ジューンベリーに忘れ物

シンボルツリーはジューンベリー
どこかに沢山の忘れ物をしてきた気がして

児童詩に 思いを馳せ

2018-06-02 13:55:55 | 思い
 (1)
 5月末、NHK北海道地方の番組を見た。
北海道クローズアップ『大地の詩人たち~十勝児童詩誌「サイロ」~』である。

 初めに、この番組の案内を転記する。

 『電気も水道もない貧しい農村が広がっていた
昭和30年代の十勝。
 サイロは、そんな農村の子ども達に
“文化の火”を灯そうと始まった雑誌です。

 これまで誌面に掲載された詩は、1万2千編以上。
日々の暮らしの中で、幼い胸に湧き上がった大切な思いを、
時代を越えて伝えます。

 創刊当時に詩が載った少女は、
70になった今も、その喜びを忘れていません。
 20年前に詩を残した少年は、
今、父親となって息子の作る詩を楽しみます。』

 創刊から58年である。
今も、十勝の子ども達が綴った詩が掲載され、発刊されている。
 その事実に、驚いた。
そして、テレビの映像に釘付けになった。
 
 『サイロ』は、十勝で暮らす人々の「心のアルバム」だと言う。
確かに、当時の幼い詩人らは、月日を重ねた今も、
詩を記した思いを忘れずに、今日を過ごしている。

 まさに『サイロ』は、十勝の人たちの宝物、そう思えた。

 さて、番組では、過去にこの雑誌に掲載された入選作のいくつかが、
コトリンゴさんの朗読で紹介されていた。
 その映像も素晴らしかったが、児童詩の魅力を再確認できた。
2編を記す。


   昭和50年入選 「 父 の 手 」
                    外堀一広(小学4年)

 父の手を見た
 シワシワだ  
 ぼくの小さいとき
 だいてくれた父の手
 その手は ふとんのようだった
 ぼくがいたずらしたとき
 たたかれた父の手
 その手は 針のようだった
 きたない 馬ふんをだした手
 屋根の雪おろしをした手
 この父の手も
 今は地下鉄工事で働いている
 父の手のシワシワは
 そんな苦労のあとなんだ


 * 外堀さんの今の手はどんなだろう。
きっと当時の父の手に似ているに違いない。
 想像するだけで、楽しくなる。
合わせて、家畜の「馬ふん」、出稼ぎの「地下鉄工事」に、
時代の背景が見えてくる。


  平成17年入選 「 幸 せ 」
中村こより(小学6年)

 幸せって 何だろう
 一体何を 幸せと言うのだろう
 畑がどこまでも 続いている
 時といっしょに 風は流れ
 すき通る青空
   夢のように雲がうかび
 小麦 ビート じゃがいも
         緑がゆれて
 あざやかな花
   きれいなちょうがまう
 終わりのない 細くて長い道
 風を切って かけぬける
 葉がこすれ合う オルガン
 川は流れて 鳥は飛んで行く
 幸せって 何だろう
 一体何を 幸せと言うのだろう
 これが 幸せと言うのなら 
 今 私は笑っている


 * 十勝の大自然を淡々と言葉に置き換え、
幸せを問う少女に、大人たちはどんな答えができるだろう。
 「これが 幸せと言うのなら
今 私は笑っている」と記した中村さんは、
その後も、幸せと言える何かときっと出会っているはず。
 そんな人だから書ける詩だと思う。


 (2)
 40年も前に買い求めた詩集がある。
『岡真史詩集「ぼくは12歳」高史明・岡百合子編』だ。

 表紙には、暗い空と荒波が描かれ、紙飛行機があった。
その紙飛行機の跡に、
小さく『ひとり ただ くずれさるのを まつだけ』の文字がある。
 そんな本の装丁に興味をもち、購入した。

 詩の作者・岡真史さんは、在日朝鮮人二世の小説家・高史明さんと、
高校教師・岡百合子さんの息子さんである。
 中学1年、12歳の夏のこと、近所の団地から身を投げ、自死した。
動機は、全く不明だと言う。
 無類の読書好きだった。

 父・高史明さんは、この詩集の「あとがきとして」で、こう記している。

『この詩集は、真史の死後に発見された詩の手帳を
もとにしております。
 真史は、人知れず詩を書いていたのでした。

 それは6年生の晩秋からはじめられて、
死のその日に終わるものです。
 ……
 その詩は、まだ幼く、つたないものであるといえるでしょう。

 しかし、人に読ませることを目的としたものではないが故に、
おのずから流れでたと思える透明な光があります。

 少年のみがもちうる多彩な色どり、陽気さ、甘さ、
弱さや無邪気さの糸に縫いこまれて、
その透明な光が、小さな輝きを放つように思えます。

 ……こう思ってしまう親の甘さをお許し下さい。』 

 私は、父・高史明さんが言う、
少年の目に映った世の暗さと光りを、
数々の詩から感じ、なかなか読み進めなかった。
 今も、12歳の少年の心を、
真正面から受け止められていないと思う。
 
 詩集発行の翌年、高橋悠治氏が10編を歌曲集に付した。
その中から、矢野顕子さんが歌唱収録した3編を記す。

   
   みちでバッタリ

 みちでバッタリ
 出会ったョ
 なにげなく
 出会ったョ
 そして両方とも 
 知らんかおで
 とおりすぎたョ
 でもぼくにとって
 これは世の中が
 ひっくりかえる
 ことだョ
 あれから
 なんべんも
 この道を歩いたョ
 でももう一ども
 会わなかったよ


   小まどから

 小まどから
 アイツは いつも
 オレをみつめる
 なんだかとっても
 オレを気にしている
 なにかもとめる
 目をしている
 目がまるで
 花びんになったみたいだ
 よし花びんに花をいれよう
 そして
 花を咲かしてみよう
 それを
 お前がもとめるのなら


   リンゴ

 あそこのリンゴ
 あと数分で
 おちるでしょう
 じっとみてます
 じっとみてます

 リンゴは
 もうえだと
 くっついていないかも
 しれないのに
 おちません
 おちません

 なんだかみていると
 まぶしくなります
 リンゴが日光に
 反射するからですか?
 それとも

 あのしんぼうづよさが
 まぶしいのですか?
 じっとみてます
 じっとみてます


 (3)
 まずは、1編の児童詩を記す。

   しゃぼん玉

 ふうっー
 息を入れた。
 どんどん大きくなる。
 まき紙を 大きくゆらすと
 音なくはなれて
 形を自分から
 フニャラ フニャラと
 作っていく
 形ができたら
 フワーフワーと
 とんでいく。

 ストローに 息をフーといれる
 次々といっぱい出る。
 小さなしゃぼん玉。
 初めは
 いきおいよく
 空中に出ると
 スピードが
 少しずつ 少しずつ
 おちて
 フンワリ フンワリ
 とんでいく。
 大きな風がふくと
 またスピードを
 上げてとんでいく。 


 我が子が小学3年のときに書いたものだ。
確か、市内小学校の文集に載ったとかで、見せてもらった。
 細かな描写に驚き、そっと書き写した。

 「見たとおり、詩にしてごらん。」
そんな指導しかできなかった私にとって、
息子のこの詩は、大きな刺激になった。





エッ! 今どき 菜の花畑 びっくり ポン!    

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