教職1年目は、5年生を担任した。
私は、まったく未熟な指導に終始した。
授業では、子ども中心の展開ができず、
一方的に進めるばかりだった。
それではダメだと気づいても、
授業改善の方法が分からなかった。
そんなことの打開策の1つとして、
いや、そうではなく、
今できることは何かと、手探りした結果、
私は、B5版の小さな学級通信『わっか』を、
毎日発行することにした。
当時は、ガリ版印刷だった。
3ミリ方眼のロウ原紙に、
その日の授業や子どもの様子などを、鉄筆で書き、作成した。
作業は、4畳半のアパートで、夕食後に、
学生時代から使っていた小さな折りたたみ式の座卓で行った。
1日を振り返り、生き生きとした子どもの姿、
授業の至らなさ、指導の曖昧さなどから、1つを記事にした。
『毎日、夕食の後、家族で「わっか」を読んでます。』
『学校の様子を話さない子ですが、
主人も私も、「わっか」を頂いて助かっています。』
そんな声が届き、私は勇気づけられた。
ある日、調子に乗ってしまい、
学級通信の片隅に、こんな一文を載せた。
『学校まで、徒歩で30分以上かかります。
自転車なら、10分位なのに!』
2つめのエピソードは、この文がきっかけになった。
その学級通信の翌日、放課後だった。
保護者の1人から、職員室に電話があった。
「先生、ウチに使ってない自転車があるんですけど、
どうですか。空気を入れれば、まだ乗れますよ。」
私は、すぐに反応した。
礼もそこそこ、その申し出に甘え、
退勤時間を待って、保護者宅を訪ねた。
そのお宅は、毎日往復している通勤路の途中にあった。
牛乳屋さんを営んでいた。
明るいお母さんが、迎えてくれた。
早速、店の裏手に置いてある自転車を見せてくれた。
その自転車を見た瞬間、私は一瞬棒立ちになった。
それは、明らかに毎朝牛乳配達に使っていたものだった。
車体は黒塗り、ハンドルは巾が広く、
荷台はすごく大きかった。
その上、車体を固定するスタンドが、
転倒防止用で二股になっていた。
重たい牛乳ビンの入った箱を支えるためだと分かった。
タイヤも、これまた太いのだ。
見慣れていた、
今で言うところの『ママチャリ』からは、ほど遠かった。
業務用自転車そのものなのだ。
「先生、これでよかったら、使って下さい。
あげますよ。」
その善意をこばむことなどできなかった。
早速、近くの自転車屋で空気をいれ、
自宅に乗って帰った。
息が切れた。
それまでに乗ったどんな自転車より、何倍も重かった。
通勤路のほとんどは、平坦なアスファルト舗装だった。
ところが、途中に1つだけ、
ゼロメートル地帯の下町に、橋が架かっていた。
当然、その橋も周りの堤防も、周囲より随分高く、
そこに続く道は急傾斜になっていた。
毎日、朝と夕方、
その坂道を黒い牛乳配達用自転車をこいで上った。
平坦な道でも、重たい自転車である。
それで上る橋までの坂道は、
どんなに慣れでも苦痛だった。
立ちこぎで橋までたどり着くと、息切れは尋常でなかった。
暑い日は、一気に汗が噴き出した。
向かい風の日は、怒りが先になった。
確かに、自転車で10数分の通勤にはなった。
でも、30分かかってでも、
徒歩通勤がいいと思い直した。
ところが、それはできなかった。
学校までの往復は、
必ず、その牛乳屋の保護者宅前を通るのである。
朝と夕、頂いた自転車で通らなければ、
申し訳が立たない気がした。
「いや、あの自転車重たくて、歩く方が楽で・・・。」
再び、歩き通勤に切り替えた理由を、
正直に言うことなど、決してできなかった。
もう、雨の日だけを、心待ちした。
自転車通勤じゃなくていい日は、
その時だけなのだ。
それでも、自分の気持ちを隠し、私は、
時折店先にいる牛乳屋の明るいお母さんに笑顔を作り、
そこを通り過ぎた。
そんな通勤から半年余りが過ぎた頃だ。
突然だが、お父さんの転勤で、
1週間後に転出する子がいた。
私にとって、教え子との初めての別れだった。
最後の日、みんなでいろいろ工夫し、
お別れ会を盛大に行った。
その2,3日前だ。
その子のお母さんが、転出の手続きに来校した。
帰り際、お世話になったお礼がしたいと言い出した。
「先生、何か希望の物がありましたら、言ってください。」
そんな申し出を、しきりに辞退する私に、
「じゃ、何か主人と相談します。」
そう言って、立ち去った。
まさかその品が、新車の『ママチャリ』だなんて、
その時、想像などできなかった。
お別れ会が終わり、その子は下校していった。
次の学校に、早く慣れてほしいと、
それだけを願いながら、見送った。
下校から小1時間が過ぎただろうか、
その子のお母さんが、職員室に顔を出した。
ていねいな挨拶の後、私を玄関まで誘った。
そこに、真新しい購入したばかりの自転車があった。
サドルは、まだビニールをかぶっていた。
「先生、明日から、これ使ってください。
あの自転車、先生、可愛そうで。」
ビックリした。思わぬ贈り物だった。
でも、受け取る訳にはいかなかった。
「こんな高価なもの、頂くことできません。
それに、あの自転車で十分です。」
私は、見栄を張った。
「いいんです。気にしないで、受け取ってください。
主人も、大賛成してくれたんですから、あれじゃって・・。
是非、これに乗ってください。」
お母さんは、遠慮がちに、言葉を選びながらそう言った。
こうなったらと、私は、牛乳屋さんから譲り受けたこと、
その手前もあることなど、隠さずにお話しした。
すると、牛乳屋さんへ出向き、
新車を贈ることを伝え、快諾を得ているとの、返事が戻ってきた。
もう、私は、好意に素直に応じるしかなくなった。
その日の退勤から、新しい自転車にまたがった。
あの橋も、スイスイ上った。
翌朝、牛乳屋さんの前に、あの明るいお母さんがいた。
私は、言い訳しようと、自転車を止めた。
「よかったね、先生。あの自転車、先生にあげてみたけど、
大変そうで気の毒だったから、ホッとしました。」
一気に、そう言って、ニコッとしてくれた。
急に肩が軽くなった。
「ありがとうございます。」
自転車をスイスイとこぎ、学校へ走った。
12月にボーナスを貰ってから、
お礼の品を、厳選して送った。
冬の青空 軒先のつらら
私は、まったく未熟な指導に終始した。
授業では、子ども中心の展開ができず、
一方的に進めるばかりだった。
それではダメだと気づいても、
授業改善の方法が分からなかった。
そんなことの打開策の1つとして、
いや、そうではなく、
今できることは何かと、手探りした結果、
私は、B5版の小さな学級通信『わっか』を、
毎日発行することにした。
当時は、ガリ版印刷だった。
3ミリ方眼のロウ原紙に、
その日の授業や子どもの様子などを、鉄筆で書き、作成した。
作業は、4畳半のアパートで、夕食後に、
学生時代から使っていた小さな折りたたみ式の座卓で行った。
1日を振り返り、生き生きとした子どもの姿、
授業の至らなさ、指導の曖昧さなどから、1つを記事にした。
『毎日、夕食の後、家族で「わっか」を読んでます。』
『学校の様子を話さない子ですが、
主人も私も、「わっか」を頂いて助かっています。』
そんな声が届き、私は勇気づけられた。
ある日、調子に乗ってしまい、
学級通信の片隅に、こんな一文を載せた。
『学校まで、徒歩で30分以上かかります。
自転車なら、10分位なのに!』
2つめのエピソードは、この文がきっかけになった。
その学級通信の翌日、放課後だった。
保護者の1人から、職員室に電話があった。
「先生、ウチに使ってない自転車があるんですけど、
どうですか。空気を入れれば、まだ乗れますよ。」
私は、すぐに反応した。
礼もそこそこ、その申し出に甘え、
退勤時間を待って、保護者宅を訪ねた。
そのお宅は、毎日往復している通勤路の途中にあった。
牛乳屋さんを営んでいた。
明るいお母さんが、迎えてくれた。
早速、店の裏手に置いてある自転車を見せてくれた。
その自転車を見た瞬間、私は一瞬棒立ちになった。
それは、明らかに毎朝牛乳配達に使っていたものだった。
車体は黒塗り、ハンドルは巾が広く、
荷台はすごく大きかった。
その上、車体を固定するスタンドが、
転倒防止用で二股になっていた。
重たい牛乳ビンの入った箱を支えるためだと分かった。
タイヤも、これまた太いのだ。
見慣れていた、
今で言うところの『ママチャリ』からは、ほど遠かった。
業務用自転車そのものなのだ。
「先生、これでよかったら、使って下さい。
あげますよ。」
その善意をこばむことなどできなかった。
早速、近くの自転車屋で空気をいれ、
自宅に乗って帰った。
息が切れた。
それまでに乗ったどんな自転車より、何倍も重かった。
通勤路のほとんどは、平坦なアスファルト舗装だった。
ところが、途中に1つだけ、
ゼロメートル地帯の下町に、橋が架かっていた。
当然、その橋も周りの堤防も、周囲より随分高く、
そこに続く道は急傾斜になっていた。
毎日、朝と夕方、
その坂道を黒い牛乳配達用自転車をこいで上った。
平坦な道でも、重たい自転車である。
それで上る橋までの坂道は、
どんなに慣れでも苦痛だった。
立ちこぎで橋までたどり着くと、息切れは尋常でなかった。
暑い日は、一気に汗が噴き出した。
向かい風の日は、怒りが先になった。
確かに、自転車で10数分の通勤にはなった。
でも、30分かかってでも、
徒歩通勤がいいと思い直した。
ところが、それはできなかった。
学校までの往復は、
必ず、その牛乳屋の保護者宅前を通るのである。
朝と夕、頂いた自転車で通らなければ、
申し訳が立たない気がした。
「いや、あの自転車重たくて、歩く方が楽で・・・。」
再び、歩き通勤に切り替えた理由を、
正直に言うことなど、決してできなかった。
もう、雨の日だけを、心待ちした。
自転車通勤じゃなくていい日は、
その時だけなのだ。
それでも、自分の気持ちを隠し、私は、
時折店先にいる牛乳屋の明るいお母さんに笑顔を作り、
そこを通り過ぎた。
そんな通勤から半年余りが過ぎた頃だ。
突然だが、お父さんの転勤で、
1週間後に転出する子がいた。
私にとって、教え子との初めての別れだった。
最後の日、みんなでいろいろ工夫し、
お別れ会を盛大に行った。
その2,3日前だ。
その子のお母さんが、転出の手続きに来校した。
帰り際、お世話になったお礼がしたいと言い出した。
「先生、何か希望の物がありましたら、言ってください。」
そんな申し出を、しきりに辞退する私に、
「じゃ、何か主人と相談します。」
そう言って、立ち去った。
まさかその品が、新車の『ママチャリ』だなんて、
その時、想像などできなかった。
お別れ会が終わり、その子は下校していった。
次の学校に、早く慣れてほしいと、
それだけを願いながら、見送った。
下校から小1時間が過ぎただろうか、
その子のお母さんが、職員室に顔を出した。
ていねいな挨拶の後、私を玄関まで誘った。
そこに、真新しい購入したばかりの自転車があった。
サドルは、まだビニールをかぶっていた。
「先生、明日から、これ使ってください。
あの自転車、先生、可愛そうで。」
ビックリした。思わぬ贈り物だった。
でも、受け取る訳にはいかなかった。
「こんな高価なもの、頂くことできません。
それに、あの自転車で十分です。」
私は、見栄を張った。
「いいんです。気にしないで、受け取ってください。
主人も、大賛成してくれたんですから、あれじゃって・・。
是非、これに乗ってください。」
お母さんは、遠慮がちに、言葉を選びながらそう言った。
こうなったらと、私は、牛乳屋さんから譲り受けたこと、
その手前もあることなど、隠さずにお話しした。
すると、牛乳屋さんへ出向き、
新車を贈ることを伝え、快諾を得ているとの、返事が戻ってきた。
もう、私は、好意に素直に応じるしかなくなった。
その日の退勤から、新しい自転車にまたがった。
あの橋も、スイスイ上った。
翌朝、牛乳屋さんの前に、あの明るいお母さんがいた。
私は、言い訳しようと、自転車を止めた。
「よかったね、先生。あの自転車、先生にあげてみたけど、
大変そうで気の毒だったから、ホッとしました。」
一気に、そう言って、ニコッとしてくれた。
急に肩が軽くなった。
「ありがとうございます。」
自転車をスイスイとこぎ、学校へ走った。
12月にボーナスを貰ってから、
お礼の品を、厳選して送った。
冬の青空 軒先のつらら
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