ジューンベリーに忘れ物

シンボルツリーはジューンベリー
どこかに沢山の忘れ物をしてきた気がして

何かを探して ≪後≫

2017-08-19 14:52:00 | 思い
 若い頃、心を動かされ、胸を熱くしたのだが、
その時の私に、変化などなかった。

 なのに、今もなお胸の内で、
じっとしたまま存在しているものがある。
 それが、今後も、私を動かすことは、きっとないだろう。

 それでもなお、何故か、私から消えない、
そんな不思議な何かを探して、記すことにした。
 その後編だ。


 ③
 『よだかは、じつにみにくい鳥です。
 顔は、ところどころ、味噌をつけたようにまだらで、
くちばしは、ひらたくて、耳までさけています。
 足は、まるでよぼよぼで、一間とも歩けません。』

 これが、宮沢賢治の『よだかの星』の書き出しである。
よだかという鳥の容姿を、冒頭でこう表現している。
 痛烈で、ひどい言い方である。

 「鳥の仲間のつらよごしだ・・。」
「あのくちの大きいこと・・。
きっと、かえるの親類か何かなんだ・・。」
 鳥たちも、口汚くやゆする。

 それは、『よだかには、
するどい爪もするどいくちばしも』なく、
だから、『どんな弱い鳥でも、
よだかをこわがるはずはなかった』も手伝っている。

 ところが、
『よだかのはねがむやみにつよくて、
風を切って翔けるときなどは、
まるでたかのように見えた』。
 その上、『なきごえがするどくて、
やはりどこかたかに似ていた』。
 よだかに、たかという名がついた訳がわかる。

 当のたかはといえば、これをいやがった。
よだがの顔をみるたびに、
『早く名まえをあらためろ』と迫った。

 そして、ついにある夕方、たかはよだかに通告した。

 「首へ市蔵と書いたふだをぶらさげて、
わたしは以来市蔵と申しますと、口上をいって、
みんなのところをおじぎしてまわるのだ。
 ………そうしろ。もしあさっての朝までに、
おまえがそうしなかったら、もうすぐ、つかみ殺すぞ。
つかみ殺してしまうから、そう思え。」

 『よだかは、じっと目をつぶって考えました。
 (いったいぼくは、
なぜこうみんなにいやがられるのだろう。
ぼくの顔は、味噌をつけたようで、
口は裂けてるからなあ。
 それだって、ぼくは今まで、
なんにも悪いことをしたことがない。
 ……こんどは市蔵だなんて、首にふだをかけるなんて、
つらいはなしだなあ。)』

 よだかの素直な思いに、胸が打たれる。
同時に、たかの改名要求と威嚇、
そして鳥たちの理不尽なあの言動に怒りを覚える。

 ところが、この物語は、
たかや鳥たちへの怒りの報復に進むのではなかった。

 たかが改名を迫ったその夕方、
もううすぐらくなっていた時だ。
 よだかは巣から跳びだし、音もなく空を飛び回った。

 にわかに口を大きくひらいて、はねをまっすぐに張って、
まるで矢のようにそらをよこぎった。
 その時、よだかに3つ、類似したことが起こった。

 1つ目は、『小さな羽虫がいくひきもいくひきも
その咽喉(のど)にはい』った。

 2つ目は、『1ぴきのかぶと虫が、夜だかの咽喉にはいって、
ひどくもがき…よだかはすぐにそれを飲みこ』んだ。

 そして3つ目は、『また1ぴきのかぶと虫が夜だかののどに…。
まるでよだかの咽喉をひっかいてばたばたし…た。
よだかはそれをむりにのみこんでしま…った』。
 
 『その時、きゅうに胸がどきっとして、
夜だかは大声をあげて泣きだし……
泣きながらぐるぐるぐるぐる空をめぐった』。

 その間、空は、こくこくと変化した。
『あたりは、もううすくらくなって』、
やがて、『もう雲はねずみ色になり、
むこうの山には山やけの火がまっか』。
 そして、『雲はもうまっくろく、
東のほうだけ山やけの火が赤くうつって…』。
 その『山やけの火は、だんだん水のように流れてひろがり、
雲も赤く燃えているよう。』になった。

 こんな空の美しい変化を背にしながら、よだかは思う。

 『ああ、かぶと虫や、たくさんの羽虫が、
まいばんぼくに殺される。
 そしてそのただ1つのぼくがこんどはたかに殺される。
それがこんなにつらいのだ。
ああ、つらい、つらい。』

 さて、宮沢賢治の『よだかの星』は、
ここから後半のよだかが星になる長い旅へと続く。

 なのに、私の中の『よだかの星』は、
この『ああ、つらい、つらい。』が、
ずっと心に響いたまま止まっている。

 よだかは、羽虫やかぶと虫を食して生きる。
羽虫やかぶと虫は、命を失うことに咽喉の奥で、
最後の抵抗を試みる。
 当たり前のことだ。

 だが、今、よだか自身が命を亡くそうとしている。
そのつらさが、羽虫やかぶと虫のそれと重なる。
 だから、よだかは、それを「ああ、つらい、つらい。」と言った。
どれだけのつらさが、その時のよだかをつつんだのだろう。

 初めて「ああ。つらい、つらい。」を聞いた時から、
私は、そのつらさを推し測ることができずにいる。

 たかや鳥たちの不条理への怒りより、
命を亡くすことの失望と恐怖、自然の摂理へ、
目を向ける宮沢賢治独自のストーリー性の巧みさ。

 それよりも、命ある者にとって、
死に直面することの重さを推測すること、
それは私のキャパを越えたものと言える。
 ただ、『ああ、つらい、つらい。』が、
今も胸にズンッと響く。


 ④
 新美南吉が、高等女学校で教諭をしていた26歳の時に、
47行にもおよぶ『寓話」という長い詩を書いた。

 1人の旅人が、さびしく旅をしている。
とある夕暮れ、竹むらのむこうに灯をみつけた。
 胸おどらせ、寂しさも忘れ、たどりついた。

 やさしい人々がいて、楽しい一時を過ごす。
『だが、旅人は、なににむかえられたとみんなは想う。』
と、南吉は私たちに問う。

 その答えは、何10年が過ぎでもなお、
瑞々しいまま記憶に中にある。

『旅人は思った。
 私のいるのはここじゃない。
 私のこころは、もうここにいない。』

 そして、旅人はそそくさと、その家をあとにし、
また旅を続ける。

 さらに、南吉はわたし達に問う。
『この旅人はだれだと思う。』
そして、こう結ぶ。
『君たちも大きくなると、
 ……
 旅人にならなきゃならない。』

 この詩には、様々な感想があるだろう。
「安住の地など決してないということ!?」
「真理の探究は、
ゴールなどなく永遠に続くということ!?」
「現状を否定してこそ、
次の力が湧くといういうこと!?」等々。

 しかし、『私のいるのはここじゃない。』
旅人が、ようやくたどりついた灯に迎えられたのが、
それだった。
 そのことが、訳もなく切なくて、私の胸をいっぱいにする。

 でも、再び次を求めて旅する彼に、
少しだけ共感を覚えたり・・・。


      寓  話

  うん、よし。話をしてやろう。
  昔、旅人が旅をしていた。
  なんというさびしいことだろう。
  かれはわけもなく旅をしていた。 
  あるいは北にゆき、あるいは西にゆき、
  大きい道や、小さい道をとおっていった。
  行っても行っても、
  かれはとどまらなかった。
  ふっても照っても、かれはひとりだった。
  とある夕暮れのさびしさに
  たえられなくなった。
  あたりは暗くなり、
  だれもかれによびかけなかった。
  そうだ、そのとき、
  行くてに一つの灯を見つけた。
  竹むらのむこうにちらほらしていた。
  旅人は、やれ、うれしや、
  あそこに行けば人がいる。
  なにかやさしいものが待っていそうだ。
  これでたすかると、
  その灯めあてにいそいでいった。
  胸がおどっていた。
  さびしさもわすれてしまった。
  だが、旅人は なににむかえられたとみんなは想う。
  なるほど、そこにはやさしいひとびとがいた。
  灯のもとで旅人は、
  たのしいひとときをすごした。
  だが、外の面をふく風の音を聞いたとき、
  旅人は想った。
  私のいるのはここじゃない。
  私のこころは、もうここにいない。
  さびしい野山を歩いている。
  旅人はそそくさとわらじをはいて、
  自分のこころを追いかけるように、その家をあとにした。
  旅人はまた旅をしていた、
  また別の灯の見えるまで。
  なんとさびしいことだろう。
  かれはとどまることもなく旅をしていた。
  この旅人はだれだと想う。
  かれは今でもそこらじゅうにいる。
  そこらじゅうに、いっぱいいる。
  きみたちも大きくなると、
  ひとりひとりが旅をしなきゃならない。
  旅人にならなきゃならない。




  エゾミソハギがきれいだ <だて歴史の杜公園>

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