった。
私は分かった。
動くなんて思ってなかったのだ。
なのに部屋が動き出した。
「こわい!」「動く乗り物って言ってない!」。
私が憎くなった。
その後、動きが止まったハウスを出ると、
A君は急に大声を出して泣いた。
肩がブルブル震えていた。
「お家動くよって、言えばよかったね」。
私は何度も言った。
A君は小さくうなずいてくれた。
しばらくして、私たちは再び手をつなぎ最初のベンチへ戻った。
泣きやんだA君が座りながら、私の目をのぞき込んで訊いた。
「動かない?動かない?」。
「動かないよ!動かないよ!」。
そう答えながら、今度は私が泣きそうになった。
【友人からのメール】
うるうるしてきました。
そうなんだよね。
そうでなくても怖い遊園地。
でも、動かないベンチを教えてくれた校長先生、
良かった良かった、A君。
いつも素敵な綴り方を、
伊達市民の方々は、
幸せな心持ちをいただけているのですね。
* * * * *
さて、先週土曜日の「随筆『大手門』」の筆者は、
同人『楽書きの会』の主宰である南部忠夫先生だった。
先生は、この欄の執筆を始めた21年前よりずっと、
奥様への自宅介護の日々を綴ってきた。
今回の題を見て、急に鼓動が激しくなった。
* * * * *
刀折れ、矢尽き
南部 忠夫
日々介助に明け暮れていた。
ーーいる。と現在形で書いていたものが
「いた」と過去形になった。
21年間自宅介護を続けたが卒業する事となった。
7月初旬、今まで動いていた人間が
ソファから立ち上がれなくなった。
どう努力しても肝心の左脚が効かなくなってしまった。
ケアマネージャーさんと相談して
救急車で入院ということにした。
受け入れてくれる病院が見つからず
隣町の市立病院に入院させてもらった。
有り難くて病院がお社(やしろ)に見えた。
紆余曲折があって、
当市の病院に転院させてくださった。
何より困ったのは面会が
厳しく制限されていることで、
2週間に一度、15分間のみという状態で、
患者にも家族にも不安と苦痛がのしかかっていた。
どちらの病院の診断名も、
自立は困難だということを暗示していた。
自立が不可能なら自宅介護は出来ない。
家に連れて帰って来れないとなると、
終の棲家となる施設を探さなければならない。
伊達中グランドの斜め向かいに、
大きな施設が建設中であった。
家からも近いし、その施設に入れないかと願った。
心優しい主治医のお陰で念願が叶い、
新施設の老健に入居が許された。
12月1日に病院から老健への引っ越しとなり、
安住の地を得た。
21年間の自宅介護と手を切る我が家にとっても
記念すべき日となった。
* * * * *
21年に及んだ自宅での介護が、ついにできなくなった。
その経過を先生の筆は、じつに淡々と書き記していた。
急展開の中で様々な窮地があった。
そこから救われた時の心境を、
「病院がお社に見えた」「心優しい主治医のお陰」と言う。
いつものように、変わらない謙虚な姿勢に脱帽した。
しかし、どこを探しても先生の無念さがない。
その全てを題・『刀折れ、矢尽き』に込めたのでは・・・。
秘めた激しさが、いつまでも心に響いた。
この山並みが好き ~ 紋別岳
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます