その1
まだ30歳代の頃だ。
K校長先生が私の勤務校に着任した。
すぐに児童用昇降口の外側と内側に
『おはようございます』と『さようなら』の
色鮮やかな大文字の標語を貼った。
そして、開口一番、私たち職員に、
「挨拶は大事です。繰り返し指導するようにしてください」と言った。
「ちょっと型破りな先生」が私の第一印象だった。
その後も、私のイメージする校長先生とは、
違う言動がたびたびあった。
例えば、月曜日には全校朝会があるが、
K先生は、2つの新しいことを始めた。
その1つは、祝日講話だ。
祝日がある週は、私たち教員の1人に、
その祝日の意義などについて、全校児童を前に話すように求めた。
2年に1度、輪番でその講話が回ってきた。
私の初めての祝日講話は、「11月23日勤労感謝の日」だった。
新嘗祭とからめて、「どんな仕事も誰かの役に立っているんです」。
そんなことを、緊張しながら話したことを、
今も鮮やかに覚えている。
話し終えて降壇した私に、K先生は、
「この中の何人かの先生は、やがて校長になるでしょう。
そのために、早くから講話の経験をした方がいいんです」。
当時の私には思ってもいないことで、どう応じた忘れたが、
その経験が、校長になってからの私を随分と助けてくれた。
全校朝会での2つ目の新しいことは、
なんと手品だった。
毎月第4週の全校朝会で、K先生は手品を1つ2つ披露した。
手先の器用な方で、仕掛けのほとんどが手作りだった。
成功すると、子ども達から大きな歓声が上がった。
私たち教職員も手品の推移に固唾をのんだ。
うまくいくと、何故か胸をなで下ろした。
全校児童と全教職員が、同じ1つの行為に息をひそめ、目をこらした。
みんなの心が一つになる、アットホームな素敵な時間が流れた。
そして、こんなことも・・・。
風の強い中で、全校朝会が始まった。
K先生は、朝礼台に児童用机を置き、
水の入ったコップを持ち上げ、机の空コップに移した。
空コップに貯まるはずの水が、
どこかに消えて無くなる手品の予定だった。
ところが強風で、空コップの仕掛けが動くらしい。
思い通りにいかないのだ。
ついに、K先生は私を朝礼台に呼び、
そっとその仕掛けを押さえるようにとささやいた。
狭い朝礼台の児童用机前に屈み、
強い風に吹かれながら、私は手品の小さな仕掛けを押さえた。
だが、何度試みても、水は消えて無くならない。
それどころが、私のズボンは失敗するたびに水で濡れた。
「今日の手品は、失敗でした。
来月は、必ずいい手品をします。お楽しみに」。
最後に、K先生はそう言って朝礼台を降りた。
「来月も、また補助を頼むかも!」。
K先生は、濡れた私のズボンなど気にもかけず、明るい顔だった。
不思議な魅力があった。
ズボンのことよりも、次回は必ずうまくやってほしいと、
心から思えた。
以来、K先生とは30年以上にわたり、
お付き合いをさせてもらった。
児童文化研究会では、年齢は離れていたが
会の発展を願い、共に力を合わせた。
そして、5年前、
K先生は、春の叙勲者になった。
私は、その祝賀会の発起人代表をした。
落語家さんやら、大相撲の親方さんやら、
脚本家・演劇人やら、学校関係者に止まらない面々からの祝辞に、
K先生は、最高の笑みで応じていた。
最後は、やはり得意の手品で、その会を自ら締めた。
幾つになっても、周りを楽しませる方だった。
その先生が、昨年末、亡くなった。
ご遺族は、コロナ禍のため身内だけの家族葬にした。
生前、K先生からは、そっと弔辞の依頼があった。
「家族には、伝えておく」とのことだったが、叶わなかった。
その2
4月16日の朝日新聞『折々のことば』が、心に響いた。
哲学者・鶴見俊輔さんの著「神話的時間」の一文があった。
『老いることは、自分の付き合っている他人が死ぬことなんです。
他人の死を見送ることです。』
そして、この小欄の筆者・鷲田清一さんは、こう解説する。
『大切な人、親しい誰かの死は、私がその人を亡くすこと、
いいかえると私が自分の一部を失うこと、
つまりはその人に私が死なれるということでもある。
そのかぎりで自分がずっとかかわってきた人の死は、
日づけのある一度かぎりの出来事なのではなくて、
喪失という生の体験である。
だから、後をひく。』
この『折々のことば』は、何度も何度も読み返した。
哲学者は、「老いることは・・他人の死を見送ること」と説く。
そして、鷲田先生は言う。
「大切な人・の死は、・・自分の一部を失うこと・・。
そのかぎりで・・喪失という生の体験である。
だから、後をひく」と。
昨年2月に逝った兄の納骨が、
家族の都合で延び延びになっていた。
やっと5月の連休に、
父母の待つ墓に納められることになった。
そして、連休明けには、義母の一周忌法要が待っている。
最近では、冒頭のK校長先生が逝った。
それだけではない。
教頭職だった6年間で、4人の校長先生のそばにいた。
3月にそのお一人が亡くなった。
同じ教頭職の頃、研究発表をした私を、
高く評価をし、その後の自信をくださったS先生の訃報も、
つい先日届いた。
大切な人、一人一人の死を次々と見送っている。
その度に自分の一部を失っているように思う。
確かに、喪失という生の体験が、いつまでも後をひいている。
だから、老いるのは当然なのかも・・。
しかし、どれだけ納得しても、
老いの足音は「無性に、切ない!」。
「やっぱり、不死鳥でいたい」と頭を上げる。
「そうだ!」。
失うのは致し方ない。
でも・・・、その分、得るものがあったら、
老けないで済むに違いない・・・。
さて、それができるかどうかだ・・・。
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春 到 来 ! ル ン ル ン !
まだ30歳代の頃だ。
K校長先生が私の勤務校に着任した。
すぐに児童用昇降口の外側と内側に
『おはようございます』と『さようなら』の
色鮮やかな大文字の標語を貼った。
そして、開口一番、私たち職員に、
「挨拶は大事です。繰り返し指導するようにしてください」と言った。
「ちょっと型破りな先生」が私の第一印象だった。
その後も、私のイメージする校長先生とは、
違う言動がたびたびあった。
例えば、月曜日には全校朝会があるが、
K先生は、2つの新しいことを始めた。
その1つは、祝日講話だ。
祝日がある週は、私たち教員の1人に、
その祝日の意義などについて、全校児童を前に話すように求めた。
2年に1度、輪番でその講話が回ってきた。
私の初めての祝日講話は、「11月23日勤労感謝の日」だった。
新嘗祭とからめて、「どんな仕事も誰かの役に立っているんです」。
そんなことを、緊張しながら話したことを、
今も鮮やかに覚えている。
話し終えて降壇した私に、K先生は、
「この中の何人かの先生は、やがて校長になるでしょう。
そのために、早くから講話の経験をした方がいいんです」。
当時の私には思ってもいないことで、どう応じた忘れたが、
その経験が、校長になってからの私を随分と助けてくれた。
全校朝会での2つ目の新しいことは、
なんと手品だった。
毎月第4週の全校朝会で、K先生は手品を1つ2つ披露した。
手先の器用な方で、仕掛けのほとんどが手作りだった。
成功すると、子ども達から大きな歓声が上がった。
私たち教職員も手品の推移に固唾をのんだ。
うまくいくと、何故か胸をなで下ろした。
全校児童と全教職員が、同じ1つの行為に息をひそめ、目をこらした。
みんなの心が一つになる、アットホームな素敵な時間が流れた。
そして、こんなことも・・・。
風の強い中で、全校朝会が始まった。
K先生は、朝礼台に児童用机を置き、
水の入ったコップを持ち上げ、机の空コップに移した。
空コップに貯まるはずの水が、
どこかに消えて無くなる手品の予定だった。
ところが強風で、空コップの仕掛けが動くらしい。
思い通りにいかないのだ。
ついに、K先生は私を朝礼台に呼び、
そっとその仕掛けを押さえるようにとささやいた。
狭い朝礼台の児童用机前に屈み、
強い風に吹かれながら、私は手品の小さな仕掛けを押さえた。
だが、何度試みても、水は消えて無くならない。
それどころが、私のズボンは失敗するたびに水で濡れた。
「今日の手品は、失敗でした。
来月は、必ずいい手品をします。お楽しみに」。
最後に、K先生はそう言って朝礼台を降りた。
「来月も、また補助を頼むかも!」。
K先生は、濡れた私のズボンなど気にもかけず、明るい顔だった。
不思議な魅力があった。
ズボンのことよりも、次回は必ずうまくやってほしいと、
心から思えた。
以来、K先生とは30年以上にわたり、
お付き合いをさせてもらった。
児童文化研究会では、年齢は離れていたが
会の発展を願い、共に力を合わせた。
そして、5年前、
K先生は、春の叙勲者になった。
私は、その祝賀会の発起人代表をした。
落語家さんやら、大相撲の親方さんやら、
脚本家・演劇人やら、学校関係者に止まらない面々からの祝辞に、
K先生は、最高の笑みで応じていた。
最後は、やはり得意の手品で、その会を自ら締めた。
幾つになっても、周りを楽しませる方だった。
その先生が、昨年末、亡くなった。
ご遺族は、コロナ禍のため身内だけの家族葬にした。
生前、K先生からは、そっと弔辞の依頼があった。
「家族には、伝えておく」とのことだったが、叶わなかった。
その2
4月16日の朝日新聞『折々のことば』が、心に響いた。
哲学者・鶴見俊輔さんの著「神話的時間」の一文があった。
『老いることは、自分の付き合っている他人が死ぬことなんです。
他人の死を見送ることです。』
そして、この小欄の筆者・鷲田清一さんは、こう解説する。
『大切な人、親しい誰かの死は、私がその人を亡くすこと、
いいかえると私が自分の一部を失うこと、
つまりはその人に私が死なれるということでもある。
そのかぎりで自分がずっとかかわってきた人の死は、
日づけのある一度かぎりの出来事なのではなくて、
喪失という生の体験である。
だから、後をひく。』
この『折々のことば』は、何度も何度も読み返した。
哲学者は、「老いることは・・他人の死を見送ること」と説く。
そして、鷲田先生は言う。
「大切な人・の死は、・・自分の一部を失うこと・・。
そのかぎりで・・喪失という生の体験である。
だから、後をひく」と。
昨年2月に逝った兄の納骨が、
家族の都合で延び延びになっていた。
やっと5月の連休に、
父母の待つ墓に納められることになった。
そして、連休明けには、義母の一周忌法要が待っている。
最近では、冒頭のK校長先生が逝った。
それだけではない。
教頭職だった6年間で、4人の校長先生のそばにいた。
3月にそのお一人が亡くなった。
同じ教頭職の頃、研究発表をした私を、
高く評価をし、その後の自信をくださったS先生の訃報も、
つい先日届いた。
大切な人、一人一人の死を次々と見送っている。
その度に自分の一部を失っているように思う。
確かに、喪失という生の体験が、いつまでも後をひいている。
だから、老いるのは当然なのかも・・。
しかし、どれだけ納得しても、
老いの足音は「無性に、切ない!」。
「やっぱり、不死鳥でいたい」と頭を上げる。
「そうだ!」。
失うのは致し方ない。
でも・・・、その分、得るものがあったら、
老けないで済むに違いない・・・。
さて、それができるかどうかだ・・・。
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春 到 来 ! ル ン ル ン !
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